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仏道と神道につきましてお教えください

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有り難し有り難し 27

こんにちは。
いつも有難く多岐にわたる内容の問答を拝読させていただいております。
大変、ためになっております。

今年になり、やっと天照さまと氏神さまを家にお祀りさせていただきました。

神社・または神棚の前に行くと、気持ちがピシッとなる感じ・凛とする感覚・良い意味での威圧感、そして寺院・仏様の前に行くと、不思議な安心感・ほっこり感・言い方が悪いですが甘えたくなる感じ…があります。

さて質問なのですが「信心」の意味は、神様と仏様で意味が異なりますでしょうか?

自分なりにここhasunohaはじめネットや本で勉強した中、(かなり簡潔で申し訳ないですが)仏教では「菩提心を持ちそれを実行する」が最終的には信心であり信仰だと思っています。

神道で言う信心とは、主には「誓い」なのでしょうか?

自分的には神様に感謝をしつつも「絶対的であり恐れ多い」感覚を持っています。

うまく表現できずにすみません。
お教えいただければ幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

神は「私たちを育む自然」仏教は「私たちを導く教え」

神社めぐりが好きなお坊さんがお答えいたします。

>質問なのですが「信心」の意味は、神様と仏様で意味が異なりますでしょうか?
・・・結論から言えば、違うといえるでしょうか。
仏教の信心とは、基本的には「安心(あんじん)」を得ることです。あなたのおっしゃる通り、「菩提心をもちそれを実行する」のが極地で、仏の教えに従うことで悩みを解決し安心すること、そしてそれを他人にも施すことが仏教の新人です。現世利益の祈祷などは、あくまで安心をえる手段(方便)でしかありません。

一方、神道の信心とは、「感謝」が根幹なのではないでしょうか。それは、神道の神々は基本的にすべて「土地神」であるからです。
仏は、すべてに遍満している・・・つまりすべてが仏であり、どこにでも仏がいると考えますが、神道の神はそうではなく、ある一定の土地や物に寄り添って存在します。(これを依代といいます)
例えば全国各地に「八幡さん」がありますが、もとは大分の宇佐市にある「宇佐八幡宮」があり、それを各地に「勧請(おまねき)」したので、いまは全国に八幡さんがお祀りされています。天照大神が各お家にお祀りされているのも、お札を依代にお家に勧請しているんです。
仏像がなくてもお参りができますが、神道では依代がないとお参りできません。それは、神が土地神である所以です。

以上を簡単にまとめれば、仏教の信心の核となるのは「仏の教え」で、神道の信心の核は「依代(土地)」です。
性格が全然違うんですね。

僕たちは、そんな「神様の住まう土地」に訪れるわけですから、「またこの土地に来させていただきありがとうございます」と感謝するんです。

ただ、土地というと少しわかりずらいかもしれませんので、「その土地にある自然」と思って下さい。
自然は、時には僕たちを育んでくれますが、時に厳しく、時に荒れ狂うこともあります。

>自分的には神様に感謝をしつつも「絶対的であり恐れ多い」感覚を持っています。
とあなたが感じるのは、まさに「神=自然」だと直感しているからでしょう。
仏の教えは変わりませんから、ある意味安心感があるかもしれません。それも、あなたが直感している通りです。
しかし、仏の教え自体は私たちを育んではくれません。あくまで私たちを導いてくれるだけです。

日本人は幸せです。自然宗教と、教義が完成された宗教どちらも身近にありますから。

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おきもち

神道は崇敬 仏道は帰依

 と専門用語で説明しても、煙に巻かれちゃう感じですよね。私自身きちんと理解していると断言できるかどうか危うい部分がありますが、私なりの理解しているところを述べさせていただきます。

 私が理解している「崇敬」とは、神への感謝という意味です。神道の神様は、キリスト教イスラム教の全知全能の神とは違います。私たちを守ってくれている氏神(祖先の神様)であり、産土の神(土地の神)であり、万物に宿りし神である。それらの神々が八百万の神であると理解しております。八百万の神は大自然そのものであり、時には厳しく時にはやさしく我々を抱き育んでくださっています。そのことに感謝して、社殿に向かって柏手を打ち拝します。

 仏教における「帰依」の説明は難しいですね。帰依を理解する上で参考になるのが、道元禅師が『正法眼蔵 生死の巻』で「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」という言葉です。自分のすべてを仏様にお任せしてしまうという意味に理解しております。
 仏教における信仰の基本は、帰依三宝です。仏法僧の三宝を自分の拠り所として尊び護持していくことです。道元禅師は「仏はこれ大師なるがゆえに帰依す、法は良薬なるがゆえに帰依す、僧は勝友なるがゆえに帰依す。」と述べています。

