hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

由来について質問です

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

仏教は面白い。
インドから北周りに来日した文化ですが、
その途中で、様々な宗派がありますよね。
○○仏教とか、○○教とか。
あ、日蓮大聖人を正当と見ている学会もそうですか。

私の名前は、数ある仏教の中でも密教に由来します。
「強く、賢くあれ」という願いが込められたものです。
「弘」の字が含まれていますから。
名前負けしないような生活を送りたいと思っています。

公開しても私自身はかまわないのですが……やめておきます。

何をもって強くありたいのかがよくわかりませんが、少なくとも1分野で力をつけたい、強くなりたいと思っております。

何をもって賢くありたいかは、よく分かっています。私の外見、すごく賢く見えるそうです。なので、目標は「自分の外見に負けないくらい」です。
賢さは表情に出るので、終わりのない戦いになるでしょう。それは百も承知です。

内向的、と言えば聞こえは良いですが、心療内科で「うつ傾向」と診断されています。
だから、することがない時はひたすら何かしらについて考えております。
自分自身の弱さは勿論、自分を取り巻く社会のことも。

さて、自分の姿勢は曲げないつもりでいますし、曲げるのも難しいのですが、ふと、疑問に思ったことがあります。

・神仏習合前の仏教において創世記とは、ガウタマ・シッダールタ王子を出家に導いた四苦でしょうか。
・王子が悟りを開く直前に悪魔の囁きがあった、とありますが、仏教における悪魔とは何でしょうか。

不躾ではありますが、よろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教って面白いですよね

・他宗教の創世記に当たる話は「過去七仏」だと私は認識しています。お釈迦さまよりずっと昔に七人の仏がいたという話です。仏は造物主ではありませんので天地創造も国生みもしません。しかし長阿含経(じょうあごんきょう)というお経の構成上、明らかに創世記を意識して読ませる構成になっていると私は解釈しています。

過去七仏の特色は「過去七仏のうち最初の仏さままでは伝承があるけど、それ以前のことは不明」というスタイルをとっており、「どうやっても分からないことは議論しても無駄だし、ましてや心の拠り所になり得ない」という仏教の性格を象徴しています。

世界の始まりは分からないというスタイルは、仏教以前のインド神話に見られる発想です。神々が生まれた時にはすでに天地があったから、神々にも分からない…面白いでしょう?
さらに面白いことに、インド神話には複数の矛盾する創世記が共存しています。聖書みたいな造物主による創世記の話も存在します。真理は1つではないのです。

そんな自分と違う考えを認め、尊重し合えるおおらかさが仏教に受け継がれているわけですね。
だから仏教はいくらでも自分の姿勢を変えます。観音さまは三十三通りに変化します。三十三の化身の中に真っ直ぐな一本の芯が通っているので、いくら変化しても曲がりません。
実際、お釈迦さまの時点で神仏習合の傾向が見られます。一般の人に語る時は一般常識である仏教以前の宗教や神話を意識し、一般人の目線に合わせて語っています。その懐ろの深さ、広さ、大きさが仏教の強さです。

・仏教に当たる悪魔は心の弱さを象徴しています。要するにお釈迦さまにも色々と葛藤があったわけですね。また、日本に入ってくるよりずっとずっと昔の仏教では、出家者を世俗に戻そう戻そうとするベクトルを堕落と見なし、悪魔で象徴することもありました。

さて、仏教は仕事や受験で結果を残す能力を求める宗教ではありません。同じカシコサでも世間的な頭の良さを知恵、仏教的な賢さを智慧と書き分けます。強さも世間的な強さとは別物です。
せっかく密教に由来する名前をいただいたのですから、仏教的な智慧や強さを目指していただければ幸いです。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
このお坊さんを応援する

お釈迦様の教えによれば、この世は常に移り変わる世界です。ですから創世というものは無く、表現することもできないくらいの遥かな昔から今まで、そして遥かな未来永劫まで続いている世界です。

