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なぜ自分が生きているということが尊いのでしょう

回答数回答 5
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虐待の末に、親に子供が殺されてしまったニュースを見聞きします。
悲しい、切ない気持ちと共にいつも思うことがあります。
「幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」と。

私は児童虐待の生き残りです。
暴力で、言葉で、態度でズタズタに傷つけられて育ちました。
幸い良い人と巡り会い、結婚し、主人の実家とも実の家族のように接してもらえています。
心療内科に通い、もう怯えたり自分を責める必要はないんだと、先生と話し合いながら、病気の治療を進めています。

怯えながら、憎みながら生活していた昔を思うと、本当に幸せな生活です。
悲しいことも悔しいことも、もう叶えられないかもしれないこともありますが、幸せなんだと思います。

ただフラッシュバックなどで苦しい時、よく思うことがあります。
「今の幸せが全部チャラになったとしても、この世に生まれてきたくはなかった」
理不尽に虐げられて生き抜いても、大人になってしまった以上、自分でなんとかしなくてはいけないという更なる理不尽。
苦しい中を生き抜いて、まだ戦わないと安らげないのなら、この命は最初からない方が良かったと感じます。

そして冒頭に戻ります。
虐待の末に命を落としても、その先に待ち受ける苦しい人生を思えば、その方が幸せなんじゃないかと。

社会は無慈悲で無理解です。
自分に責がなく精神疾患を背負っても、大人になっていればその責を本人に負わせます。
精神疾患を持っているが故に業務が滞っても、自分達と同じように仕事ができないことを責めるというケースはよく聞く話です。

「与えられた命は大事にしないといけない」そんな言葉は聞き飽きました。
望まずして与えられた命、希望の持てない、真っ暗闇な自分の未来。
なぜ、私が生きていることは尊いのですか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

尊い心の持ち方がある。そこにチャンネルを合わせなさい。

大丈夫です。実質的に救われる生き方を求めれば結論がでます。私は仏教者でありながら反発派でした。本当にこの人は大丈夫だと任せられる(正師)師匠との出会いが無かったからです。それまではずっとすさんでいました。
人間は悲しいことに不幸の比較はできません。ですが不幸は「今をどう生きるか」心の在り方次第で変える/改善/改良することがチャンとできます。
私も人生どん底ズタボロだったのです。自殺しようとしたり、あきらめかけたていた時期がありました。
ですが参禅の師匠(井上貫道老師)との出会いによって「あらゆる苦しみは、(自分が)自分の考えの中で(自分で)やっている」(←ここ何度も読み返してください)という一大真実を教わったのです。最近ですと、震災後の陸前高田で眼にした光景が数か月フラッシュバック、頭から離れませんでした。ですがある時、知人が車でコカ・コーラの自動販売機に激突して、自動販売機をみるたびにフラッシュバックがあったそうですが、参禅を深めることで、毎日のようにフラッシュバックはあっても、そこから自分をイジメる、自分を苦しめるような❝悪い思い方を止めることができた❞と言っていました。「なるほど確かに人間は過去を思い返すことは確かにある。それで苦しむことも確かにある。だけど、過去を思い出すことだけにとどめておけば、そこに善悪は生まれなくなる」(←30回位読んでください)のです。
アナタの過去にも、誰の過去にも、過去の事実それ自体に咎(とが)はない、良し悪しのジャッジはなされていない。もちろん絶対悪、非、苦しみのジャッジ・判定を下すべきであろう過去もある。
私が申し上げたいのはフラッシュバック直後「自分の過去への善し悪しのジャッジ、判断で自分を苦しめてはいけない」ということです。
「自分の中の最高裁判所の裁判長はアナタのマインドです。」
もし、今もなおあなたが苦しいのだとしたら、実はあなた自身を苦しめているのが、自分の思い方なのです。あなたをあなたを苦しませる❝黒い思い❞からを開放、フリーにむかわせる教え、生き方が仏道です。
どうぞ自分を救うために「自分を苦しめる思いをさせない指導をしてくれる参禅会」をよくよく選別して求めてください。
どん底の私が立ち直って、こうしてみなさんに「大丈夫ですよ」とお伝えしているように、今日のあなたの問いちゃんと、ハッキリした結論が出ます。

