hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

救いよりも

回答数回答 7
有り難し有り難し 151

救いよりも安らかに死ねる言葉が欲しい


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

残念

そんなのねーよ。

甘えんな。目を覚ませ。

<追記>
”死ぬ勇気すらない”
そうだね。だからこそ、なけなしの勇気を振り絞って生きているあなたは、やっぱり立派なんだよ。

ただ「死」が怖いんじゃない。虚しいまま無意味に死んでいく事がマズイって事をあなたはちゃんと感覚的に知っているのでは?これは尊い事なんだ。

<追記2>
”生きる意味を悟っていて死なない訳じゃない”
あなたの頭じゃない。体が、存在そのもののほうの話だよ。

{{count}}
有り難し
おきもち

【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
このお坊さんを応援する

安らかに死ぬ言葉?ありません。

maruoさん

maruoさんが死んでも私たちには明日が来るはずですし、亡くなったことを知らず、悲しむことも出来ないかもしれません。

すみません。ものすごく客観的な冷たいことを言います。

なぜここに死にたいと書くのか。
本当に死ぬ気なら、さっき海に身を投げることも出来たはずです。

それはあなた自身が必死で頑張って、耐えて生きてるからです。死ぬか生きるかの微妙なバランスにいながらも、必死で生きようとしている証拠です。

だからこそ辛い。
誰かに話して少しでもその苦しみや
葛藤を吐き出したい。
そのために、ここで誰かに頼ろうとしているんですよね?

maruoさん、まず理想的な自分というものを捨て、身近な人、職場の人や、家族の誰かに頼ると言う事をしてはどうでしょうか?

誰かに頼ることは恥ずかしいことではありません。

自殺、めちゃくちゃ痛いし、めちゃくちゃ苦しいですよ。

私も死ぬ勇気が無くて出来ませんでしたが、
勇気が無くて良かったと、今となれば思います。

やりたかったこと、思い残したこと、心残り
は本当に何1つ無いんですか?

変なプライドは捨てて自分の中のモヤモヤをもっともっと吐きだしてください。

【追記】
死ぬ勇気が無かったのは私もです。
いつかきっと笑える日がきますよ。
まずは、誰かに頼ってください。
ここでもいいので、思いの丈をぶちまけてくださいね。

{{count}}
有り難し
おきもち

慶成(けいじょう)
広島市内中心部の寺町・品龍寺の副住職をしています。 2017年まで東京の...
このお坊さんを応援する

幾度と迷いの連続の人生はすべて意味あるものであった。自分自身のドラマという主役を見事に演じたのである。

世の中に無意味なものなど一つも無し。
しかし、自死するもの迷いの霧から抜けることはできないのである。

合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

祈るこころに佛心が宿る。 変化多き時代を生きる私たちにできること、それは...
このお坊さんを応援する

あなたの仕事は素晴らしい仕事です。
苦しむ人たちを救う素晴らしい仕事です。
私自身も何度か入院して、その度に救われてきました。
あなた達のお陰で今の私達があります。
そのことを忘れないでください。
できることだけ、ただ自分ができることだけ、それだけをやったらいいのです。
恥ずかしくても、プライドが邪魔しても、できないことはできないと周りの人に言って周りの人に任せてください。
知らないことは知らないと周りの人に言って周りの人に聞いてください。
決して一人で仕事を抱え込んではいけませんよ。
職場に行ったらお客さんに話しかけてください。今日はどんな調子か聞いてみましょう。
あなたが向き合うのは部下ではなく、上司ではなく、お客さんです。
お客さんに優しく接してください。
お客さんの為にできることに集中してください。
部下の人間関係など二の次です。
お客さんを真っ直ぐに見てください。
先ずはそれが一番大切だと思いますよ。

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
このお坊さんを応援する

南無阿弥陀仏

浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏をとなえて、極楽浄土に往生したいと願うならば、その人は、臨終の時に阿弥陀仏の力で極楽浄土に往生させてもらえると考えます。
そして、諸行無常。人はいつ死ぬかわかりませんから、毎日「南無阿弥陀仏」の念仏を称(とな)えるようにし、しかも、毎回の念仏を、最後臨終の念仏のつもりで 称(とな)えます。
結果的に命が延びて明日も念仏できるなら、それはそれで良いのです。
なぜなら、念仏も仏道修行(善行)の一つなので、念仏すれば善行の功徳が積もる(心に善い癖がつく)のですから。
日本における浄土宗の開祖法然上人は、
「生きれば念仏の功徳がつもるし、死ねば浄土に往生できるのだから、生死ともに思いわずらうことはない。」
と言われています。
南無阿弥陀仏は、安らかに死ねるだけでなく、安らかに生きる道でもあります。
往生極楽に向かう南無阿弥陀仏の道を歩く私達。
その真っ直ぐ続く白い道の左右には、欲の水の河と怒りの炎の河がある。どちらも激流。
白道を歩く私達には、欲の波や怒りの波がザブーンとふりかかり、白道から欲・怒りの激流にすぐ転落しちゃう。
しかし、そこで南無阿弥陀仏と 称(とな)えるとあら不思議。
旅人(心)は瞬時に白道の上にテレポート。激しい欲・怒りから抜け出せるのです。
私達は、毎日欲・怒りの激流にのまれますが、その度に「南無阿弥陀仏」で白道にもどれば良いのです。
「死にたい」ときは、現実に対する怒り(嫌だ・ムカつく・悲しい)の激流ザブーンのときです。
大丈夫、南無阿弥陀仏で白道に戻りましょう。
いつ死んでも極楽に往ける、生きてるときは白道に戻れる。
大丈夫です。

あと、念仏している人は、死ぬ瞬間は阿弥陀様が迎えに来てくれるので、死ぬ瞬間は断末摩の苦しみから解放されると、書物には書かれています。
断末摩ね苦しみとは、末摩という、全身にあるツボみたいなところに死ぬ瞬間に生じる苦しみだそうです。
念仏者にも末摩はありますが、そこに生じる苦痛を阿弥陀様は取り除いてくださるので、安らかに臨終を迎えられるのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

心の休息

maruo様

一度、心療内科を受診されます事も。

躁鬱的なことがやや心配でごさいます。

少し心の休息が必要であるのかもしれません。

あまりご無理なさられずに。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

これから

拝読させて頂きました。
生きている中で辛い思いをなさっておられるのでしょうか。
あなたがこれからの人生を安心なさって心安らかに全うなさり、その後必ず仏様に導かれて仏様のお浄土に生まれ変わり、一切の悩みや苦しみから救われて心穏やかに円満になられますようにと切に仏様にお願いさせて頂きます。そして真心を尽くしてお念仏おとなえさせて頂きます。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

あなたもどうか仏様にお救いくださいと真心を尽くして願いお念仏おとなえなさってくださいね!

あなたの願い私の願いは必ず仏様に届きます。

あなたはその天寿を全うなさる時には必ず仏様がお導きなさってくださいます。

どうかこれからの人生は仏様を信じて心から仏様にお向き合いなさってお念仏おとなえなさってください。

あなたがこれから心穏やかにその天寿を全うなさり仏様にお救い頂きますようにと切に仏様にお祈りさせて頂きます。

南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

{{count}}
有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

死ぬ勇気すらない

今日の仕事が奇跡的にこんなに早く終わった。
明日が来るのが怖い。
生きる意味を悟っていて死なない訳じゃない。
ただ飛び降りる勇気がないだけ

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
回答数回答 3

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