お釈迦様が瞑想している時に十の悪魔が妨害しようとしました。
第一の悪魔軍、欲望
二、嫌悪
三、飢渇
四、渇愛
五、憂鬱と眠り
六、恐怖
七、疑惑
八、偽善と強情
九、正しい方法では無く得た利得と名誉と尊敬と名声
十、自分を褒めることと他者を貶すこと

つまり、お釈迦様の心の中のことなのです。

ちなみに、悟りを得た後で梵天という神様に人々に布教するようにお願いされました。
この梵天はお釈迦様の心の中に現れた神様です。

人の心には悪魔も梵天も存在するのです。
悪魔を制して、梵天に従って生きていきたいものですね。

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

【大慈様】

「面白さ」を魅力的に引き出してくださり、
お名前通り、大きな慈悲を感じました。

私が特に面白さを感じたのは、有名な「芥子の実」のお話です。
亡骸を抱えた母親に「死人を出していない家庭から芥子の実を貰っておいで」と言い、
それに倣った母親はやがて、「絶望は乗り越えるものだ」と気付き、
仏門に入りましたね。
おそらく、その母親にとっての悟りは、「絶望を乗り越える」ことです。

仏教でありながら、その根底は、まさに「考えさせること」「気付かせること」で、
「教えを説くこと」は本質ではないのかな、と思いました。
本当に面白いです。考え甲斐があります。
こうして、少しずつ「智慧」をつけていきたいと思います。

【聖章様】

確かに、文化・文明に終着駅はありませんね。
半年ほど前の質問で、「法=かくあるもの」と解釈しました。
(同時に、「法律=かくあるべきもの」と解釈しました。)
まさに、その「法」ですね。

今、ようやく聖章様の書き込みで、ヒントを得ました。
「川を去るものは魂だけじゃないんだ。時間もそうなんだ」と。
半年前は「法=『さんずい(川)』+『去る』=魂」と、凝り固まっていました。

挙げていただいた十の悪魔軍に、「おや?」と思うものがございます。
飢渇です。
これは、おそらく断食修行を40日もの間続けた直後、
瞑想に入る前ではないかな、と思われます。

断食修行の後、琴の音を聞いて、自分を弦に例え、
「やりすぎれば切れる。緩むと響かない」
的な言葉を残していらっしゃいます。
そして村娘に差し出されたヤギ乳を口に含んだ、と。

私はサンスクリット文字を読むことができないので、
文献を読み取ることができません。
なので、おそらく、ですが、当時は仏陀という名前でしたか?
仏陀のお弟子さんがそのインパクト故に
「飢渇」を思わず入れてしまったのではないか、と思われます。

しかし、理にかなっていますね。
「欲求」は、我々は生物なので神の導きであり、
「欲望」は、まさに悪魔のささやきです。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

辛くても悲しくても笑っています

わたしは辛くても悲しくても笑ってしまいます。 人から何か言われたり、コンビニの店員さんに答えるだけでも笑ってしまいます。 本心からならいいんです。 でも、心の中は黒い感情でいっぱいです。 たとえば『気安く話しかけてんじゃねーぞ』とか 仕事中なら『お前サボってねーで手伝えよ』とか。 こうなってしまったのは子供の頃、父がわたしに理不尽な事をした時に 怒ってにらみつけたり、泣いたりするとものすごい怒声と暴力があったからです。 それから人前で本心をさらけ出すのが怖くなり、どんな状況でも笑ってしまい、身を守る癖がついてしまいました。 たとえばどうしても嫌な事でも頼まれ続けると受け入れてしまい、その後、その後始末で何年も悩むとか、その後の人生がその時の尻ぬぐいのような感じで終わってしまいます。 頭ではわかっているのですが、条件反射的にそうなってしまいます。 自分の人生を、自分らしく、自分の感情や気持ちを偽らずに生きていくにはどうしたらいいでしょうか? 頭や心では万人に好かれなくていい、自分が好きな人だけに好かれたらいいと思っていてもどうしてもその癖が抜けません。 笑わなかった後の相手の反応がわからず困っています。

