潰れても自己責任だ!収入減も自己責任だ!学習の遅れは自己責任だ!
コロナウイルスによって、日本における自己責任論の蔓延が露呈したと感じています。
私が困っているあの人で、困っているあの人が私だったかもしれない。
それなのに!困っている人達を自己責任だと言って切り捨てようとする人達を見ると、本当に悲しくなります。
つい最近まで自己責任論など成功した大人だけの理屈だと思っていました。
しかし思った以上に自己責任論を展開する人が多く、またそう言った主張に多くの賛同が集まっています。
こんな冷たい世の中を生きていけるのかと不安になります。
自己責任論自体を否定する事は、恐らく出来ません。
自分だって自己責任論振り回していた可能性は十分にあるので、彼らを否定する事も出来ません。
やり場のない憤りと不安で苦しいです。
どの様に向き合って行けば良いでしょうか?ご教示下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
はじめまして。
自己責任論。
耳にすると、人情の無さになんとも嫌な気持ちになります。
だからといって人助けって、簡単じゃありませんが、
出来る出来ないじゃなく、
こまった人がいたら、わいわい人が集まって、あーでもないこーでもないと
世話を焼く。それが世間の良いところ。
そう思います。
そういう「つながり」がある人たちも、まだまだいますよね。
いまネット上にはそんな「つながり」がないひとが、あふれてて、
そういうひとがネット上の主流をしめているのかもしれません。
自己責任論は、一理ありますが、困ったときはお互い様という、
そういうセーフティーネットがあるから安心して頑張れますよね。
人を切り捨ててストレス発散してるのかな?
自分もつらい目にあって、我慢してきてそうなってしまうのかな?
世の中、みんなもう負荷に耐えられなくなっているのかな。
ひとのあったかい部分をみんなで感じていける社会にしたいものですね。
本来、人はいるだけであったかいものだと思います。
以下、ご参考に。
https://note.com/cohee/n/n43fa35404987
天台宗の回向文(お経などの功徳(くどく)を振り向けるお経の一節。)では、「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」(がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう)」です。
これは、「願わくは此の功徳を以(も)って、普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生(しゅじょう)と、皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを」といった意味で、みんなが仏教で成道(悟りを得られるように)と願うのです。
私の浄土宗では成道(じょうどう)の前に往生(往き生まれる事特に西方極楽浄土に生まれて成道すること)を最大の目標にしますから、「願以此功徳(がんにしくどく) 平等施一切(びょうどうせいっさい) 同発菩提心(どうほつぼだいしん) 往生安楽国(おうじょうあんらくこく) 」といいます
書き下すと、「願わくばこの功徳をもって、平等に一切にほどこし、同じく菩提心を発(おこ)して、安楽国へ往生せん」となります。
ただ、三句目でみんな同じように仏教を信じてとなっているのは皆具成仏道と同じようなことと、私は解釈しています。
いきなり仏教教義から入ってごめんなさい。
一般的に言えば、自助・共助・公助というのがありますね。
ですが、昨今はおっしゃる通り、自助努力だけを求めて、共助や公助に頼るのは悪といった自己責任論が多い。
それは、やはりグローバルニズムで、日本をよりアメリカのような国にしようという流れなのだと思います。
アメリカのような個人主義で自己決定論が強い国に日本がなるのは私は無理ですし、なるべきではないと思っています。
アメリカは国民皆保険すらないのですからね。
そう、自己決定論はセイフティネットも否定する傾向にありますね。
日本には憲法を根拠にした生活保護というセイフティネットがありますが、それを受けている人への風当たりがいかに強いことか。
自分もいつその立場になるかわからないのに、大上段に語る人が多すぎます。
自負はだいじですが、だからといって他人を傷つけてはいけないと私は思います。
日本はみんな助け合って暮らしてきたのです。狭い国土ですからね。今もコロナ禍(か)にみんな自粛という形で協力し合って、だいぶコロナも収まってきたではないですか。
シュンヤさん
質問を読ませていただきましたが、少し抽象的ですね。
自己責任論をたてに、あなた自身が切り捨てられたのですか?
そうでないとしたら、あなたの身近な人がそういう目に遭いましたか?
どうも、読む限りそうではないような。
間違っていたらごめんなさいね。
確かに、ネットなどで一部の人が騒いだり、テレビのニュ-スなどで色々と言われたりしていますが、それが全てではないと私は断言します。
「一水四見」という禅語があります。
水は、人間にとっては普段の飲み水であっても、魚にとっては住処であり餌を求める生活の場となります。
天人には、きれいに透き通ったガラスのように見え、餓鬼には飲もうとした瞬間、火に変わる苦しみの水となります。
同じ水でも、人間・魚・天人・餓鬼とでは、それぞれ異って見える、という例え話です。
世の中は、君が思っているよりもはるかにでかいよ。
物の見方も価値観も人によって千差万別だよ。
君は若い、これからもっともっと広い世界に飛び出して、広い視野を身につけて下さい。
僕や近くの人が実際に何かあったと言うわけでは無いです、言葉が足りませんでした。
ありがとうございます。頑張ります!