女なのか、男なのか。
女なのか、男なのか、はたまた別の生き物なのか。
僕は女として生まれました。
幼い頃は女であることに疑問はありませんでした。
(と云うか、女とも男とも思ってなかったのかも?)
周りの女の子たちに生理がはじまり、胸の膨らみがあらわれるようになった頃です。
僕は僕に疑問を持つようになりました。
僕は女じゃない。
でも、男でもない。
定まらない性が、今も僕を苦しめます。
スカートもいつしか嫌いになっていました。
心の中で男っぽい服装の時は男装と言い、女っぽい服装の時は女装と言っていました。
女で生まれた以上、それを捨てることはできません。
胸も膨らんでいれば、生理もあります。
それがとてつもなく辛い。
胸を切り落とし、腹を切り裂いてやりたい。そう思うこともあります。
これが生きているのが辛い理由でもあります。
両親にはほぼ何でも話すので、このことも知っています。
一人称はその時によって違います。どれもしっくりしません。
僕、私、ウチ、おいら、自分、俺、色々ですが、まだ僕がマシなので今回は僕にしました。
一人称を定めたいという訳ではないです。
男とか女とか別にして、一人の人間として生きればいいというのは分かっています。
でも、この体でいるのが辛いのです。
何かアドバイスを頂けると嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
性別を超えましょう
人は無自覚の時、年齢を忘れています。
自分が病気であることも、年を重ねていることも、どこの生まれかも。
人は過度に自分を意識していない時、自分が何者かもわかっていない。
男であることも忘れている。女であることも忘れている。
それでいいのです。
決めなくてよいのです。
自分の体は、人間界の性別の分け方以上の在り方なのですから。
性別を男女だけに分類すること自体小さなものの見方なのです。
あなたはもっと大きなものの見方の世界を持つ人たちとかかわりを持ちなさい。
性別を超え、年齢を超え、自分の肩書きを忘れ、いまこの時、一切を忘れ只の人間に成るといいでしょう。
その瞬間に救いがあるでしょう。
自分からの縛られがなくなるからです。自分からの縛られがなければ過去の人間が決めたルールから拘束されることはありません。
結論:あなたそのものをいきよ。
見守って
私の住む町は、町のお祭りとして20年くらい前から阿波踊りをおこなっています。
私は今は引退しましたが昔は太鼓を叩いたり、祭りに参加したい子供達に踊りを教えたりしていました。
そんな子供の中に一人の小学校5年生くらいの女子がいました。
その子はちょうどお祭りに入ってきた頃に「男子になる」と宣言して男子として生きる道を選びました。
中学生高校生のころはわざと不良仕様の学ランを着て、女子を連れてよく町を歩いていました。
顔に大きなけんかキズをつけていたときもありました。
今その子は大人になり、普通にジーパン姿で仕事に出かけています。
このあいだ「(性について)どうするんだい?」って聞いてみたら「さあ?まぁぼちぼち」と言って笑っていました。
あなたやこの子のような悩みを解決することは、私たち僧侶にはできないかもしれません。
しかし人として毎日を生きていくことを見守っていく事はできます。
回答になっていませんが、あなたの苦しみが少しでも癒やされるように祈っています。
敬意を表します
たまさま
なごみ庵の浦上哲也です。
今回の文を読み、今までのご質問に書かれていた苦しみの根底にはこれがあったのかと感じました。
詳しいことは存じませんが、「性同一性障害」という言葉を聞いたことはあります。常に強い違和感を感じながら暮らすというのが、どれだけ辛く苦しいことか、想像を絶するものがあると思います。
「五王経」というお経に…『人身は四大和合によりて成ず。四大とは地水火風なり。一大調わざれば百一の病を生ず』という部分があります。
たまさんは身体と心の性が調わずに苦しみ、また周囲の理解はなかなか得られず、嫌な思いを重ね、またアトピーやうつ病にも苦しめられてきた。
どの苦しみも、たまさんの責任ではないと私は思います。そんな多くの苦しみに今までよく耐えていらっしゃいましたね。果たして自分であれば耐えられるかと想うと、私はたまさんの忍耐に敬意を表したいと思います。
話は変わりますが、戸籍の変更や手術など様々な方法があるようです。ご両親もたまさんのお気持ちをある程度ご存知とのことですので、少しずつでも進めていくことは難しいのでしょうか。「それが出来たらとっくにしているよ!」と叱られてしまうでしょうか。
あと私に出来ることは、たまさんが安らかなお気持ちになれるよう念じること、そしてhasunohaの場でお話しを伺うことだけです。苦しい時には、またおいで下さい。
お礼を拝見しての追伸
本文に「詳しいことは存じませんが」と書きましたが、私、その言葉通り馬脚を現しました。てっきり性同一性障害と思い込みお返事をいたしました。
ご気分を害しましたら申し訳ないです、失礼いたしました。
より良く幸せに過ごすために
たま様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「身体的自己嫌悪感・違和感」が強くあるということになるのでしょうかね・・
「女なのか、男なのか、別の生き物なのか。」・・とにかく性急に自分の判断だけで決めてしまう、あるいは、無理にいずれかにて自分を納得させようとする必要はないかと存じます。
問題は実社会における生活への支障や弊害があれば、それをできるだけ少なくしていけるように、周囲の理解や支援、援助を求める必要があるのではないかとは存じます。
その支障や弊害の度合いによっては、精神的な負担が大きくなると、ストレスによる不眠症や摂食障害、何らかの依存性を発症してしまったり、または、うつ病などの心の病となってしまうことも考えられます。あるいは、「胸を切り落とし、腹を切り裂いてやりたい。そう思うこともあります。 」とございますが、その思いが、やがて強くなり過ぎると自傷行為や自殺企図まで至ることもあり得るため、慎重に善処を目指される必要があるのではないかと存じております。
一つには、既にされておられるならば誠に余計なこととなりますが、やはり医療・心療・保健機関へとご相談なさられてみることで、善処へと向けた適切な治療・支援・援助を受けられるのが良いのではないかと存じます。
もしか致しますとその過程で「性同一性障がい」の疑いも出てくるかもしれません・・もちろん、「障がい」と言ってしまうと、どこか嫌悪感が生じてしまうかもしれませんが、本来、現代社会で一概に規定されているような「障がい」の有無に関係なく、私たちは皆一様に、無明(根本的無知)・煩悩・悪業(つまり、煩悩障・所知障)という障り、つまり、「障がい」を抱えており、日々生きていく上で様々な悩み・迷い・苦しみがあるかと存じます。
それをこれは「障がい」で、これは「障がいではない」と一律に決めつけてしまうのではなくて、そんなことよりも、それぞれにおいて、その心のありようを改善させ、成長させていくことにより、悩み、迷い、苦しみを解決させて、より良く幸せに過ごすことができるように調えていくことが大切になるのではないかと存じております。
仏教は誠にその一助として良き処方箋になるのではないかと存じます。是非この機会からも学びを進めていかれますことをお勧め申し上げる次第でございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
浦上哲也様、覚誉浄順様、ご回答ありがとうございます。 補足です。ちょっと言葉が足りなかったかもと思いまして。「僕は女じゃない。でも、男でもない。」と言いました。「でも、男ではない。」とは、今男ではないという意味ではなく、男になりたいわけでもないという意味です。ややこしくてすいません。 男か女の2つしか選べないとしたら、男であった方が嬉しかったかもしれない。でも、どうしても男になりたいわけではないんです。ただ、この女の体でいるのが辛いんです。なので僕が知る限り、性同一性障害ではないと思っています。
丹下覚元様、回答ありがとうございます。
川口英俊様、ご回答ありがとうございます。