皆様に大変ご好評をいただき、ご質問が殺到しています。

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人間は何のために生きるのか

人間は何のために生きるのでしょうか? 

私の大好きな漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』の第3部で、DIO(ディオ)は、『人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる』と答えています。

なるほど確かに。人間の営みにおいて、この言葉はすべてに当てはまるのではないかと思いましたが、なんだかこの言葉に当てはめてしまうと生きる希望をもてないというか、元気に前向きに生きようという気持ちにはなりません。

この質問に対して、前向きに元気になるような、また人生の応援歌となるような、そんな回答や言葉が欲しいです。

生きる意味
有り難し 345
回答 5
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

何もしないでも おられる人 となれ

これは、禅の教えで、仕事も何もしなくていいという意味ではありません。

・心が、あれこれ、動いてもそのままでいられるようであれ。
・どんな事が起こっても、そこに思いを起こさずに処せる力量を持て。
・黄檗希運禅師「の『伝心法要』に、
(意訳)
「出来事に処して、一念も思いを起こさずに、そのままでおられる心のありようを達道(悟り)という」教えがあります。
この意味での「何もせんでもおられる」という事です。

「何の為に生きるのか?」
学生時代、この問いに満足のいく答えが導き出せず、ノイローゼ気味になって自死も試みようとした時期がありました。

最終的に救いになった教えは、
「理由づけで満足するな」「意味付けに酔いしれるな」「そのままで居れる人となれ」
という教えでありました。

人はとかく理由付け、意味付け、意義づけをしたがる生き物です。
立派な理由、大義名分であればある程、納得、合点は致します。
こういう行為は何か意義があるようで、獲得感に満ち溢れ、楽しい事なのです。
ひねくれ者の私はそれでは満足しきれず、禅の門をたたきました。
哲学や心理学好きで理由付けが大好きだった私。
禅の道場では理屈っぽさが抜けず苦労いたしました。
10年の修行の中、老師との問答を重ねる中で、
「お前さんは、いつも理由付けをしたがるな」
「それは理屈にすぎない。いくらウマイことを言ってもダメだ」
今までの見識がまるで役に立たなかったのです。
「えっ?生きる意味や意義を見出し、だれもが納得いくように的確に表現することが、仏道の修行ではなかったのか?」
禅の修行の最高峰は真逆でした。
その答えは物事に意味をつけたり、理由付けをする以前の本物のナマの世界を味わうことだったのです。自分が悟りの味を舐めれば、チャンとわかる実証の世界。
舐めないうちに悟ったフリして味を想像でこうだああだと語っても老師には嘘がバレてしまう。
ある一面から申せば、人生の終局目的は「欣求菩提、利益衆生(悟りを求め、その心を多くの人に広めること)」という面もあり、確かにその通りなのです。
ただ、そういう表現が「成り立つ」というだけ。
理由付けや、意味付けで、何か分かったような気になること無く、
「何もせんでもおれる様であれ」
この真意が分かれば、
それ以上の安心感、確信がもたらされることでありましょう。

「まこと」を求める

このご質問は「ついに来てしまったか」という印象です。力不足ですが、私の思うところを書かせて頂きます。

まず、さすがDIO(というか荒木飛呂彦さん)、なるほどと思わせるひと言です。これも充分、ひとつの答えですよね。

さて「人間は何のために生きるのか?」と問えば十人十色の答えが返ってくると思います。
私が聞いた中で一番しっくりきたのは、浄土真宗本願寺派の中西智海師(亡くなっておられます)の「人間は、まことを求めて生きるもの」というお言葉でした。
言い換えれば「人間は『何のために生きるのか』それを追い求めて生きる」ということだと思います(ちょっとズルい答えでしょうか)。

引用が続きますが、明治時代の仏教者、清沢満之師は「他の心の作用がたいていの場合、有限な事柄を対象とするのに対して、宗教心の方は、それと異なり、無限な事柄を対象にします。」と著書に書かれています。
やはり、追い求めるものをハッキリと表すことは出来ない、ということでしょう。