 仏とは、我々を導く素晴らしい師匠のことである
 法(教え)とは、我々の心の病を治してくれる良薬である
 僧とは、共に仏道を歩む、素晴らしい同行同学の仲間のことである
という意味です。

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おきもち

 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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質問者からのお礼

【不悪院 恵成 様】
おはようございます。
私の拙い質問にご回答をいただきありがとうございます。
感謝します。

神様は育んでくださる、仏様は導いてくださる…の違いや、元々の「性格」の差が、ある程度理解できたような気がします。

特に神様は土地に在られるということも感銘でした。

つい最近まで神仏習合であったことや、神社でおみくじをひいた時に「信心しなさい」とあった時によく考えていました。

いただいたご回答の中にある未だ理解出来ていないお言葉を今日のお昼休みに調べて勉強させていただきます。

お忙しい中、本当にありがとうございました!

【吉田 俊英 様】
おはようございます。
分かりづらい質問にご丁寧な回答をいただきありがとうございます。感謝します。

神道は崇敬 仏道は帰依…はぃ、ニュアンスで感じとるのが精一杯です(>_<)

三宝に帰依する、は、毎日の勤行やら仏教についてばかり調べているのである程度は理解できているかなぁ、と思いましたが、また新しいものが自分の中に入ってきました。
広い心をもって勉強していきたいと思います。

神様にも仏様にも感謝のこころを忘れず生活していきます。

お忙しい中、ご回答ありがとうございました!
お昼休みに、先生からいただいたお言葉と道元禅宗様のお言葉を調べます💦難しいです💦

追記【不悪口院 恵成 様】
追記【吉田 俊英 様】
(連名で誠に申し訳ございません。)

少し自分なりに勉強しました。
太陽や雨の恵み…自然そのものに感謝。
私たちが暮らす土地を守ってくださっていることに感謝。
豊穣に感謝し、お米一粒にも感謝。
けれども時には天候が荒れ狂い農作物やお魚が捕れなくなったりもします。
感謝はしようと思ってすることではないので
心から自然と感謝できるようになりたいと思います。
芯から有難みを感じられる人間になりたいと思います。
「お米一粒残さない私」なのですが、それはもちろん「感謝」もあるけれど、「バチ当たるから残さない私」だとも感じました。
大切な気づきをいただきありがとうございました。

「宗教について」問答一覧

伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?

 いつもお世話になっております。  私が尊敬する情報科学の先生がXで、 「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。 だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」 とおっしゃっていました。  私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」 と捉えています。  昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、 「仏様神様がお怒りになっている」 と捉えたと聞きます。  しかし、私は、 「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」 と捉えています。  私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、 思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも 繋がると思っています。  私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして いくかを説いてくれているものだという認識です。  「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。 私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと 思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が… お告げが…  お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や 精神疾患が原因と分かっています。  また、ある工学の先生は、 「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると 思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な 自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを 宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」 とおっしゃっていました。  私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、 世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。

有り難し有り難し 9
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牧師、神父、イエスキリストが信じられない

仏教のサイトでキリストの話をするのは筋違いだと思いますが、お話しします。 イエスキリストを心の底から信じられないのです。 というか、私は私が所属したい教会がわかりません。 宗教ジプシーで、十数個の宗教を渡り歩いてきました。 でも、どこの神様も心から信じられないのです。というか、どこの教会も心から信じられません。 牧師にもそのことを話しました。 どこの教会が真理かと。 で、聖書を読んでいるかと牧師に問われて、新興宗教の教会に通っていることを打ち明けると、とても馬鹿にされました。 すごく悲しかったし、本気でキレてしまいました。 新興宗教というか、キリスト教の教会にも行かなく成りました。 なんだか、「クリスチャン」が信じられないのです。 もちろん私が知り合ってきた人には、良いクリスチャンもいます。でも、ネットでクリスチャンを自称している人は嫌いです。 ガンジーが「クリスチャンはキリストのように生活してねーじゃん」とツッコミを入れているように、私はクリスチャンが善人ばかりではないことを悟りました。 私はどうしたらいいんでしょう。 もう宗教が嫌になっています。 嫌というか、何かすごい心がモヤモヤします。 どうしたらあの嫌な牧師を赦せるのでしょう。汝の敵を許せと聖書にはあります。 でもどれだけ祈っても聖書を読んでも牧師を赦せないのです。 カウンセラーにも牧師を赦せないことを話しました。 でも、心理学や精神医学を使ってもあの牧師を赦すことができないと私は思ってしまいます。 カウンセラーに助けを求めましたが、正直あまり救われたと思えないのです。 どうすれば人を赦せますか。 お坊さんは、こいつ殺してやりたいと思う奴をどう赦すのですか?そもそも人を殺したいほど憎みますか? また、どうすれば、私は私が納得する教会というか、教えに出会えるでしょうか。