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おきもち

可能性が絶たれていないから

カンナさま。
なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。

今は良い環境にあるとはいえ、大切な幼少期に辛い経験をされたのですね。そして今もフラッシュバックで苦しみ、また心療内科に通っていらっしゃる。
そんな状況にあるカンナさんに対し、私は生きているだけで素晴らしいことだと思いました。

カンナさんの仰る「(虐待で)幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」ですが、私は『(虐待で)幼くして散った命は、その子にとって苦しみは少なかったのではないか』と言い換えたいと思います。

なぜなら、生きていれば苦しみを超える幸せを得る可能性があるから、カンナさんが生きていることが尊いのです。死んでしまえば、苦しみは増えませんが幸せを得る可能性も絶たれてしまいます。

「虐待された苦しみも知らずに、そんなことを言わないで!」と思われるかもしれません。
でも私は、大きな苦しみを抱えた方がいつかその苦しみを超える幸せを手に入れて、「辛いこともあったけど、良い人生だった」と思って欲しいと心から念じています。
また、hasunohaがその一助になれるようにと思っています。

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おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
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命は一人のものではないのですから

元々は生きている云々でなく、「“命”が尊い」という言葉では無かったのかな、と思います。

命が尊いことは、この何もない宇宙という空間に生命というものが生まれるという、とても信じられないような難しさを思えば、なんとなくうなづけるのではないでしょうか。

「私は児童虐待の生き残りです」という言葉に胸が詰まります。そのような辛い過去があるからこそ、きっと今、このようにお考えになるのでしょう。私たちは全て、クモの巣のように繋がりあっています。独立した存在はありません。カンナさんも、自分以外の人のことで喜んだり悲しんだりしませんか。同じようにカンナさんのことを思われている方が大勢いらっしゃるはずです。

「幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」とありました。カンナさんがそう思ってしまうのも無理はありません。ですが、もしその母親がある日、自分の行動を反省する時がきたら、失くしてしまったものの大切さに身が引き裂かれる思いをするのではないでしょうか。

命は一人の物ではありません。ですから生きているという事はありがたく、尊いものだと私は思います。

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おきもち

住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...
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この世に生まれてきた意義。

虐待する親は子供の時に虐待されていたことが多いです。
親に愛されていなかった人たちが
親になってどう子供を愛して良いか分からず
自分が受けた虐待をまた子供に繰り返してしまうと言う
虐待の連鎖が生じてしまいます。
「長谷川博一」さんと言う人が子供の虐待に関する本を多数出しています。

カンナさんあなたの心の中でまだ過去の時間が止まっていませんか?
今は幸せな環境ですが、過去のあなたが
どうしても心の中、記憶の中に残っている感じがします。
「人格解離-わたしの中のマイナスな私」
と言う本の内容にはまっていませんか?
症状が似ていると私は思いました。
治療法は必ず有ると思います。
大丈夫ですよ。
それを乗り越えることが今生のあなたの生きる意味です。
神様は乗り越えられない試練は与えません。
それを乗り越えた向こうに新たの自分を発見して下さい。
応援しています。

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おきもち

50代、妻と娘2人。 若い頃はタイやインドなどアジアを中心に10年程旅行...
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それでも、「生きていることは尊い」と言わせて頂きたくに・・

カンナ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拝見いたしました。深い心の傷の程、お察し申し上げます・・今は良き伴侶も得られて、少しずつ周りの皆様に支えられての御回復の途上かと存じます。どうかあまりご無理なさられずに、時間を掛けて少しずつに癒されていかれましたらと存じております。

『「与えられた命は大事にしないといけない」そんな言葉は聞き飽きました・・』

確かに、通り一遍の杓子定規的な答えはもはや聞き飽きてございます・・そんな言葉、苦しく悲しく、つらい現実を前にした時、すぐに吹き飛んでしまうような薄っぺらいものであるかもしれません・・

そして、望みもしないのになぜ産まれてきてしまったのでしょうかね・・

下記問いそれぞれの拙回答からの引用となりますが・・

問い「これからの母との付き合い方」
http://hasunoha.jp/questions/264

『仏教では因果を考えるため、各々の持っている業の力も色々と作用しつつ、やはり何らかの様々な「縁」が複雑に絡んでの結果として、今の状態があると考えます。このような立場にあるのも何かの因縁によるものとしてあり、またこの世にての行いの数々が、必ず死後の状態に影響を与えていくことになります。そのため、仏教ではできる限りに心を清らかに保ちて、悪いことはなさずに、善い行いに努め励みなさいということが基本となります。』

