hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?

回答数回答 6
有り難し有り難し 72

いつもお世話になっております。
ゆうりです。

お坊さんの、一言というのは、何故こうも、身に染みるのか。
お坊さんは、話上手です。(この言い方は怒られてしまうでしょうか?すみません。)
気になりました。
タイトルは、以前の質問で頂いた、今、大切にしている言葉です。
私は、将来研究者になるにしても、農業高校の先生になるにしても、(ノンプロで噺家、漫才師、芸人になるにしても)喋るという行為は、不可欠で欠かせません。

特に先生というのは、人間をつくる(あえてひらがなです。)職業であり、また農業を通じて命を慈しむ力を育んでもらわないとなりません。
さらに、私が噺家もを目指すの理由というのも、弱い奴に立ち上がってほしいからです。社会の皺寄せは弱者に来ます。そういう人に、立ち上がってほしいからです。

さて、「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」

この「心」という部分があるから、「周りの友達」ではなく「hasunoha」に救いを求めるのだと最近思いました。私もその一人です。
その熱い「心」はお坊さんの場合は、「修行」によって培われているのは言うまでもありません。
(私の場合は、理由が異端なだけに、「信念の強さ」で解決出来てしまうかもしれませんが・・・)
しかし、私たち質問者は、どのようにそれを鍛錬すればよいのでしょうか?
その「心」どうしたら磨かれるでしょうか?

自分磨きというものは「自分が自分をするのみ。」「自分が自分の行を行うのみ」
精神的な強さを得るためには、「自分が自分を学んでいくこと。」
そう、以前にお言葉を仰ぎました。

これの継続によって得られるものなのでしょうか?
また、これだとまだ何か、足りないでしょうか?

お手数をおかけしますが、お手おすきの時間がありましたら、回答の方を宜しくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

内、虚にして外、事あるのみ。

あなたの質問は、他の人からすると意味不明でしょうが、核心を突きつつあります。
うまく表現ができないだけでしょう。
まず、今これをご覧になられているでしょう。
それは誰の様子ですか。
他でもない、あなた自身の活動ですよね。
外の側に、この文字、このことがある(と思うのが一般常識ですが、そうな)のではなく、あなたの身の上の側に一字一字がボーンと現成されている。
内も外もないでしょう。観ている自分も眼も忘れられているでしょう。
この画面から目を離して当たりの景色に目を向けてください。
壁がある、景色が映る。あなたの外側に景色があると思われるでしょうが、実際は厳密には「あなたの身の上の様子」(アナタ側に行われていること)なのです。
あなたがそこに居なければその事はあなたの上に映じられることはないからです。
目耳鼻舌体心の六感、心身全体で、みている事、聞いている事に(あなたが)「そのもの」になっているでしょう。
「私がそのもので、そのものが私自身」。
かつて今まで、あなたのこと以外に何かありましたか。
人の事を気にしているのも、あなたの様子でしょう。
故にそれは他人のこと、外の事ではなく、あなたの身の上に行われていることではないでしょうか。
ですから、だからこそ、であるが故に「人生は一生、自分の事しかない」と知るべきです。
あなたが追いかけている女性に対してあれこれ思うのも、自分。
フラれた、うまくいった、相手が気になる、あれこれ思うのも全部、一生、自分。
「自分が自分の向かっている、そのこと(PCなりスマホなり見ているものなり、聞いているものなりを)
ただ、そうしているだけ」でしょう。
それが人間の実相です。
自分の心が無い、ということではなく、
みている自分、観察している自分とかいう意識も忘れられているでしょう。
鍛錬、とかじゃありません。
自分が物事への正しい在り方が確証された時に、おのずと他者から見れば、肝がスワっているようにも、冷静、平常心、不動にも観えるだけのこと。
何故なら、自分自身をしっかり観ているからです。
覚者は、常に自分に目を向けている。
外のことはないのだから。外の事とアタマの中で思うでしょうが、すべて自分の上に行われていることだから。
自分、外界、向かっているモノゴトへの正しい認識、処し方がハッキリする事が本来の仏教であると知るべきです。

{{count}}
有り難し
おきもち

「機」

ゆーりさん、お久しぶりです。なごみ庵の浦上です。

「お坊さんのひと言が身に染みる」と仰いましたが、それにはまず、ゆーりさんが聞く耳を持っているからです。聞きたい、学びたいという意識があるから、私たちの言葉を有意義だと受けとめて下さっているのではないでしょうか。

さて、教師になったとしても噺家になったとしても、人の心を動かすのは非常に難しいことです。少し前の質問(自分を大切にして欲しい時〜)でもそうですが、ゆーりさんは人の気持ちを動かしたい、という思いを持っているように感じます。しかしそれを目標にするのは避けた方が良い気がします。