結局、ひと言で「何のため」とはなかなか言えないし、人それぞれでもあろうと思います。しかし中西師の「まこと」という言葉にご注目下さい。
人間は、目先の欲望などのために生きるのでは決してないのです。何か尊いものを求めて生きるのが、人間が人間たるゆえんではないでしょうか。

そしてそれを求める道は、経済でも政治でも科学でもなく、宗教なのだと思います。
私にとっては親鸞さまが説かれた仏道がそれです。
愛の太陽さんにとっての「まことを求める道」が見出されることを念じています。

回答僧
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増田将之

浦上師、川口師の「まことを求める道」、「悟りを目指すため」というお言葉で充分ですが、ありがたいご縁ですので私なりにお答えできればと思います。
私たちは必ず死というものが、やってまいります。これは、老若男女問わずおとずれ、いつ何時あるかわからない事です。その死というものを目の前にしたとき「満足な人生であった」と自分自身が思えるように"今"を生きているのではないかと思います。
そのために、人のためでも、自分のためでも、精神的なためでも何でも良いとは思いますが、何かのために、「~したい」という欲、煩悩とうまくつきあって生活させていただく、つまり、意味のある欲、「意欲」というものをもって、一日一日の生活をさせていただく事が自分自身の“何のため"がより深くなっていくのではないかと思います。

人は人のために

愛の太陽 様
はじめまして。私の回答をさせていただきます。

人間は生まれてきたことにそれぞれ意味が存在します。
あえて「何のために」という言葉を使用しますと
それは「他者を幸せにするため」にあります。
あらゆる仕事の目的は同じことが言えると思いませんか。
自分がしたことで他者の役にたち、他者が喜ぶ。
決してそのような他者の姿を見て、悪い気がする人とはいないはずです。

また、その気持ちのつながりが今の世をより良いものに変えていけると信じております。合掌

愛の太陽 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

「人間は何のために生きるのでしょうか?」

仏教からの答えとしましては、「悟りを目指すため」となります。

『人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる』というのは浦上哲也師もおっしゃられておられますように、ある意味では仏教的な答えであります。世俗・世間の迷い苦しみを離れて、「大安心(あんじん)」の悟りの境地を得ることが、まさに仏教的な答えとなるからであります。

克服するのは、「無明(むみょう)」(根本的無知)・「煩悩」・「悪業」であり、「不安や恐怖」というものは煩悩に含まれるものとなります。

「有暇具足(うかぐそく)は得難く・・」とありますが、例えとして「一度にたくさんの豆を壁に向かって投げつけたとき、床に落ちずに壁にそのまま残る豆のように」とありますように、人間として生を受けるのは、実にまれなることであり、過去世からの善業や仏縁などの良い因縁により得ることができるものであります。

有暇具足とは、簡単には修行するのに適した境遇・条件が調っていることであります。天・人・修羅を三善趣、畜生・餓鬼・地獄を三悪趣として、この六つの境涯のうち、有暇具足を得れる人間だけが、悟りを目指して精進できうる存在であり、世間の八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)にとらわれて無駄に過ごすことなく、すみやかに出離(この輪廻の苦の大海を厭い逃れたいと思う心)を起こし、次に菩提心(迷苦にある一切衆生を救わんとしての慈悲心より生じたる悟りを求めたいとする心)を起こして、確かなる仏縁の下で聞(教えを聞くこと)・思(聞いた教えを自らで分析・検証して理解を深めていくこと)・修(十分に理解した内容から瞑想や観想、善徳行を修めていくこと)と修行を一歩一歩進めることが望まれるのであります。

前向きに元気になるような、また人生の応援歌となるような、そんな回答や言葉ではないかもしれませんが、「いずれは悟りを得ることを目指して、今世でもできる限りに努力して、また、再び仏縁を授かれて、智慧の修習、善徳行の実践を積める境涯に生まれることができますように、共に頑張って参りましょう。」

川口英俊 合掌


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