問い「人間は何のために生きるのか」
http://hasunoha.jp/questions/36

『「有暇具足(うかぐそく)は得難く・・」とありますが、例えとして「一度にたくさんの豆を壁に向かって投げつけたとき、床に落ちずに壁にそのまま残る豆のように」とありますように、人間として生を受けるのは、実にまれなることであり、過去世からの善業や仏縁などの良い因縁により得ることができるものであります。』

そのため、私たち仏教に携わる者においては、この機会をしっかりと大切にして、「悟りを目指すため」の修行に努め励むことが望まれることにはなります。

今生でも、できる限りに悟りを目指しての修行を進めていくためにも、やはり「生きていることは尊い」と拙生は言わせて頂きたいと存じております。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

投稿したその日に回答をいただきながら、お礼が遅くなってしまい、申し訳ありません。
改めまして、お忙しい中回答をくださりありがとうございました。

早くお礼を…と思っていたものの、(精神的に)殴り飛ばされるようなことがあり、とても不安定な状態です。
週明け火曜日が病院の日なので、そこで話を聞いてもらい、なんとか落ち着く方向へ舵を切れたらと思います。

いただいた回答に目を通しながら、また少しずつ歩いていこうと思います。

「世の中・社会のできごと・風潮」問答一覧

現代社会と本来の豊かさについて

悩みというよりは漠然と考えてしまうことがあります。        私は会社を起業し10年ほどになります。     会社とは何か?という本を設立当初に読み、 そこには『社会に必要とされているもの。人の役に立っているから存続が出来、人の役に立たない会社はなくなっていく』と書かれていました。     右も左も分からない中での起業でしたが、自身にそのような志が強くありましたし、その本に書いてある言葉に納得し、一生懸命頑張ってきました。     設立前から準備していたことや、業界を分かっていたこともあり、心身の苦しさや辛さはありながらも、経営は順調に右肩上がりで伸びていきました。 しかし、何処かでとても苦しさのような葛藤がずっとあります。     社会がいかに利益追求型の仕組みで弱肉強食であることを肌で感じること、それでも日々闘い続けねば生き抜けない。 競争社会、資本主義社会という中では当たり前のことだと理解すればするほど。 中小企業の社長さん達も皆んな日々闘い続けているんだなぁと思いながら。     そういう渦中で、自分の心身はいつも振り回され乱れるばかり疲弊する日々が数年続き、 自身を見つめ直したり心を丈夫にする為に色々と模索してきました。     そうした中で見つけたものは、お釈迦さまの教えや禅的な考え方でした。   日本では宗教にハマると聞くと直ぐに悪い意味で捉えられることが多いですが、 何か目印になるような共感できたり学べるような考え方というものに救われることに有り難さが溢れてきて泣きそうになります。   自身が人の為になることを〜と思い起業しましたが、会社を通して社会を知り、そこに向き合った今の時点で想定もしていなかった答えがあったように感じています。   知り合いに若いお坊さんがいますが、もっと遊びましょう、もっと休んでください、自分は人生遊んで過ごします。とよく仰っています。実際夜遅くまで飲みに行ったりしていて、誘ってくることも多いです。(行きませんが) そのお話しも極端に思えて、私には失礼ながら浮世離れしすぎていてついていけません。   長くなってしまいました。 文章がまとまっておらず伝わっているか不安ですが、 お坊さん達は今の資本主義社会と仏教の教えに乖離を感じますか? 感じられる方はどうバランスを取られていますか?

