「正法眼蔵随聞記」の一節について
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。
仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。
「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。
たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。
前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。
ご教示いただけましたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一行三昧
道元禅師の言葉って滅茶苦茶難しいんですよ。短歌の掛言葉のようになっています。パッと素直に読めるように書きつつ、実は別次元の仏法を説いている…
まず、「明らめる」というのは「明らかにする」ということです。要するに「悟れ」、「悟りの事は大切だ」ということです。修証義冒頭の生死を意識していらっしゃるのでしょう。
随聞記の二巻八を平たく読むと、「アレコレつまみ食いしてたら悟る前に人生はアッという間に終わっちゃうよ?仏道一筋に修行しなされ」というように読めます。これはこれで1つの読み方です。実際にそう聞こえるように言葉を選んだのでしょうから。ところが眼蔵の生死巻とリンクさせて読むともう1つの読み方が見えてくる…
仏教って、結局は無我なんです。私が無い。輪廻する私が無い。私が無いから、これが過去世でこれが現世でこれが来世というものが無い。本来、無いということに気付きなされ…それが無我であり、解脱です。でも無とはゼロのことではないんです。
じゃあ無とは何か?我という垣根を取っ払うことが無です。私を消してしまうのではなく、ここからここまでが私という境界線を取っ払うんです。するとどうなるか?指で押さえていた蛇口の水がパーっと広がるように、過去現在未来の一切合切に広がっていきます。それが無。無は全。全部ひっくるめて仏。
だから時間は過去現在未来に存在するけど、過去現在未来に垣根が無いから過去現在未来は存在しないんです。同じように私も存在するけど存在しない。
そうした時に随聞記で「一事を専らにせん」と道元禅師はおっしゃる。「いつか悟ってやる」ではなく、「今、目の前のすべきことを全心全霊でやりなされ」と。坐禅をすれば私が無くなって坐禅になる。坐禅という垣根も無いから一切合切に通じ切る。
でも飯を食ってる時に坐禅の事を考えれば、飯が飯でも坐禅でもない妄想になる。それが迷いであり煩悩。飯の時は飯のみ。飯のみだから私が無い。私が無いから一切合切に通じ切る。これを只管打坐と言います。「一事を専らにせん」とは只管打坐。これが今度は典座教訓で「大の一字」にリンクし、生死事大が違って見えてくる。
まぁ、平たく言えば悪い事をせず、生活の1つ1つを丁寧に行い、他者1人1人、1匹1匹、1個1個、生きとし生けるものに親切であれば、自然と生死が明らかになっている…というのが無常迅速・生死事大です
「私の思い」から自由になる
拝読させていただきました。
生死とは、私が生まれて死んでいく、という私たちがあたり前に思っている人生観のことです。
生まれて、名前を与えられて、性別だの血液型などいろいろと決められて、人生を歩んでいくなかで肩書きとか性格とかも決めたり決められたりして、いいとか悪いとか好きとか嫌いとかでグループを作って、いろいろ持ち物を増やしながら、幸せになりたいと何かを目指しながら、老いて病気になって死んでいく。
この人生観は、思いの世界、言葉の世界、表面的な世界でしかないよ、と知りなさい。「私の思い」から自由になりなさい。言葉から自由になりなさい。思い込みから覚めなさい。ということだと思います。
早く目覚めないと「私が幸せになりたい」という幻覚をみたまま、得られないまま人生終わってしまうよ。と。
私はこのように理解しております。
迷い
詳しくは曹洞宗のお方が解説くださるでしょうがとりあえず。
仏教で「生死」(しょうじ)というのは「迷い」を指します。生まれ変わり死に変わり迷いの中を流転することです。輪廻(サンスクリットでサンサーラの訳)とも言います。
輪廻について本格的に解説しだすと、実体的に生まれ変わりがあるのか、ないのか、とかややこしくなりますから、ここでは「迷い」「真理に暗い・遠い」ととらえてよいのではないでしょうか。
私が「迷い」の身であることを明らかにし、真理に目覚めることが重大であるという意ではないでしょうか。
足りない部分はまたお答えが入ると思いますのでお待ちください。
明らかにする
こんばんは
曹洞宗の著書を読んで頂けるとは、曹洞宗の僧侶としてありがたいことです。
お問い合わせの一節は、正法眼蔵随聞記の巻二の八ですね。
「生死を明らめる」と聞くと、生きるも死ぬも仕方のない事だ、と解釈してしまいがちですが、そうではなく「明らめる」とは「明らかにする」(はっきりとする)という事です。
曹洞宗のお経「修証義」の冒頭に「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と出てきます。また、仏教の根本にある考えの「四苦」も「生老病死」です。このように、仏教では生死を明らかにしておく事を重要視しています。
ですので、ここの「生死事大」のところは、ただぼんやり生きているんじゃなくて、今、生きているんだ!そして何かの因縁で必ず死ぬんだ。ということを、きっちり意識しなさい、という解釈で良いと思います。人生は短い。だからひたすら仏道を修行し仏法を学びなさい、遊んでいるヒマはないんだ、という事を言っているんだと思います。
質問者からのお礼
大慈様
親しみやすい解説をありがとうございました。
まだほんの少ししか読んでおりませんが、仰る通り道元禅師の言葉は煙に巻かれるような、また何通りにも解釈できるような、言葉遊びのような、難しい面があると感じています。
「目の前のことに専念する」ということは私がこの参禅経験で一番身にしみて感じた素晴らしさの最たるものでした。
今の自分に直接、すぐに響くことに感謝と感動を覚えました。
なるほど「随聞記」も「正法眼蔵」とリンクして読むと理解の助けになるのですね。「生死」まではまだ読み進んでおりませんが、今後参考にしつつ双方読んで行きたいと思います。
光輝様
明確なアドバイスをいただきまして、とても助けになりました。ありがとうございます。
「きっちり意識しなさい」ということで良いのですね。
今まさに自分も家族も周りも「生老病死」を嫌でも突きつけられる時期になり、その避けられないことに立ち向かわねばならない不安と恐怖と悲しみばかり覚え、乗り越えられる自信を無くしていたところでした。いろいろな文献を読むことで、少しでも力にしていきたいと思っております。
吉武文法様
すぐにお答えをくださり、ありがとうございました。
「生死」が「迷い」というのはとてもわかりやすいです。
とにかく「明らかにする」=自覚する、意識すると同時にそれが真理をつかむことへの道になるのですね。
なかなか難しいと思いますが、心がけたいと思います。
宗像義順様
早速のご回答、心より感謝いたします。
「自分の思い」にとらわれることが私の一番の悩みだった気がします。
ほぼ無意識に(未経験でしたが)参禅に申し込んだのは、そこをどうにかしたかったのが理由だったのだと今思っています。
だからといって何かを得たり解決したりするものではありませんが、少なくとも「自分」を解き放つ方向に向かえるキッカケになったように感じています。
偉大な書物に触れて、その難解さと大きさと共に、直接自分のこととして受け止められることが多く書かれていることはとても有り難いことと思います。