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苦しみの先に何があるのですか。

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苦しみの先に何があるのですか。

中学生くらいの頃から、生きる意味、死んではいけない理由などをずっと考えてきました。まだ、その答えは見つかっていません。

死にたくなる気持ちを抑え、なんとかその場をやり過ごし、今に至ります。

苦しみの先に何があるのですか。
どん底まで堕ち、何度這い上がってもまた堕ちる。

つい最近も、9年以上かかってやっと立て直した生活を、一方的な裏切りにより壊されました。住む場所も仕事も失いました。

死にたい気持ちと闘い、本当に頑張ってきた9年間でした。

ここに記載しにくい内容は、プロフィールに記載しました。文字数制限により、かなり省略していますが…。

苦しみの先に何があるのですか。

2021年10月24日 11:34

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

苦悩することから離れましょう。逃げましょう! 今だけは…

 お悩みの内容、プロフィールなど拝見しました…本当にお辛い状況ですね。『苦しみの先に何があるのですか」というお尋ねをなさったお気持ちをお察し致します。
 『生きる意味、死んではいけない理由』を問うていらっしゃいますが、いくら考えても答えは出ないと思いますし、また導き出した答えが必ず正しいかどうかも分かりません。これは人間には答えられない問いだと思います。
 精神的な苦しみから自らで命を絶つ、死期を早めることは許されていません。一方で肉体的な苦しみからのそれら行為に対しては、尊厳死や安楽死など比較的 社会は寛容である気がします。…この差は何なのでしょうか。僧侶の私にも分かりません。
 ただ一つだけ言えるのは、今 生命があるなら、生きるのです。生きていくのです。そうしなければならないのでは無く、生物は命ある限り生きる存在なのです。良し悪しではありません。理屈もありません。それが自然な姿なのです。
 でも、人間には知性があり、そのことで思い悩むように元から出来ています。知性といえば高尚に聞こえますが、仏教的に申せば「煩悩」です。
 「煩悩にこの身を振り回される」ことを避ける営みこそが仏道です。
 どうか、あなたは御自身のその煩悩に負けないで下さい。「煩悩・苦悩」を手放して下さい。それらをあなたの「主」にしてはならないのです。
 辛ければ、その辛さを離れて下さい。手放して下さい。逃げて下さい…具体的には思い悩むこと一切を放棄しましょう。そのことには何の問題もありません。
 今あなたは心がこの上なく疲れていて、その為に身体までが疲れ果てている状態です。正直、今あなたが懸命にお考えになり、結論を出し、それに則って行動を起こしても、それが一般的に正しい可能性は低いでしょう。いえ、逆に誤りである可能性が高いことを危惧致します。
 どうか、今しばらくは考えることを止めましょう。そして矛盾するようですが、身体を思い切って動かしましょう。散歩~ジョギング~筋トレ~スポーツと出来れば負荷を上げていきましょう。身体疲れさせましょう。そしてその疲れた状態のまま、眠りましょう。深い眠りを求めましょう。
 そしてそのことで心身の元気を取り戻して下さい。
 だからどうか思い悩むこと、考えること全てを今は止めて下さいませ…。
 何より仏様があなたのことを心配なさっていらっしゃいます…。

2021年10月24日 20:52
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

小林様
回答ありがとうございました。お礼が遅くなり、申し訳ありません。

初めて回答を読んだ時に、途中で泣いてしまいました。最近は泣くことも笑うこともできずにいたのですが、小林様の言葉がすっと私の心の中に入ってきました。その後も何度も何度も回答を読み返し、過ごしていました。

自分が不快な気持ちになる人や物から一旦物理的に距離を置くことはしていたのですが、自分自身がいつまでも思い悩んでいることも辛さの原因だと気付くことができました。そして、思い悩むことを放棄してもよいという新たな選択肢を教えて頂き、心が楽になりました。

煩悩がなくなることはないかもしれませんが、煩悩に振り回されず、煩悩に支配されずに、一日一日を生きて行こうと思います。

ここに書ききれないくらいに、たくさんのことを教えて頂きました。
自分が置かれている状況は変わりませんが、心が変わりました。少しずつ穏やかに過ごせる時間ができてきました。
救われるとは、こういうことなのですね。本当にありがとうございました。

「生きる意味」問答一覧

何かを機に、自分をたまに見失います

こんばんは。 いつもお世話になっております。 高校3年生の頃から考えることはありましたが、最近になって再び、生きる意味を考えることが増えました。昨年に新しい環境、新しい暮らしが始まり、有難いことに友達もできました。最初は、友達ができたことに嬉しく、心の拠り所になっていました。ですが、時間が経つにつれ、価値観の違いがあったり、相手の良くない態度で、自分で自分を苦しめることが増えました。なんでそう思えるのか、私が何か気に触ることをしたのかな、と些細なことを無駄に考える時間を費やし、疲れ果てました。ですが、いざその子がいなくなると、寂しい部分もあって、今思えば、依存していたのかもしれません。4月からまた再び、新しい年が始まりましたが、彼女と話すことが一段と減りました。前回と同様、依存だと分かっていても寂しさがあります。他の友達といると少し羨ましがったり...でも、頭のどこかでは、もしかしたら、離れる縁なのかもしれない、離れていっても追いかけることないんじゃないか、無理にまた自分が楽しい時間と辛い時間のギャップを受けて、自分を苦しめるのではなく、自然に身を任せてもいいんじゃないかって考えがあります。 いい縁は例え別れてもいつか再開して戻ってくるはずって思ってしまいます。今繋がっている縁を大事にしながら、自分から離れていった縁は追いかけずそのままに。 また、もうひとつ考えることがあって、心の底から幸せだと思える瞬間を、一生を共にする相手と迎えたいなとより思うようになりました。胸が苦しいときは尚更、私には、辛い時、嬉しい時を共有できる伴侶が出来るのか、と思うようになり、以前より鮮明に伴侶は誰か分からないけれど、その伴侶といるときの自分の姿が浮かんでくるようにもなりました。この浮かんだ姿は、将来の本当の姿なのかなと思ってしまいます。 何を機にこれらの考えになったのかが、分かりませんが、私、ちゃんと生きられているのでしょうか。この今の自分が、自分ではないみたいで、たまに分からなくなります。本当の幸せ、掴むことができるのでしょうか。今でも幸せは感じています。でも、これは自分にとって、本当に幸せなのかなって思うことがあります。ご回答をいただけたら、嬉しいです。