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

日本が一番ではない

僕が24年間生きている中で日本が一番ではありません。みんなは日本が一番だと言ってますが。日本つまらないし毎日刺激もないし変化が全くありません。サッカーの試合も見ましたがあまりつまらなかったです。なんかサッカーにはスター選手いないので面白くありませんでした。Jリーグの試合見ましたがつまらなかったです。ラグビーの試合見ましたが一方的な展開すぎて全くつまらなかったです。しょうもなさすぎました。日本脱出したいです。お金がないので今年全く関西から出たことがありません。出てみていろいろ体感してみたいです。何も楽しくありません。学生生活も全く楽しくなかったです。 日本生きてますが個性が全くありません。日本人も何となく生きてる人が多いような気がします。日本も少子高齢化が年寄りやおっさんが多いような気がします。僕にとっては楽しくもありません。ランダムチャットも利用しましたが喋ってみても全くくだらなかったです。ランダムチャットしましたがしょうもない人多かったです。考えも偏っているようにも思えます。日本には閉塞感がありすぎてつまらないです。日本楽しくもありません。日本は真面目な人多いので過ちや誰にも迷惑かけてない人が多すぎて万引きやカンニングなどの過ち犯したり人に迷惑かけたり(それは当たり前ですが…)失敗したら許されない国なので自殺者も多いのではないかとも思います。日本自殺大国になると思います。 日本人も世界情勢や世界のことに興味がない人が多いようにも感じます。 日本の気候も暑さ寒さの寒暖差が激しすぎて日本の四季に耐えれず嫌になります。 東京も行きましたがサラリーマンが多く殺伐とした風景や混雑が激しすぎて嫌になります。 今までも教習所で高圧的にされたことや偉そうにされたことやバイト先でも上司があまりにも態度悪い人もいて日本が一番とも思いません。たまたま人の答案が見えてしまったりしました。やっぱり日本悪い国だなと思います。みんな日本いい国やいい国やと言ってますが僕はそう思いません。 僕が思う日本のいいところは治安がいいところと料理が美味しいところと生活水準が高いところぐらいです。どこの国もいいところは最低1、2個はあると思います。 やっぱり僕にとっては日本が一番ではありません。

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日本に盛り上がりが全く足りないです

今、大阪にいますけど閉鎖的で盛り上がりもなく楽しくありません。地下鉄に乗っていますが表情が暗い雰囲気を作って楽しくもありません。夜もアメリカのようにパーティーみたいな盛り上がりもなくて寂しいです。日本は閉鎖的な国だとも思います。 ラグビーワールドカップ2019イングランド対アメリカではかなり賑やかやったしパーティーしてたようにも思えます。結構、日本よりも盛り上がっていたようにも思えます。イギリスやアメリカはパーティー文化がある国にも思えます。イギリスやアメリカの方が個性的な人いたような気がします。 アメリカ行ったことがないので自分には分かりませんが日本よりも個性がある人が多いようにも思えます。 僕にとっては10年前頃ですが、明光義塾北巽教室通ってた時は個性的な先生もかなり居ましたし、活気もありました。まあまあパーティー的に盛り上がっていたと思います。明光義塾北巽教室では賑やかでワイワイしてて僕にとっては楽しかったのです。明光義塾北巽教室Twitter(現在はX)では個性感半端ないな。キャラ感凄いなと書いたらいいね1つくれました。親には明光義塾北巽教室勉強するところやのに遊びに行ってた所が怒られました。 そういうの日本ではなかなか無いから寂しいです。日本の閉鎖的な環境が辛すぎてたまりません。パリピみたいな盛り上がりが好きでたまりません。日本は雰囲気が暗い国だなと思います。 日本生きるのが活気と盛り上がりが無さすぎて辛いです。日本人って個性が全くない人ばかりでつまらないです。僕の近所でも全くパーティーみたいに騒ぎがないのがつまらないです。 日本は治安も良くてご飯が美味しいと言う理由からいいって言っていますけど僕はそう全く思わないです。 日本は衰退国家だなと思います。日本は閉鎖的すぎて嫌になります。日本に生きていてもつまらなさすぎて嫌になります。だからアメリカ移住したいです。 四谷学院の校舎長に言われましたが大学は盛り上がりはないと言われ、寂しいです。辛すぎます。大学でも遊びに行っている人や騒ぎに行っている人もいると思います。僕は日本が大嫌いです。日本は同じことばかり過ぎてつまらないです。 サテライトオフィス平野に通っていますが、その事が悩みすぎて集中出来ないことがあります。 日本では盛り上がりや活気が全くないので暗いし寂しいししんどいです。

