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支える幸せ、繋がる幸せ

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有り難し有り難し 17

いつもありがとうございます。
お世話になっている存在の人事異動が決まりました。ある晩呼び出され、後輩に締めの引き継ぎをする傍らで「お話、何でも聞きますから」とお互いに生い立ちや辛い過去、家族関係や家業を教えてくれ、私の過去についても話しました。
複雑な私の既往を「また新たに次の治療者へ繋ぐ」選択肢よりも「遠くても継続してお世話になる」ほうが良いと伝えました。
異動先は、私が今までかつてお世話になっていた「かかりつけ治療院の二駅先」です。彼は「遠くまで通うのは苦じゃありませんか」「むしろ電車に乗る間、家に帰らずに済み、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、息抜きができる楽しみな時間です。人事や他の先生方には、反対されませんか」と伝えると「過去にも異動に伴う転院例はありますし、その点は大丈夫です。ただ、他にもいい先生はいますし、わざわざ来てもらうのは申し訳ない…」「どんなに良い評判の先生でも…むしろ婉曲に断っています?」「いえそんなことは」小一時間じっくりお話ししました。
環境変化に伴い彼自身も変わることがあるはず、今までのように毎日交流する頻度は減りますし、未知の院へは緊張します。いずれにしても、お互い信じ合いながら、これからも成長し続けることを祈っています。
ある日、彼の休日に私服姿で院にいるのを見かけたので私のお店に誘った所、夕方時間通りに後輩と二人で来てくれました。ご馳走すると言ったのに「申し訳ないから」と結局彼が全部出しました。閉店後、マスターは「いい男だ。モテるぞ」「そりゃそういう職業、人から好かれなきゃ…だもの」と翌日、お礼に私から副業先の手作りパンを差し入れたところ、その晩の治療で「美味しかった、あれは何て言うんですか」と喜んでくれました。パン屋は来年1月、有名百貨店の催事出店を控えており私も協力する予定で、彼は「〇〇ですか?それはすごい」と感嘆していました。
他の患者さんの前で彼の公私混同の心が漏れ出した場面では私がその場を離れて、後からフォローしすぐさま彼に「ごめんなさい」と深々謝られるなど、若さ故未熟ながらも、とても素直で従順なところと、私からの気づきをよく聞いてくれお互いに頼りになる存在です。
私は恋愛がしたいのではなく…願はくは真の友人、伴侶として。彼にも強い結婚願望と、子育てにも興味津々な様子。その相手が誰にせよ、私は彼の幸せを祈るばかりです。

2023年12月24日 12:39

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

信頼や絆を感じます。良き関係は、互いへの思いやりの積み重ね

あなたと彼との、信頼や絆を感じます。良き関係は、互いへの思いやりの積み重ねでしょうね。
これからも、環境や状況は変化していくでしょうけれど、その時に一緒に考えながら、安心できる居心地を保っていけたらいいですね。

異動と聞かれてビックリされたでしょうけれど、通える距離でよかったですね。ゆっくり語り合う時間も持てましたしね。

2023年12月24日 16:06
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有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。
何度も何度も読み返し、夕べも仕事に専念しました。すす払いを前に、「心を磨き、行いを磨き…」そんなお坊さんのお話を耳に受けながら、あっという間に師走も残りわずかです。
お客様からいただいた、和歌山のあんぽ柿を治療院の先生方全員分と、作務の仕事先のシニアの先輩方にお配りしました。「あんなに美味しい干し柿は、初めていただいたわ」と、お返しに飴やおやつの詰め合わせを山ほど頂戴しました。「お疲れが出ませんように」と、いつも私一人では十分過ぎるほどいただくので、午前の作業のあと、お寺→治療院→お店への道中で、お裾分けするのがこのところの習慣でした。
介護福祉施設での経験が、今の職場の人間関係にも生きていますし、作務の仕事もおもてなしやサービス、調理の仕事も、未来に繋がる修行・貴重な経験だと思うと、本当に有難いご縁に感謝でいっぱいです。
まずは、取り急ぎお礼まで。

