hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

回答数回答 2
有り難し有り難し 28

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。
富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。
子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。

ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。
ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。

念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

2024年2月18日 20:09

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたには、あなただから手にしているものも、たくさんある。

素敵なエピソードですね。特別な縁を感じますね。それだけでも、あなたが願われて生まれてきたのだと、幸せな気持ちになりますね。

人生をどのように捉え、どのように歩んでいくのかは、出生だけでなく、関わる環境や出会う人々、影響を受けたもの、様々な要因で今があります。

今あなたが描く幸せと現実が程遠く感じておられるのかもしれませんが、キラキラした暮らしとは、誰もが羨むものよりも、自分が納得出来る生き方なのではないでしょうか。

神の子に相応しいというのは、見守られている安心とも言えますよ。自己肯定感も、そのままの自分を大切に出来るという心。それを持ち合わせている あなたは、幸せだと思うのですよ。

パートナーがいることだけが幸せとも限りません。今足りないものばかりに目を向けて、自分を情けないと思う必要はありませんよ。あなたには、あなただから手にしているものも、たくさんあるでしょう。それを誇りましょう。あなたの魅力が、ちゃんと届いていきますように。

2024年2月18日 21:10
{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
このお坊さんを応援する

あなたの望む人生を生きて下さいね

拝読させて頂きました。
あなたは自分が思い描く人生と現実ではかけ離れていてとてもしょぼいと思い悩んでおられるのですね。詳細についてはわからないですけどあなたが語られるあなたのお生まれからのストーリーやあなたの知能からするとその様にお感じなさってしまうお気持ちもわかる様には思います。あなたのそのお気持ち心よりお察しします。
確かに理想とする人生とはあなたにとってはかけ離れておられるのかもしれませんが、今もあなたはあなたの能力を使ってしっかりと生きておられると思います。あなたの今までの人生の中でも沢山の試練もあったかもしれんし、沢山の迷いや紆余曲折があったのではないかと思います。その様な中でもあなたは自分の人生を一生懸命に生きていらしたのではないでしょうか。それは本当に尊いかけがえのないことかと私は思います。
あなたがもっと社会的にも成功して輝かしい人生を歩んでいかれることを望まれるかもしれません。あなたがその様に求めていかれることもとても良いことかと思います。あなたの人生はこれからも開かれいくのですからぜひ頑張って下さいね。あなたを心より応援させて頂きます。
また人生は全てが輝かしいものでなくても一つ一つそれぞれに尊いのです。何げない穏やかな毎日であっても、それはとてもかけがえのない大切な人生ですからね。
あなたがこれからの人生を素晴らしい出会いや機会に恵まれて心から豊かに充実した毎日を生き抜いていかれます様に、大切な方と一緒に心から幸せを分かち合い生き抜いていかれます様に切に仏様や神様やあなたのご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌

2024年2月18日 20:53
{{count}}
有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

>Kousyo Kuuyo Azuma様
いつもありがとうございます。
なんか、社会的に成功して輝かしい人生を望んでいるのですね?と言われてしまうと、案外そうでもないなという気持ちに気づきました。どっちかというと穏やかな暮らしをしたい安全嗜好です。
この生まれゆえに神仏に馴染みやすく、おかげで念仏者になれたのでそれで良いんじゃないかという気もしてきました。

> 中田 三恵様
お答えの最初の段落がとても優しく、温かい気持ちになりました。
また、自己肯定感や安心を待ち合わせているのはとても幸せというのもその通りだと思います。それがなければ今頃は不貞腐れた人生を送っていたかもしれません。
ありがとうございました。

「念仏について」問答一覧

迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

有り難し有り難し 16
回答数回答 2

禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

有り難し有り難し 25
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