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日本は姥捨山を求めている

「今の日本は傾いているから誰かを犠牲にしたい」という感情が蔓延している、ということを声を大にして言いたいのです。だから、私のような無能は人権を放棄しなければなりません。そもそも、労働に縛られている時点で普通に生きられている人間にも人権がないからです。 増税や経済的負担に対する抜本的解決がない以上、「障害者をガス室送りにしなければならない」「生産性のない人間をガス室送りにしなければならない」という思想が蔓延するのは必然です。価値のある人間しか生きることを許されないのです。 社会や世界全体への不信感が強烈で、もうどうにもならなくなっています。けれど生きるには労働しなければなりません。私を傷つけ苦しめ貶め殺すためだけの場所に入っていかなければなりません。そうしないと人権が買えないからです。 自分を殺さないと人権が買えない。けれど人権を買ったところでいつ足元が崩れるかわからない。自殺推奨活動のほうがよっぽど慈悲深く思えてしまうのですが。 こんなクソみたいな世界で、どうして自分を殺してまで生きるしか方法がないのでしょうか。どうして、不幸になるしかないこんな世界がいまだに続いているのでしょうか。この怒りをどうしたらいいのか全くわからないのです。 壁を殴ったらヒビが入る。そういう、自分のアクションに対して当たり前の反応が返ってくる、という経験が薄く、その度に苛立ちが募ります。自分が気にならない、話を聞いても何が悪かったのかよくわからないことで長々と詰められ、こちらの言い分は何一つ聞き入れられない。そういう不公平さの中で生きてきたので、何に対しても「自分を殺せばいいじゃない」としか思えません。だって、人間は自分以外の誰かが犠牲になることを望む生き物ですから。私は誰の犠牲になれば良いですか?私の代わりに誰が犠牲になってくれるのですか? どうせどう生きたって誰かに支配されたまま終わるのです。そうしないと人権が買えないから。現実を見れば見るほど嫌な気持ちだけが募ります。この世界に救いはない。あるのは泥のような絶望だけ。はーあ、努力とかくだらない。今まで言われてきた沢山の言葉に対する恨みが消えない。でも他人から見たら悪いのはぜーんぶ自分。やってられない。どうせ「悪いのは私でした」という反省のポーズしか望んでいないのだからロボトミー手術を受けなければ私はこの世界に生きる権利を与えられない。

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やはりこの世界は信用に値しない

また新たな戦争が始まりました。明日は我が身でしょうか。 「報道しない日本メディアはダメだ」と言われています。私たちは平和ボケしているのでしょうか。まあ日本が戦争に巻き込まれるのも時間の問題ですね。私たちに未来なんてない。現実なんて汚らしくて残酷なものでしかない。 この世界のシステムに耐えきれなくなった憎悪が世界中で噴出し騒乱を巻き起こしているマクロな事実と、そんな完璧ではない人間という生き物から一方的に「あなたが間違っている」「あなたが変わればうまくいく」と言われ続けたミクロな怒りが混ざり合って何もかもが馬鹿馬鹿しいとしか思えません。だから生きているのが嫌なんだ。 仏教だって結局、生きるも死ぬも理不尽しかないものだから何か納得できるだけの理由をこねくり回した結果でしかないでしょう。「全部私が悪いので悔い改めて、私の全部をこの世界に捧げます」と生きなければこの生命という不愉快極まりないシステムから解放されないのですか。喜んで火の中に飛び込む兎になれと。結局望まれているのは自己犠牲じゃないですか。生き物は、自分のために自分以外のものが犠牲になることを望んでしまうものなのです。 どれだけ努力したところで、自分とは関係ないもっと大きなものによって簡単に潰される。この国のシステムも欠陥だらけで有事に対応できると思えない。いつ殺されるかわからないから、いま生きていることに感謝すべき? そう思うにはこの世界はあまりにも汚らわしすぎます。ずっと言ってきましたよねこの世界は生きるに値しないと。その決定的証拠がまた一つ増えたんですよ。生きるも死ぬも誰かの天秤の上。人権なんて初めからなかった。第三次世界大戦はいつ起こりますか? 私たちは死ぬ準備をしなければなりません。 薄氷の上の平和すら貴重品となってしまった世界で、その平和の中にいながらうまく生きられない罪悪感。自分の在り方を否定され続けてきたが故の「どうせ自分なんていらないんでしょ」という感情と閉塞感。秒読みとなった戦前危機に対する焦り。人間という生き物への困惑。未来に対して絶望視しかできない。こんな世界の中でどう生きろと。けれど何を言われても響きはしない自分自身に対しての苛立ち。今の世界を見ても美しいと言えるでしょうか。 結局、傲慢でなければ生きられない世界。2025年を迎えられるといいですね。きっと無理だろうけど。

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