あらためまして、温かな言葉に御礼申し上げます。
治療の際、他の患者様への接し方において、「大丈夫なのだろうか」という面が伝わってきました。もし、傍に指導や管理監督にあたるリーダー・メンター・育成者=「お師匠さん」がいれば、きっともっと人徳のある治療家として成長しているのかもしれません。買いかぶり過ぎかもしれませんが、きっとまだ、熱いうちに打てば間に合うような気もします。ただし、間が空けばどうなるか…もし仮に、彼に彼女なり奥さんがいたら、それはそれで苦労しそうな、という老婆心ながらの気づきでした。

わかったことは、結局のところは「どんなに良いと思った人でも、そのうち未熟な面が必ず見つかるのが他人」「だから、誰と一緒でも苦労は尽きず、そこから学びもあるのが人生」「まだまだ道は途中で、出来事のたびに発見と反省、感謝の連続」「それを受け容れて楽しみ、支え会えることが人として生まれた醍醐味なのかもしれない」ということです。

また、お会いして対話できる機会を、仏さまは設けてくださるかどうか。チャンスがあれば、もとい、チャンスを手繰り寄せてでも伝えなければ、真の友人ではない、ただの通りすがりの一期一会です。

明日、年内最後の隙間を縫って、彼の大切な家族の供養をしにお寺へ伺います。
「これが最後になるかもしれない」といった先の治療で、副業先の手作りの「おせち料理をかたどったお菓子」を「お父さんにどうぞ」と渡しました。
最期に交わした言葉「今度、会いに行くからな」と突然旅立ったお父さんが、今のあなたの仕事ぶりを見てどう微笑み、どう喜んでくれるか、彼の心の中に、お線香をあげてこようと思います。
その灯の明るさが絶えず、彼の道を照らしてくれますように。決して目先の損得や邪な道に迷うことなく、真っ直ぐに少しずつでも、いつか立派な治療家として努力が実を結ぶ日がくることを、陰ながら願っています。

その節は温かい励ましをありがとうございました。
突然の異動のきっかけが、他でもなく私にあったのではないかと、ずっと気がかりでした。
年末最後の治療では「茗荷さんとは、今日が最後かもしれません。まだ異動先に行っておらず、どんな様子かわからないので、この先の予約も何とも言えないのですが…本当に向こうまで、来られますか?」婉曲に距離を置こうとされているのか、そんな終わり方でした。

自死か、事故かはわかりませんが、今から20年余り前、今の彼と同じ位の歳の『職場の先輩』を急に喪失しました。直前は過労が顕著でした。
治療院の彼が、「僕は、仕事を増やそうと思っていて。もっと、多くの患者さんに鍼の魅力を知ってほしいんです。」私は無意識に、彼とその亡くなった先輩を重ね合わせて、PTSDを起こしていました。涙が止まらず、不安で情緒不安定になりました。先輩が最後にくれたメッセージは「きゅん」でした。ハロウィンの仮装が過ぎて、11月頃に、彼との治療が始まってから、脈診で彼の表情が明らかに異変を物語っているのがわかりました。『茗荷さん、忙しくて治療院に来るのが遅れる時も、絶対に、今は走らないでください。普段から心拍を上げないように』と真剣に諭されました。一時期、循環器内科の医師から伝えられた「突然死の直前の症状」に近い、脈の乱れと、動悸や息切れが、自分でも感じられました。(家族との大きなストレスもあったので…)

私自身の体調不良とともに、目の前の献身的に寄り添ってくれる存在が、少しでも体調に心配な様子があると、気が収まりませんでした。毎日顔を出し、いただきもののお裾分け、と口実を作ってはたくさんの差し入れをしたり、彼の顔にチック症状が現れたときや、ふらつきがあるとき、食生活の不摂生を聞き出して、気づけばお弁当まで作ってしまったり、勢いに歯止めがかからない状況でした。彼は彼で「胃腸が弱っているので、消化にやさしいものを」私は、賄いでおかゆを食べ、彼にはお弁当を差し出す、あとから知ったのですが、そんな成道会の冬でした。

