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近くにいた祖父母

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年末に祖母、3日前に祖父が亡くなりました。
たった2ヶ月で祖父母を失いましたが、未だに実感が湧きません。
住む家は違いましたが、歩いて10分ほどの所に住んでいたふたり。
近くのスーパーに行けば祖母がいて、家を訪ねればパソコンをいじっていた祖父。
どんなに泣いても、いないってわかっていても、また会える気がして自分でもよくわからなくなっています。

近くにいたからこそ、また会えると思っていた自分が悔しくて、それが後悔でもあります。
生きている間、もっと家に行けばよかった。
話せばよかった。
「ありがとう」ってたくさん言えばよかった。

この後悔は時間が解決してくれるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「ありがとう」という気持ちを伝えていくことです

 この度は、御愁傷様です。大切な方々を喪った悲しみはなかなか癒すことは出来ません。よく時間が「解決する」と言われますが、単なる時間の経過だけで立ち直るものではありません。
 
 感謝する気持ちを行動に示すことが、大事です。例えば、毎日位牌や遺影の前に行き、線香をあげ手を合わせる。もしお経を唱えられるなら、お経も唱えましょう。毎日、お祖父さんの家に行くのが難しい場合は、お祖父さんの家の方に向かって手を合せましょう。
 
 それと、今専門学校で勉強しておられますが、勉強で学んだこと、気づいたこと、身に付けたことを、お祖父さんお祖母さんに語りかけ報告してあげてください。あなたが一生懸命勉強をしていることを報告すれば、きっと喜んでくれますよ。ちゃんと心込めてお参りし、丁寧に近況報告すれば、お祖父さんお祖母さんにあなたの気持ちは伝わります。そして、お祖父さんお祖母さんに見守っていただいていることを実感し、遺品や思い出の場所を御縁として身近に居ると感じる時があると思います。

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個別相談可能
 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

やがて守られているという感覚にかわります

私にも大好きなお婆ちゃんがいました。
早くに亡くなられてしまいました。
母が言うには褒めてくれていたそうです。
それがなんだかうれしくて今でも根拠のないスゲー自身につながっています。
今晩、お父さんお母さんに、
「おじいちゃんおばあちゃんが、なにか私のことよく言ってくれてたことがあったら教えてほしい」と尋ねてみてください。たくさん聞いてみてください。
ご両親にとっては、実の両親。リアルパパママですから、聞いてくれると思いだしてお話しできることが嬉しいでしょうし、おじいちゃんおばあちゃんも、食卓で自分たちのことを話してくれるのが嬉しいと思います。
いつの日か、その事があなたをちゃんと支えてくれます。いつまでも見守って下さるように、手を合わせてよく思いをお伝えしてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

毎日遺影に語りかけて、祖父母と会話する時間を作ろうと思います。
心が救われました。
ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