有り難し有り難し 3
回答数回答 2

父親から煽られる不安や苦しみについて

はじめまして、ときおりHasunohaを覗いて元気をもらっている者です。 父親からの苦しみについて相談させて頂きます。 父親に人生やキャリアの話をすると、その返答に異様に不安を搔き立てられてしまいます。 昨日も、父親と話しているときにはそこまで不安を搔き立てられなかったのですが、寝るときになって悪夢にうなされ、明け方震えで目が覚めました。 以前会社を転職する際も、今から上司に謝って会社に残らせてもらえ!と怒鳴られました。次の会社から海外留学するときも、ようやく落ち着いたと思っていたのにこれらからどうするんだ、いい年だぞと言われました。海外でなんとか職を得て働き始めた今、冒頭の電話をしたら、そんな給料ではやっていけない、その年(アラフォー)になって、仮に日本に帰ったときに仕事があるのか、などなど。とにかく、年齢のこと、お金のことを言われます。 何より、父親と話すと、自分の人生のすべての決断が間違っているように感じます。私は今まで自己肯定感は強い方だったと思います。でも、父親と話すと、とにかく不安ばかり煽られます。言われれば、上場企業で何もせずに定年まで過ごせば一番金銭的にも良かったと思うことがあります。日本企業の安定的な環境のことや退職金など自分が失ったことはよくわかっているのです。苦労して海外で職探しなどしなければよかった、海外なら駐在員でも目指して適当に過ごせばよかった。自分はまともに仕事をして(会社には適当に仕事している人もたくさんいました)、自分のキャリアも考えたり、真面目に働いてきたつもりだったのに、なんでこうも苦しい道ばかり選んだのだろう。自分や自分の人生を肯定できないこと、とても辛いです。また、この自己肯定感は母親がありがたくも与えてくれたものだと思っているので、よけいに苦しいです。 心配してくれているからこその父親の言い方なのだとか、自分はまだまだ学ぶことが多いのだとか、お金だってまだこれから稼ぎうまく老後を過ごすよう努力すればよいのだとか、頭では考えられます。でも、もう不安を煽られたり、年齢のことを言われたり、せっかく一時帰国して会いたいという話をしても今は仕事を頑張るときだと断定されたり、疲れてくるのです。 質問のポイント、背景のご説明も不十分、乱文で大変恐縮ですが、それでも何かお知恵を頂けたらありがたく存じます。

有り難し有り難し 1
回答数回答 1

諦める(明らめる)には

こんにちは。 私は、家族に対する期待があり、それを得られないことで苦しんでおります。それを諦めることはできるでしょうか。 私が家族に期待することは、たとえば私が泣いていたら「大丈夫?」「そばにいるよ」などの心配や寄り添いをしてもらうことです。 私の家庭環境は、仕事命で子供には無関心だった父、幼少期に喧嘩して大人になるまで無視され続けた兄、過干渉で頭ごなしに怒る母でした。家庭の中で安心して甘えられる相手がおらず、友人も少なかったです。 大人になって現在、私は結婚して夫と二人暮らしです。夫は付き合っている時は愛情表現が割とあったのですが結婚してからはすっかりなくなりました。さらに、どうやら夫は発達障害の特性があるようだと分かり、他人に共感することがとても苦手な人なんだということが分かりました。 こういうわけで私の家族は、私が求める形で寄り添える人はいません。愛情はそれだけでは無いと頭では理解しています。 父は、お金は何不自由なく出して育ててくれましたし、兄との喧嘩はお互い様です。母の過干渉も心配や愛情からくるものだと理解しています。夫が共感が苦手なのは別に悪いことではありません。 それでも、私は自分が誰かの目の前で泣いている時に誰も声をかけてくれないことが心から辛いです。自分には心配される、愛される価値がないんだとまで思ってしまいます。 「まずは自分から愛すること」や「自分で自分を愛すること」を心掛けてはいるのですが、なかなかうまくできていません。心のどこかで愛されてない自分を諦められない、もしくは納得いってないのかもしれません。 仏教では、諦める=明らめる、ということだと知りました。現実を直視しそれを受け入れて楽になることは私1人でもできるでしょうか?