ある時「私は、先輩が好きだったのかな」その言葉を出せた時、治療院の彼は否定も肯定もせず、黙って撫でてくれた記憶があります。
2時間以上、むせび泣きながら写経をし、治療院の玄関に、黒い器を置いて観葉植物を活けました。皆はその場を貸してくれ、「大切に育てます」と、黙って受け入れて、私にとってのやっとの儀式を支えてくれながら、ベッドで嗚咽した背中を彼は、そっと手を当ててくれました。

最後となる年末治療の日、勇気を出してお父さんの名前を尋ねたら教えてくれたので、翌日お寺で、写経をしました。数日前の彼の仕事ぶりに心配な点があったので、本来写経後は、そのまま納経をすべきところでしたが、仏さまに手を合わせました。「どうか、お力をお貸しください。経本を買って渡すより、この一枚のほうが、きっと、伝わるはずです」

その写経用紙を彼のところへ持っていき「あなたのお父さんは、(最後にくれた「今度、そっちへ遊びに行くからな」という言葉通り)あなたに会いに来てくれてるよ。お父さんは、今のあなたの仕事ぶりを見て、そんなことをして喜ぶの?」写経用紙を眺めて彼は「これ、茗荷さんが書いたのですか?もらって、良いですか」童子のように純粋な顔と無垢な声で、私の開いた仏説聖不動経を手に取ってくれました。

「お不動様は、索で縛り上げてでも間違った道から正しい道へと、導き出してくれる。この門前の町は、ずっとそうやってお坊さんが毎日、お寺へやって来る人々のために、香煙絶ゆることなく修行と祈りを続けてきたから、ここまで発展してきたの。(数十年前は、戦争で焼け野原でした)
若いお坊さんは、すぐ側に教えてくださる方々がいるから常に直せる機会がある。でも今のあなた方の会社にはそんな存在がいない。卒業したばかりの20代しかいないような、若い方しかいない環境で、いくら自分たちが業界一番の成長スピードだ、と高い志を掲げても、その若さや未熟さ故にお互いに盲点が生まれたり、仲間同士で注意し合うことにも限りがある。それは、決して【悪いこと】じゃない。この門前の仲町に半年間、来てくれたあなたは、ここで何か、学べたことはあった?」

はたで耳を澄ませていると、彼には慢心や、おごり、邪な心が、皆無ではありませんでした。もっと前は、どちらかというと周りのメンバーが積極的・陽転思考すぎて、都会の波に渦もれていました。「標準語を話す」そう目標を明言して、頑張ってきたものの、自分らしさを消してまで、伸び悩んでいる様に私は「本来の良さを引き出すには」ずっと、どんなアプローチが良いか、考えあぐねていました。

「うちのパン屋に今日、とても綺麗な言葉のお客様が来てくれて…どちらからかと聞いたら、四国の方だった。本当に、美しい人だった」「いまは、多様性の社会なのだから、ありのままの自分を活かしたらいい」実際に、ふとした時にお国言葉で話す時の彼はとても好印象で、受け取る側がほんのり癒やされるのが私にはわかっていました。
それをわざわざ、慣れない標準語に変換しようとしていたぎこちなさに、顔も心も声も、不自然なバリアが生じていたのは確かでした。「あぁ、引いているよ…もったいない」本来の彼の強みでもある、自分らしさ、生い立ちの良さを良い意味で魅力として開花できたら、人望に繋がると直感したのです。

