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「お経・経典の種類、意味、唱え方」問答(Q&A)一覧

2022/11/15

お経を聞く意味とは?

初めて質問させていただきます。 なぜ、耳でお経を聞くのでしょうか?文字ではなく、声に出して読まれるのは何故ですか。 それらはどんな効果があるのでしょうか? お経を読んでいただく際の心構えを教えてください。 葬式や法事など…お経を耳に入れる事は、私にとって非日常の事になります。 一つ一つの言葉の意味はわかるようでわかりません、漠然と「最後は仏様のところに行くんだろうな…」と思いながら、葬式の時は故人に思いを馳せ、時には眠気と戦ったりもしてしまいます。 一昨年、祖母が亡くなりました。祖母の葬式の際、父親は最前列で船を漕いでうとうとしていました。 父親は喪主ではありませんでしたが、祖母の一番近いところに住んでいたので、車を出したり通夜でご遺体と過ごしたり、とにかく疲れていたのだと思います。私は、父がお経を聞いている間に休息が取れているなら、安らかに睡眠が取れているなら十分だと微笑ましくなりました。 しかしそれは私の考えであり、実際には父は「早く終わってくれ」と思っているのかもしれません。 ありがたいお言葉を、故人の前で私たちに聞かせてくださっているのは理解ができます。批判の気持ちは全くありません。 聞く人間により、状況によりお経を聞く気持ちがばらばらになっているのも事実だと思います。(もちろん一人一人が違う視点を持った人間なので当然だと思います。) 長い間、この儀式が続いているということはやはり効果があるからで、一言で済むかもしれない(とても失礼なことを言っているのは承知ですが)ことを、長々とお伝えいただくのはやはり意味があってのことなのだと思います。 タイトルに戻るのですが、どのような気持ちでお経を耳に入れたらいいのでしょうか? 正解というのはあるのでしょうか? ・故人のこと、生死について考えさせられる ・安らげる、眠くなる ・だるいと感じる人もいる ・時間的な拘束で、現世から引き離す(?) ・パワーを感じる ・意味を理解し、有り難がる 全てが正解ならば、それはそれで納得します。 母親が先日難病を診断され、近々お葬式をやるかもしれません。こう言っては悪いのかもしれませんが、唯一無二の葬式ですので、後悔のないようにのぞみたいです。 面倒な疑問かもしれません、失礼だったら申し訳ないです。まとまりのない疑問ですが、ご回答頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 16
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2022/09/07

聖天様の開眼供養された香合仏について

色々思い詰めて、開眼供養された聖天様の香合仏をお迎えする事になりました。 キャンセルにも結構なお金もかかりますし、これもご縁だ、と小さいお仏壇等も手配する所です。 所が、私はただのなんの縁もない一般人ですので、香合仏を普段はお仏壇に入れて祈願も含めてお祈りしようと思っていますが、エッポウにならない範囲での正しい拝み方や時に祈念したい時はどの様に向き合えば良いのか解りません… ご真言を唱えて感謝などの気持ちで居る程度なら大丈夫なのでしょうか? またその場合、正しいご真言が解りません… 私の安易な気持ちでのお迎えが良くなかったのは反省しておりますが、これもご縁と思い、活かしていきたいと思っています。 また、スペースの関係で横並びで大日如来様と愛染明王様の香合仏様もお祀りして、日にご真言を上げ、その時の気持ちで神様を持ち出すのは失礼に当たらないでしょうか?? お供え物も毎日はキツイので、腐らない様にお水のペットボトルとお酒の小さなカップ、時にお菓子(個装)を1日と15日にお供えしたいと思っています。 トンデモなおまつりのしかただと怒られるのは怖いので、こうした方が良い、や問題がない範囲のご真言などを教えて頂けたら幸いです また、専門的に教えて頂ける場合は、圧に凄く弱いので圧の強くない方の元で謝礼を払い、ゆっくり学んで行きたいとも思いますので、名乗りをあげて頂けたら幸いです それでは一所懸命何とかしようと足掻いているので、ご慈悲の中で助けていただけたら幸いです よろしくお願いします

有り難し有り難し 7
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2022/03/02

生老病死

 数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。  ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。  そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。  般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。  生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。  「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。  即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。  従って仏教の救いは死後にあることになります。  しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。  それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。  そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)  前略  その時、世尊はかように仰せられた。  比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。  まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。  後略

有り難し有り難し 19
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