どんな偉人であっても、聞く側の機が熟さなければ、人の心は動かせません。
でも時には、心無い人の言葉でも聞く側の機が熟していれば、響くことだってあります。

教師になっても噺家になっても、相手の気持ちを動かそうなんて思いは、脇に置いて、一所懸命に自分の為すべきことをする。それしか無いのではないでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
このお坊さんを応援する

あちらの心を動かす心

ゆーりさんこんばんは

それは相手のことをちゃんと見て相手のために耳を傾け、真剣に相手の為を思って応えることによって養われるのだと思いますよ

案外これは難しいです。私たちは会話をすると素直に話を聞くのではなく「どうやって答えようか」「そうやって間違いに気づいてもらおうか」などと違うフィルターを通して対応してしまうことがあるからです。
つまり相手を理解する前に自分の意見を押し付けようとしてしまうことがあるんです。

そして、熱い心というのは時として正しさという姿で現れることがあると思います。「これはこうした方がいいんだ!!」って 
自分は正しいとは思いすぎない方が良いと思います、自分は正しいと思うと頑固になりますし、相手に自分のことを押し付けてしまうこともあります、つまり相手のことを受け入れていないことに気づけなくなることもあると思うんです。

もちろんこちらに心がなくては相手の心は動きようもありませんよね、でも今のままではまだ足りないんじゃないか、まだ未熟なんじゃないかってことはあまり思わなくていいと思います、私たちも一緒に学び続けている仲間ですから、一緒に磨いていきましょうね^^

熱い心よりも、私は受け入れる心が大切かな~なんて思いました^^

{{count}}
有り難し
おきもち

私達は本当に悩んでいる事は、なかなか相談する事ができませんよね、私も10年...
このお坊さんを応援する

あるがままなり

ゆーりさん、はじめまして。
ボクは真宗大谷派に僧籍をもち、住職をしておりますが、いわゆる修行というものをしたことはありません。ただお念仏申せと、お念仏を唱えることが唯一の行であると学んできております。

お念仏とは、あるがままの私を受け入れ救いを求める言葉です。好ましくない自分、他を選び、嫌い、見捨て、怒り、腹立ち、妬み、嫉む私をなんとか正当化して、ツジツマを合わせて生きている愚かな私をしっかり見つめなおし、受け入れる。

そんな愚かな私が、その私を自分自身が受け入れる言葉、南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依する言葉)を唱えることによって、阿弥陀如来は選ばず嫌わず見捨てず、その愚かなまんまのあなただから救いましょうと受け入れてくださいます。

愚かだからしょうがない、そう開き直るわけではなく、愚かな私が自己正当化することが、ご縁ある周囲の人たちをを傷つけ貶め泣かせていることにつながっていることに気づいていく。そんな愚かな私でも、ご縁によって生かされ救われます。

自分とは、他人がいて初めて認識できることです。その他とのご縁によって成り立つ私を「おかげさまで」と言い、感謝できる自分であるかどうかが常に問われてあるのではないかと思います。

回答になっていないかもしれませんが、主体としているつもりの自分は、他があって成り立っていることの認識が大事かと感じます。
合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

真宗大谷派寺院で住職をしております。真宗目線でお話できることがあれば幸いで...
このお坊さんを応援する

「達磨安心」

ゆーり様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

禅問答「南嶽磨磚」を以前の回答にて扱わせて頂きました。

この度は、禅問答「達磨安心」をご紹介申し上げたくに存じます。

「達磨面壁。二祖立雪断臂云、弟子心未安。乞師安心。磨云、将心来。與汝安。祖云、筧心了ニ不可得。磨云、為汝安心竟。」

「達磨面壁し、二祖、雪に立ち臂を断ちて云く、弟子、心、未だ安からず。乞う、師、心を安んぜんことを。磨云く、心を将(も)ち来れ、汝が與(ため)に安んぜん。祖云く、心を筧(もと)むるも、了(つい)に得べからず。磨云、汝が為に心を安んじ竟(おわ)んぬ。」

達磨大師は、(中国)禅宗の開祖です。壁面に向かって坐禅をしている達磨大師に対して弟子入りを請う、後の(中国)禅宗・第二祖となる慧可大師とのやりとりとなっております。

雪の中で面壁している達磨に対して、慧可は自らの腕を切り落として、その覚悟の程を示して、教えを請おうとします。但し、この腕を切り落としたというエピソードは、それほどの覚悟で弟子入りを望んだということを表すための創作的なものというのが通説となっています。