「結婚したいんです。でも。できないんです。」私から見れば「どうしてですか?治療院の若手メンバーの中で一番、人を幸せにするタイプだと思ったけど…」「僕はまだ、一人も指名がないんです。東洋医学の話をしてくれた患者さんは、茗荷さんが初めてでした」私も筋金入りのマイノリティですが、彼もある意味今、同じような少数派のポジションで辛さを味わっていた様で…純粋に彼の成長を支えたい、そんな気持ちになりました。

彼に限らず、新しく異動して来た院長でさえも、何が誤ったことで、何が真の治療家としての正しき立ち居振る舞いか、まだまだ右往左往するのが、若者なのだと悟りました。心の境界線と、からだの境界線、触れる仕事だからこその守るべきモラル。
学校を出たてで国家資格を取ったばかり、私はまだ国家資格すらもこれからですが、老婆心ながら過剰にならない程度に、お坊さんの本やお寺の言葉を記した紙を通じてヒントを出してきました。その度に彼は、「はい」と健気に返事をし、時に痛切に、常に真剣な瞳で頷いてくれました。治療院には片手で収まらない数の私の本(手技の専門書を含む)が、今もあります。

ある時、物凄い勢いで私が、治療院へ苦情をぶつけに行った時、ひとしきり当時の院長の対応が落ち着いてから、後ろから様子を眺めていた彼が、「すみません、僕と茗荷さんの二人で、話をさせてください」と当時の院長に許可を取り、離れた玄関先で彼は「話を聞かせてください、僕は今日休みなので。院のことは気にせず、個人的にでも、何時間でも聞きますから」と心を開いてくれました。

『その先輩を追いかけて、仕事を詰め込んでいた』のかもしれない、そんな思いも彼は受けとめてくれました。「僕は休み取ってますよ、大丈夫ですよ」とその度に安心させる言葉をかけてくれました。

先輩は帰省先の交通事故で、帰らぬ人となりました。「梅原、あいつ、田んぼへ車ごと、突っ込んだって」月曜日の朝に聞いた報せでした。それ以降金曜日の夜が憂鬱になったり、毎朝先輩がデスクでコンビニのおにぎりを食べていた音や、呼び名が梅ちゃんだったことで、梅干しに心が強く反応したり、週末も休むことが苦になり、仕事を入れて何かに集中して、気を紛らわせる、そんな休み無しの生活がここ数年続きました。

写経を渡した後、「また会えますか?梅原さんみたいに、(二度と会えないことに)なったりしません?(お正月は実家に帰るとのこと)新幹線が、ちゃんと動きますように。」うなずく彼に「東京で、待っています。」「はい」

元日の0時に、お寺で修行。法話は「いま、心に描いたことを大切に。この一年を、心豊かに過ごしていきましょう」ふっと思い立ち、お父さんの小塔婆を立てました。施主は、私の名前を書くわけにも行かなかったので、彼の名前を書きました。その朝から作務の仕事、その午後は門前の店で仕事、夕方、新しい異動先まで下見に行きました。帰りはどっと、疲れました。

「僕からアクションしますので、待っていてください」新年4日の仕事始めから、音沙汰なしで、慣れない環境だから呼べないのか、まだ行かざるべきか、悩みながら思い切って電話したところ「今からでも空きがあります。(茗荷さんのことは)お話、伺っています」向こうの方は名前を言わずとも、通じており、そのまま電車に乗って治療院へ行きました。電車の移動が長いので、乗る前にみかんを買って、まだ見ぬ新天地の治療院の皆さんの似顔絵をみかんに描き込みました。「どうやって、ここの人の顔を調べたのですか」「内緒です」「いや、教えてください、何でここの人の顔がわかったのか」本当は、会社の採用担当の方の広報活動を眺めるのが楽しみだった、と伝えました。