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科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

 いつもお世話になっております。  ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。  私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。  「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。  精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。  以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。  しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。  科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。  そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。  こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。  時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。  ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。  実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。  

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宗教について

お付き合いをして3年目、結婚を将来的に考えている20代後半の彼氏がいます。 結婚に向けて話を進めていく中で、 彼氏のお母様が熱心な新興宗教の信者なことが発覚しました。 彼氏は生まれた時から強制加入されているようですが熱心ではなく活動などにも参加していません。幽霊会員のような状態です。 彼氏はお母様の熱心さに嫌気がさして出身地から遠い所で暮らしているので日常生活で相手の親御さんが尋ねてきたり勧誘してきたりはあまりないと思っていますが… 私の父親が宗教関連断固拒否派です。 彼のことはずっと知らせていて近々食事だけでもするという話も出ていました。 私自身は信仰の自由はそれぞれ個人の自由かと思っているので勧誘されても入らないことは頻繁に伝えて固い意思でお断りすれば良いかなと思っていますが… 彼氏のお母様は私の入信を望んでいる様子だそうです。 (彼氏は宗教関連の話を一切私にしないで欲しいとお母様にきつく言ったようですが聞かない様子だそうです) 父親の反応が怖くてその件を言い出せない状態ですが、母親にも相談したところ「考えが甘すぎる」と言われてしまい結婚は愚か食事会すら猛反対されてしまいました。 私の結婚に対する考えは甘いのでしょうか?

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なぜ祈る?祈りと願いの違いとは?

 いつもお世話になっております。  最近、気になっています。人は、なぜ祈るのでしょうか?  私は毎日、私がお世話になっている精神科医療スタッフさんが 安全にお勤めできるように、また、ストレスのため体を壊して しまった友人が早く回復しますようにと祈っています。  最後に自分のために祈ったのは、いつだったか。といった ところです。  あるお坊さんが、 「祈りとは誓い。『私は、○○をします。お見守りください』と、 神(仏)だのみではなく、自分が頑張るのを見守ってもらう」 とおっしゃっていました。私は、本来の仏教は神秘主義に傾倒した、 現実逃避の教えではないんだ。と安心しました。  しかし現実は、祈りや寄進が「自己愛の増幅」に繋がってしまって います。 「私はこれだけ○○様にお祈りしてるんだワ!」 「私はこんなに○○寺にご寄進したんだワ!」 と、ナルシストになってしまっているのです。  だから、信者間でのモラルハラスメントや、不倫や性暴力の 横行といった、これが宗教者かと思われる、アリエナイ事態 が各所で乱発しています。彼ら彼女らからは、本来宗教者が 持つべき「謙虚さ」が欠落しているのです。  現に私は、色々なお寺で色々な嫌な事をされています。  まともに祈って努力して頑張っているのは、医学生さんや 法学生さんくらいでしょう。  現に仏教系の大学は、偏差値が低い所ばかり。まあ、偏差値 というのは倍率のような側面もあり、志望者さんが多い学校ほど、 「きりがないから優秀な子から…」と高くなるようですが。  昔、陰謀論は宗教が担っていたそうです。陰謀論にはまる人々は、 「私は真実を知っている」「世界は間違っているが、私たちは正しい」 と驕ります。そして彼らは、科学が嫌いで怠け者です。  仏教では、 「あらゆる事象には科学的な原因があるから、呪いやたたりなど 怖くない」 と説いていると聞きますが、これを理解している人が、どれだけ いるでしょう?  もっと言いたい事はありますが、長くなるのでここまでに します。  私は祈りを捧げるとき、周りへの感謝、そして、頑張ります、 という気持ちを大切にしたいと思っています。そして、祈ったら、 次は現実的なアクション。間違っていますか?

有り難し有り難し 4
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