慧可、「心がいまだに安らかとならずに、不安でございます。どうか、この心を安らかにして下さい」
達磨、「では、その不安になっている心を取り出してください。そうすれば、あなたの心を安らかにしてあげましょう」
慧可、「その心を探し求めましたが、結局、見つからずに得ることができません」
達磨、「はい、これで私はあなたの心を安らかにしましたよ」

実は、こちらの(自分の)心も、あちらの(他の)心も、実体の無いもの、つまり「空」であり、本来捉えることのできないものでしかありません、しかし、何かその心というものに実体があるかのように、その心の状態(特に悪い状態、不安や恐怖など)にもとらわれ(執着)を起こしてしまって、苦しんでしまっているありようをしっかりとまずは理解しなさいということを達磨大師は慧可に伝えたかったのでございます。

ただ、実体は無くとも、心は「縁起」として、一応は「ある」と言えるものでございます。その心を善い状態に保つには、善い「縁」がもちろん必要であり、そのためには、悪を成さずに善に励み努めることが仏教の基本として大切になる次第でございます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

ゆーりさま

開運寺 秋山現信です。
行 おこないは一生 生きてる間が 修行です。
人間は 忘れてしまう動物 過ちを繰り返してしまいます。
お釈迦様は、即聞即行 すぐ聞いたら直ぐに行え とお示しです。
また、ある高僧(日蓮聖人)は、行学二道 とおっしゃっております。修行も学問も大切。しかしながら学問の前には、必ず行 行いが伴います。
実は修行のはじめは、まず 聞くことから始まります。人間の行動も聞くことからはじまります。
お母さんのおなかにいるうちから。
答えになっているかどうか解りませんが、行 修行は 一生死ぬまでです。

{{count}}
有り難し
おきもち

3月11日の突然起こった東日本大震災。私の住む茨城県水戸市も大きな被害を受...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

光圓寺のShun Ichikawaさんへ
ご回答有難う御座います。相手の事をどれだけ受け入れることが出来るかが、大事なんですね。
確かに、誰かを感動させたり、笑わせたりといったこととは、「相手の心を動かす」点では同じでも、少し見方が変わってきますもんね。
私は教育者になるかもしれません。ですから、父兄生徒からの相談をよく受けるかもしれませんが、今回のご回答を肝に銘じ、精進していきたいと思います。

「将来が不安・未来・先が見えない」問答一覧

息子の生き方が不安です。

おはようございます。 大学2年になる息子の生き方が不安です。 中学ではサッカー部の部長、高校も楽しんでいたのに、部活の人間関係につまずき、 大学受験に失敗してから、息子が心を閉ざして、必要以外外出しなくなりました。 大学は滑り止めに行きました。後期を休んで仮面浪人(ほぼ勉強せず)しましたが、落ちたようです。呆れてます。 今いるところで頑張って欲しいです。 友達もいないようで、春休みもバイト(たまにしかいかない)と教習所以外でかけません。 小さい頃は友達もたくさんいて人気者だったのに今は暗く全く楽しくなさそうでこのままでは、卒業就職すらできなさそうで心配です。 せめて、1人でも映画を見に行ったり美味しいものを食べに行って欲しいです。 もう何度も言い合って喧嘩もしてます。 疲れました。 高校生の娘は文武両道友達、彼氏もいてとても楽しそうです。 娘も兄に呆れています。 見守るしかないのでしょうか。 ただ普通に楽しんで欲しい。そんな簡単な思いすら叶わないのが悲しいです。 甲子園や、駅伝に出て欲しい、サークルの代表になってほしいとかではないです。 楽しんでる学生を見るだけで最近は胸が痛いです。息子にはプレッシャーをかけないよう、そっとしておいたり、言い合ったり 色々試してみたけれど、何も変わりません。 主人は息子を信じて見守るといっていて、息子も主人のことは尊敬しているようです。でも、毎日だらしない生活を見てる私と娘は息子の存在すら鬱陶しくなっています。 親として最低なのか甘いのかもわかりません。

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

この先天涯孤独になりそうで不安

現在51歳、女性です。季節性のパート(春・夏のみ)勤務です。 特定疾患がありますが、ぱっと見障害はないので医療費の補助はありません(実際は少し手足の麻痺と話しづらさがあります)。 両親は健在ですが、父は認知症中期、母は父とかなり年齢差があり、高齢です。 私は15年ほど前に事実婚したものの、相手のあまりの女癖に耐えかねて離婚しました。 円満に離婚しましたが、相手は全て私のせいにして、なぜか逆恨みされているようです。ちなみに、相手は私と別れたる原因となった既婚女性と未だに付き合っており、他にもちょっかい出している様子です。刹那的な考えの持ち主で、再婚する気はなさそうです(相手への責任を負いたくないため)。おいしいものを食べに行ったり、遠方に出かけたり、それなりに楽しく過ごしているようです。 一方の私は、パートを見つけたものの、コロナで出勤日数が減ったり、自身の入院等でお休みしたりと、お金が貯まるどころか、貯金を切り崩す日々です。 通勤するのも運転するのも、持病がまたいつ再発するか考えてヒヤヒヤしながら過ごしています。 勿論私にも至らなかった点はあるとは思いますが、どうしてこんなに悪い方がそこそこうまくいくという不公平な状況になるのか、やるせなく思います。最近心から笑うことがなくなりました。辛いです。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