昨日の再会では「通勤時間・距離は前と変わらないです」「(ここまで)遠かったですか?」「私はやぶさかではないです。たまに楽しみで来るだけですし、(あなたは通勤が)大変じゃないかと…申し訳なくて、(下見に来た日の)帰りは途方に暮れていました」「…僕は元気ですよ」
何より皆様方のサポート・チームワークが素晴らしく、彼は新天地3日目にして切磋琢磨、協調の精神に満ちた雰囲気に馴染んでいました。まるで水を得た魚のように…治療後の予約は、他の方々全員が予約表を見守る中で、新しい診察券の裏に次回の日付を書き込むなど、サポートされつつ一人ひとりが皆、自分らしさを活かし合って頑張っている様子を見せてくれました。

他の患者さんが全員、お帰りになった一番遅い時間帯でしたが、院を出る時、彼が見送りにドアを出たところ、その背後に全てのスタッフがそっと並び、「〇〇さん、お帰りです。お大事にどうぞ」と、骨惜しみなく皆が礼をして見送ってくれました。

「実は元日の仕事終わりに、下見に来てあまりの距離に気が遠くなった」と、彼に話しましたが、再会の叶った後は打って変わって、その翌日まで持続する心に温かい何かを授かった、そんな慈悲に溢れた道でした。

今年は、前に快く約束してくれたあることが叶うよう「ご迷惑にならない範囲で、手技の練習に体を貸してくれたら…」と淡く夢を描いています。新しい治療院の、壁に貼られた解剖学の図がとても、精悍な向上心の表れに「この道においで」と迎え入れられた感じです。

長くなりましたが、皆様方の幸せを祈っています。
これからも、どうぞよろしくお願いします。

1月も早、節分の待ち遠しい時期となりました。いかがお過ごしですか。
年と共に新しくなった心機一転の地は、とてもクリーンな雰囲気のところでした。異動先で水を得た魚のように本来の力を伸ばせる様子を垣間見せてくれて、安心しました。
師走に報せをこぼされた時は、「地理的な面でひと月に一度通うのが精一杯」そう途方に暮れていましたが、蓋を開けてみれば前と変わらずのペースで通え、むしろしっかり着実にスケジュールに組み込めるようになりました。その時間を作るために仕事にも張り合いが出るなど、一挙両得で有難い限りです。
「電車の中は、自習室。」音楽を聴いたり、調べ物をしたり、本をなぞったり…好きなことに夢中になれる、そんな治療院へ行くまでのルートが、今は私を元気にしてくれる大切な幸せのひとときです。

どうしようもない私の本音、辛さの芯をさらけた時は、後から場の雰囲気を濁してしまったことに深い懺悔感と自己嫌悪で、翌朝とても辛かったです。せめてものお詫びにと、口コミのお礼をしました。
「僕、書いてって頼みました?(いいえ。…頼まれてないのに書いたの、駄目でした?)いやそんなことないです。素敵な口コミ…ありがとうございました。」
治療学や、仕事上の価値観について「今日は、話しながらしましょう」と仰向けのまま、転々と点と線が繋がる話をしました。
『伝えるべきか、伝えないのが賢さか』で葛藤した様々なことを「いない人のことを悪く、陰口は言いたくないし、クレームじゃないからね」と念押しした上で、今後の教訓になることについてもお話ししました。先輩方も、気をつけの姿勢で見つめられ恐縮ながら、過去の事例もお伝えしました。

私自身の心の敏感さ、すぐに感情の波が昂ること、そして伝え方などの修正点、自分への厳しさが度を越していること、それにより自己肯定感が低いこと、だから性格が曲がってしまって卑屈になっている部分も、様々なことが自覚できました。
「この間はものすごく悲観的だったでしょう?生理前だからだったかも…あとあと自己嫌悪で。」おそるおそる、悲観的、の部分に共鳴した頷きを返してくれました。
私が、『ここまで不安がりで、ここまで自らをけなし、情緒不安定そのもの』だったことにも自分の過去とまた向き合う機会でしたし
その自分が出せる=受けとめられるのは、治療師なら誰でも可でもなく、今は彼だけだ、とも気づきました。