有り難し有り難し 6
回答数回答 2

母からの虐待を知り辛い。過去の乗り越え方

(編集部より。規約により投稿の一部を変更しています) 30才男性です。この年になって、母親から1〜3才の頃にムチ打ちをうけていた事を知り、何故か悲しい気持ちになり悩んでいます。 私の母親は、ある宗教を信仰していて、父と兄、自分は信仰をしていませんでした。私が幼少期の頃、ストレス性などでなるような病気で手術をして半年程入院しました。 10代の頃はよく他の家庭と違う事や自分の病気の事なので、我慢する事が多く苦しい事が多かったです。 ここ最近、自分が信仰はしていないのですが、母や自分の病気の影響をうけて抑制的?自己犠牲的な考えで生きていた事で、婚約者を傷つけ後悔する事があり婚約者から愛情を感じないと言われました。 それを言われて本当は何をしたいのか悩む事や、過去を知りたいと思い、母親に、自分にもムチ打ちがあったのか聞いてみた所、事実があった事を知りました。 1〜3才の頃だったのでほとんど記憶にはなく、なんとなくあったかもぐらいの記憶でした。 ただその事実を知ると、ふと悲しくなってしまいます。 愛情なんてえられない。どんだけ努力しても手に入らない。と考えてたり、どうせ自分なんて、と考えたりします。 もちろん母にも事情があり、愛情がなかったわけではありませんし、これから自分の生き方をみつけて前向きに生きればいい。その辛い事を乗り越えた自分を褒めたりと頭では理解できているのですが、 何故かふと悲しくなって涙が出てしまう事があります。 これはそういうものと受け入れるべきなのか、親になんであんな事をしたのとぶつけるべきなのか(悲しませたくないからしたくない。)と考えがぐちゃぐちゃになって、今まで良いと思っていた生き方が、なんでそんな生き方をしてたんだろうと、日々悩んだり悲しくなります。 どう自分の辛い過去を乗り越えたらいいでしょうか。 うまく考えがまとまらずすみませんがよろしくお願いします。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

若い後輩の身なり、服装などが気になる。

 ご無沙汰してます。紆余曲折の末、今は相性のいい仕事についていると感じています。  ただ気にかかるのが後輩の若い男の子の服装や態度です。 Yシャツをズボンから出したまま、仕事しています。 私もYシャツをズボンから出したほうが楽です。 でも公共の施設で従事しているため、市民に対応する服装としては失礼だと思い、会社支給のポロシャツを着ています。 その子には機会があっておかしいのではということを伝えました。  そしたら彼はのらりくらり言い訳して最後は「自分もこの会社支給の(ださい)ポロシャツ着なきゃいけないんですかねぇ。あははっ」と私のポロシャツの袖を詰まんで、そう言い放ちました。 正直カチンと来ましたが、幼稚園児に泥だんごをぶつけられたと思うことにします。 そして今シャツ問題は(決着はつけてくれるそうですが)館内でうやむやになっています。  しかしながら、私どういう気持ちでいて働けばいいんですかね? 館の方針としてシャツ出していいのなら、今まで自分の中でだけ気にしていた、お客さんのことなんて気にせず、自分もYシャツ好きに出してしまっていいと思いますか?(ある意味闇堕ち)、ちょっと答えに悩んでいます。  服装の身なりは究極個人の主観でしかないし、時代とともに変わるものです。 そして、私は不躾で失礼な彼にはどう振舞えばいいか。 また、彼じゃなくても間延びした返事、会社の私物(マーカー)や引き出しを乱雑に扱う、そういう新人はいずれどうなるのでしょう?  館内はそれを指導する人がいません。 そして、10年20年後はもっと飛んでもないマナーのない新人が、入るのではと考えると…げんなりしますね…。 私の愚痴に付き合ってくれる僧侶様がいたらご回答お願い致します。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