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「仏教における修行」問答(Q&A)一覧

神様仏様がおられる場所、分かりました。

如来行を無事に終了しました。 神様仏様がおられる場所、分かりました。 森羅万象の一番下にいらっしゃることは既に分かっていたのですが どうやったら一番下に行けるのか探していました。 今回やっとはっきりしました。 宇宙の中で、自分を座標軸の交点 つまり原点、0に設定すると 森羅万象全てが絶対値で 自分を上回ります。 自分より上なので、森羅万象に感謝する理由ができます。 また、自分と同じ森羅万象の 一番下である、原点、0の位置 「無」の場所にいらっしゃるのが 神様仏様でした。 やっと出会えました。 自分自身を宇宙の中で原点にすることで 神様仏様と一緒に居ることができます。  ありがたきしあわせです。 私の修行は無事終了しました。 あらためて、皆さん本当にありがとうごさいました。 森羅万象に八百万の神々が宿る 日本古来の考え方もこれと同じ理論で立証できます。 この宇宙の中で、座標を原点、0に設定できるところは 全てに神様仏様がいます。 皆さんの中にも当然神様仏様がいます。 元々は如来として生まれてきました。 また、この理論を使うとあらゆる宗教宗派が肯定されます。 何を信じても大丈夫です。 簡単な話、神様仏様を信じるかどうかだけです。 信じる人だけが神様仏様に寄り添ってもらえます。 宇宙全てに神様仏様が居て、宇宙そのものが神様仏様なのです。 どこに居ても神様仏様に接しています。

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忍辱と苦行の違いは?

 いつもお世話になっております。 苦行は推奨しません!だけど、忍耐も忘れずにね!! という教理に疑問を抱きました。  仏様なら神通力や体の構造云々で、何をされても言われても 平気の平左かもしれませんが、私たちは生身の生き物です。  撃たれたり刺されたり、毒ガスを吸い込んだりしたら死にます。 妊娠もするし、性病にもかかります。  怪我の程度では、後遺障害も残ります。  脳と体は一対ですので、悪意の人の行動で二進も三進も 行かなくなることもあります。  忍辱って何…?ずっと疑問です。逸話などを聞くと、 殴られても耐えるとか、甚だ物騒なエピソードばかり…  自分の弱さを受け入れて、修正する努力をするのが忍辱?  風邪気味で耳鼻科行ったら、鼻に管やら長い綿棒やら 突っ込まれるじゃないですか。痛いじゃないですか。 でも、治療や感染拡大防止のため…  余裕ぶっこいて、わざわざ危ない所に突っ込んでくのが苦行?  私自身の体験談で、とある所のデーケアで、 「ロータスの信条が気に入らん」ってんで、必要な教育を 受けさせて貰えなかった。それどころか通所日減らされたり。  ちなみに他の利用者も嫌がらせを受けてました。  結局私は、本庁に通報し、今は別の施設で修行しています。 この後、この施設は本庁の偉い人からキッツイ指導を受けた、 と本庁の人から聞きました。  この、推奨される忍辱と避けるべき苦行の違い、 5年以上考えても疑問です。  「ピーマンと青酸カリ」みたいな感じなんでしょうか?

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鍛える、耐える、我慢する、だけが修行じゃないんでは…

 いつもお世話になっております。  診察やカウンセリングに通いつつ、早く起きてアパートを 毎朝清掃して、その足で祈願寺(片道約1時間半)の写経道場へ…  祈願寺では写経の後、待ち時間で数学や物理の勉強、 その後護摩行でお経を上げて帰宅後は筋トレ… というルーティーンを送っていたら…  それはそれは見事に体壊しました。 「鍛えなきゃ!」「強くならなきゃ!」という気持ちだけで 毎日やっていたら、知らぬうちにソッチ側に疲れが溜まっていた のかえらい事になりました。  そこで湧いた疑問が、いわゆる「鍛える」「忍耐する」 それだけが修行や訓練とは言えないのでは。という事です。  自分自身の器物の大きさや、今の状態に気づくのも 大事なんではないか?と。  私が今まで遭遇してきたトラブルの数々も、 「あれ?おかしいんじゃないか」と野生の勘やいわゆる霊感・ 第六感のように感づく前触れや兆候のたぐいはありました。  それらの勘を、「我慢しなきゃ!」「頑張らなきゃ!」 「この程度で大げさな…!」と思い続けたり、 「まぁ、こういう人もいるんだ。悪い人じゃないかもしれない。 突っぱねたら失礼だ」とあえて目を瞑った結果、 最悪の事態に発展するのがお決まりでした。  そこんとこ、どうなんでしょうか?

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修行と信仰と座禅や念仏

先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。 その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ ことになりますよと、言われたように思います。 自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。 しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。 みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。 と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか? だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか? いつも長くてすみません。

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この世は魂の修行場と言いますが

この世は魂の修行場と言いますが、自分の人生の汚点を作りつづけている人生の魂は汚れきっている事に気づきました 五年くらい前からネット上の掲示板などに不平不満をぶちまけたり、煽って来た人に煽ったり。いわゆる荒らしという行為 勿論いつもではありませんがストレスが溜まると息を吐くようにしている気がする 元々悪いんでしょうね悪役として生まれたんですね。   しかも自分は潔癖症なところがあり、ネット上と記憶ににこれらの汚点が残りつづけることが不快でたまりません。 相手に仕返しするために煽る際、汚い言葉を考える脳の思考回路が太くなって来る感じ 恥ずかしい話ですが、小説等創作物の登場人物を無意識に自分の理想にしてる事があり、その理想の登場人物と 自分の汚れきった自分を比べてひどくひどくひどくひどくひどく落ち込みます。 できればこの点をどう思うのかお聞きしたいのですが、ネット上のサービス(知恵袋)を使う際、本名で登録するのですが、 そのサービスを管理している人は自分がどんな事を書き込んでいるか知っているわけですよね? 勢い余って言ったことも残るし例えば仮に自分が有名になったら、あの人こんなこと書き込んでいたのかと しられますよね?自分の中を知られるのが急に怖くなるんですが、死ぬしかないんですかね 高校からネットなんか触れなきゃよかったと後悔していて、そのせいで人格も更に歪みましたし良いことがありません いまさら気づいてもネット上に何かを残すのがいつからか習慣になっているんです。 自分のしてることが全て悪手なんです 某動画サイトのコメント欄にレッテルを貼り言論弾圧してるやつがいたから 正論言ったら人格攻撃して来るしヒートアップして最終的には障害者扱いされてとても気分が悪い。 極論しか言えないのか 最終的に煽り合う事になりこれならその人にに最初から話しかけなきゃよかったと思うのですが。 この際ネット上にろくなやついないんでいい機会だと思い動画サイトのアカウントを 消したのですが、自分のコメントが消えるため向こうからすれば逃げたように見えますよね? ストレスがハンパないのですがどうすりゃいいんでしょう。  特定して個人的に会って潰さないかぎりおさまりそうも無い。

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スッタニパータ「874形態は消滅する」の内容について

いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。  次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者  ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

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