本当に、前の前までさかのぼって、私の古傷や深い思い出を癒やすとしたら、ものすごく大きな感傷の洪水、嵐、爆発が起きることが確かなようですし

もう、フタを無理矢理開けることもなかろうと玉手箱のように触らずに格納したことで、抑え込んだまま今に至る部分もあるなか

どんなに感情的に乱れて暴れてしまおうと、冷静に合わせることができる存在、普通なら「面倒女子」になるはずが、お互いに必要としていること。

これからも、支えてくださる方々に深謝とともに、一緒に歩んでいきたいと願っています。
陽の柔らかい光を包み込む、海のような澄んだ空を仰ぐたびに、温かな春が皆さんに舞い降りることを祈っています。合掌

「心構え・生きる智慧」問答一覧

自分に価値がないと思い込んでしまう

こんにちは。社会人の傍らアーティストとして作品を作っている者です。 自分の周りの人を、特にいま付き合っている彼氏と無意識に比べてしまい、自分の作品、自分自身に価値がないと思い込んでしまいます。 私の彼氏もアーティストで、私よりも歴が長く実績も成功談もたくさんあります。 「仕事が入った」「有名なあの人と飲みに行く」など、そういったエピソードを聞く度に、自分自身と照らし合わせて落ち込んでしまいます。 私はアーティストとしてはまだ歴が浅く、自分に価値を見出すには今は作品を作り続けるしかないとは自負しています。 しかし彼氏の成功談を聞く度に「もっと早く始めていれば」「自分にもっと才能があれば」など、過去に何もしなかった自分を責めてしまいます。 私は過去にアーティストを志したものの、元彼のモラハラ(アーティストとしての才能を否定されたこと)や仕事を理由に諦めてしまいました。それでも今の彼氏と出会い、やっぱり自分も輝きたいと思いもう一度挑戦しています。ですがやはり、過去に諦めた事を酷く後悔していて、あの時諦めていなければ今頃彼と同じように輝いていたのに、と考えてしまいます。 前に感情的になり彼にその事を言ってしまい「そんなことを自分に言われても」と彼を困らせてしまったのもあり、余計に後悔が募るばかりです。 彼はその後も会う度に嬉々として新しいものを見せてくれますが、正直今は彼の作品を見るのも苦しく、とにかく作品を作らなくてはと思いながらアイデアが思い浮かばない自分が日に日に憎くなり、毎日苦しいです。 過去の後悔と決別し、無意識に他者と比較しないためにはどう考えれば良いでしょうか? どうかお力添えください。よろしくお願い致します。

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辛くても悲しくても笑っています

わたしは辛くても悲しくても笑ってしまいます。 人から何か言われたり、コンビニの店員さんに答えるだけでも笑ってしまいます。 本心からならいいんです。 でも、心の中は黒い感情でいっぱいです。 たとえば『気安く話しかけてんじゃねーぞ』とか 仕事中なら『お前サボってねーで手伝えよ』とか。 こうなってしまったのは子供の頃、父がわたしに理不尽な事をした時に 怒ってにらみつけたり、泣いたりするとものすごい怒声と暴力があったからです。 それから人前で本心をさらけ出すのが怖くなり、どんな状況でも笑ってしまい、身を守る癖がついてしまいました。 たとえばどうしても嫌な事でも頼まれ続けると受け入れてしまい、その後、その後始末で何年も悩むとか、その後の人生がその時の尻ぬぐいのような感じで終わってしまいます。 頭ではわかっているのですが、条件反射的にそうなってしまいます。 自分の人生を、自分らしく、自分の感情や気持ちを偽らずに生きていくにはどうしたらいいでしょうか? 頭や心では万人に好かれなくていい、自分が好きな人だけに好かれたらいいと思っていてもどうしてもその癖が抜けません。 笑わなかった後の相手の反応がわからず困っています。