これからの仕事が不安

現在27歳、社会人5年目の男です。 自分の人生について、第三者視点でのアドバイスが欲しく、初めてご相談させていただきます。 大学を卒業してから4年半、地方企業で営業職として働いておりました。 かなりハードな環境でしたが、幸いな事にそれなりの結果は出すことができ、人間関係も恵まれて充実した日々でした。 ただ最終的には、お世話になっていた方の急な退職に伴い、私の仕事も配置転換があり、仕事量の増加やトラブルが多発し適応障害となってしまいました。 充実はしていたものの、長い目で考えるとこの環境では働くのが厳しいと感じ、転職活動を始めます。 昔から総務職や人事職などの内勤業務に興味があり、未経験ながら転職活動を行っていたところ、ご縁があり現職に入社いたしました。 希望に満ち溢れていた私ですが、先輩の厳しい指導についていけず、仕事も全く覚えられず、入社3ヶ月で適応障害となりました。 とりあえずは休職しましたが、復職して続けられる未来も見えず、今月末で退職いたします。 とりあえずは実家に帰ろうと引っ越しを進めておりますが、金銭的な理由ですぐに働きたいと思い、前職に出戻りの相談をしております。 これが案外いい反応で、一部の方からは是非戻ってきてほしい!と言われ嬉しくはなりました。 今後面接を行う予定ですが、冷静に考えて「一度体を壊した仕事でまた働けるだろうか。」「そもそも周りの方は受け入れてくれるのか?」と不安になってしまいます。 そこから考え込んでしまい、最近では「そもそも前にいた時に結果出せていたのはたまたまじゃないか。」「仕事についていけるのか」と不安になってしまいます。 「先の事考えても仕方ない、なんとかなるさ」と思える日もあるのですが、前述した不安もよぎり、メンタルが安定しない日々です。 一度決めた事なのに、こんなに心が揺らいでしまう自分が情けなく、恥ずかしいです。 2度目の適応障害になってから、自分の全てに自信がなくなり、上手くいっていた過去でさえ、嘘のように思えてしまいます。 家族や友人にも相談していますが、モヤモヤした気分が続き、第三者視点での意見もお伺いしたく、ハスノハに投稿させていただきました。 いい気持ちの持ちようや、アドバイスがあれば、是非いただきたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

これから人と仲良くやっていけるか不安

以前相談させていただいた際はお世話になりました。 私は、以前精神を病んでいた時期があり その時の友達、知り合いはそのことが きっかけで疎遠になりました。 その後働きながら病院に通い精神病を寛解し、今は素敵な旦那さんと結婚生活を送り、子供も授かり3人で幸せです。 数少ないですが、数人友達もいます。 仕事も14年続けることができ、周りの人に恵まれているな、と心から感謝しています。ただ、ママ友はできませんでした。 子どもの幼稚園に送迎に行き、挨拶するのが精一杯でした。4月から子どもは小学校に入学します。知り合いもいない学区で 話せる人もいない自分は何か人間として 欠落してるのかな、と思ってしまいます。 精神を病んだ時、自分の至らないところで 直さないといけないことは直してきました。なるべく穏やかな表情で、挨拶する 人には優しく接する 人に期待しない なるべく自分のことは自分で解決する 人が離れた理由を自分なりに考えて、 性格を改善してきました。 でも、学生時代のいじめ、特に女性同士の ドロドロした関係性がトラウマで新しい環境でうまくやれるか自信がありません。 また仲間はずれになるのでは、、と頭から 離れません。 でもそんなトラウマと同じくらい、 私は人が好きなのだと最近気づきました。 人との関係で嫌な思いをしましたが、 人との関係で救われたこと、楽しかったかともたくさんあるからだと思います。 まだ始まってないことを、悲観するのを やめたいのにやめられない自分が情けないです。 でも、自分を責めるのもやめたいです。 いろいろ辛いことがあっても諦めずに今日まで生きてきた自分を、本当は褒めたいです。 私はこれから周りの人と仲良く、良い距離感でうまくやっていけるでしょうか? 今すごく心配です。 分かりづらく、長文になり申し訳ありません。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