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父親から煽られる不安や苦しみについて

はじめまして、ときおりHasunohaを覗いて元気をもらっている者です。 父親からの苦しみについて相談させて頂きます。 父親に人生やキャリアの話をすると、その返答に異様に不安を搔き立てられてしまいます。 昨日も、父親と話しているときにはそこまで不安を搔き立てられなかったのですが、寝るときになって悪夢にうなされ、明け方震えで目が覚めました。 以前会社を転職する際も、今から上司に謝って会社に残らせてもらえ!と怒鳴られました。次の会社から海外留学するときも、ようやく落ち着いたと思っていたのにこれらからどうするんだ、いい年だぞと言われました。海外でなんとか職を得て働き始めた今、冒頭の電話をしたら、そんな給料ではやっていけない、その年(アラフォー)になって、仮に日本に帰ったときに仕事があるのか、などなど。とにかく、年齢のこと、お金のことを言われます。 何より、父親と話すと、自分の人生のすべての決断が間違っているように感じます。私は今まで自己肯定感は強い方だったと思います。でも、父親と話すと、とにかく不安ばかり煽られます。言われれば、上場企業で何もせずに定年まで過ごせば一番金銭的にも良かったと思うことがあります。日本企業の安定的な環境のことや退職金など自分が失ったことはよくわかっているのです。苦労して海外で職探しなどしなければよかった、海外なら駐在員でも目指して適当に過ごせばよかった。自分はまともに仕事をして(会社には適当に仕事している人もたくさんいました)、自分のキャリアも考えたり、真面目に働いてきたつもりだったのに、なんでこうも苦しい道ばかり選んだのだろう。自分や自分の人生を肯定できないこと、とても辛いです。また、この自己肯定感は母親がありがたくも与えてくれたものだと思っているので、よけいに苦しいです。 心配してくれているからこその父親の言い方なのだとか、自分はまだまだ学ぶことが多いのだとか、お金だってまだこれから稼ぎうまく老後を過ごすよう努力すればよいのだとか、頭では考えられます。でも、もう不安を煽られたり、年齢のことを言われたり、せっかく一時帰国して会いたいという話をしても今は仕事を頑張るときだと断定されたり、疲れてくるのです。 質問のポイント、背景のご説明も不十分、乱文で大変恐縮ですが、それでも何かお知恵を頂けたらありがたく存じます。

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諦める(明らめる)には

こんにちは。 私は、家族に対する期待があり、それを得られないことで苦しんでおります。それを諦めることはできるでしょうか。 私が家族に期待することは、たとえば私が泣いていたら「大丈夫?」「そばにいるよ」などの心配や寄り添いをしてもらうことです。 私の家庭環境は、仕事命で子供には無関心だった父、幼少期に喧嘩して大人になるまで無視され続けた兄、過干渉で頭ごなしに怒る母でした。家庭の中で安心して甘えられる相手がおらず、友人も少なかったです。 大人になって現在、私は結婚して夫と二人暮らしです。夫は付き合っている時は愛情表現が割とあったのですが結婚してからはすっかりなくなりました。さらに、どうやら夫は発達障害の特性があるようだと分かり、他人に共感することがとても苦手な人なんだということが分かりました。 こういうわけで私の家族は、私が求める形で寄り添える人はいません。愛情はそれだけでは無いと頭では理解しています。 父は、お金は何不自由なく出して育ててくれましたし、兄との喧嘩はお互い様です。母の過干渉も心配や愛情からくるものだと理解しています。夫が共感が苦手なのは別に悪いことではありません。 それでも、私は自分が誰かの目の前で泣いている時に誰も声をかけてくれないことが心から辛いです。自分には心配される、愛される価値がないんだとまで思ってしまいます。 「まずは自分から愛すること」や「自分で自分を愛すること」を心掛けてはいるのですが、なかなかうまくできていません。心のどこかで愛されてない自分を諦められない、もしくは納得いってないのかもしれません。 仏教では、諦める=明らめる、ということだと知りました。現実を直視しそれを受け入れて楽になることは私1人でもできるでしょうか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