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昔の教え子と相撲をとり思わぬ結果に戸惑い

以前下記の質問をした者です。 https://hasunoha.jp/questions/66841 ご回答どおり教え子と相撲をとりました(スポーツ施設内の正規の土俵です)。 私は47歳、170cm、102kgの巨漢。彼は20歳、168cm、53kgの細身。 結果は10勝5敗で...彼の勝ち越しでした。 こんな結果になった原因ですが、私の体力が衰え過ぎでした。 日頃の運動不足に過度の喫煙が加わり、すぐに息切れしてしまいました。 そして脚の筋力はないのに体重だけはあるので自分の巨体を支えきれず、常に膝が伸びて棒立ちでした。 足腰が不安定な状態で彼に懐に潜り込まれ、私はまわしがとれないまま彼に双差しを許し、巨漢の私が細身の彼に真正面から寄り切られてしまう、という内容が大半でした。 最後の取組もこの負け方でしたが、土俵際に追い込まれた際あまりの苦しさに「まわしが、とれない」と声に出してしまう程でした。 私は、年齢差もあるので彼に負けるかもしれないとは思っていましたが、まさか幾度も真正面から寄り切られるとは予想していませんでした。 尤も、事前にまわしを締める際、私は羞恥心もあり下に短パンを履きましたが、彼は「男と男の勝負なので正々堂々と戦いたい」と、お尻を出してきました。この時点で、私は彼に気持ちの上で負けていたのかもしれません。 対決が終わった後、負けた私は寧ろ清々しい気持ちでした。 小学校時代は本当に華奢で身長も体重もクラスの男子で最低だった彼が、 私の巨体に物怖じせず相撲で真っ向勝負を挑んでくるほど強く育ってくれたこと、 女子にもよく泣かされる弱虫だった彼が、恥ずかしがらずにお尻を出してまわしを締めるほど精神的にもたくましくなってくれたことが、教師として嬉しくて仕方ありませんでした。 その反面、勝ったはずの彼の方が、どこか物悲しげで寂しそうな表情をしていました。 「勝てると思ってなかった」と幾度か言っていたので、私を本物の力士のように強いと思っていたのでしょう。 現実の私は、彼の思い描いていた姿ではありませんでした。10年の歳月はやはり残酷ですね。 彼に、電話か手紙で励ましの言葉を贈ろうと思います。敗者が勝者を励ますというのも変な話ですが、相撲の勝敗と勝負後の気持ちが逆だったので、私が励ます側だと思っています。何と言ってあげれば良いでしょうか。

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ADHDの私は社会でやっていけるのか

私は3年ほど前から心身の不調により心療内科に通っています。主な症状は鬱や過眠で、大学の授業にもあまり出席できず、通院状況を大学側に伝え、学生支援室から配慮を受けながら通学しています。はじめは睡眠障害と診断されていたのですが、昨年主治医からADHDと診断され、過眠によって朝に起きられないのもその特性によるものではないかと伝えられました。確かに私はADHDの特性としてあげられる不注意が多く、スケジュール管理や部屋の片付けが苦手で生活が乱れることが多いです。ただ、勉強はむしろ得意な方なので大学で実家を離れて一人暮らしを始めるまでその症状が可視化されなかったのかもしれません。 診断を受けてから今までの生活を見直し、同じ症状に悩む方々のライフハックを参考にしたり、自分なりに苦手なタスクを自動化する方法を考えたり工夫はしていますが、今年で大学4年生になるため、大学の学生支援室の方からも厳しいコメントを頂くようになりました。 周りの子達が就活を進める中で、あなたは社会でどうやっていくのか。朝起きられない、スケジュール管理ができないといったことは社会では通用しないが、卒業後あなたはどうするつもりなのか。といったコメントを度々貰うようになり、分かっていてもそういった言葉を聞く度に生きているのが嫌になってしまいます。社会から見れば自分が甘えた人間であることは言われなくても分かっています。社会に出たらどうするのと聞かれても、これが私の精一杯でどうすることもできないというのが答えです。 私は今大学院への進学を考えていますが、進学してもいずれ社会に出る日は来ます。その日が来るのが怖くて自分で選んだ院への進学という道さえ就職から逃げた結果のように思えてきます。大学もまともに通えない人間が社会でやっていけるのでしょうか。社会でやっていけない人間が生きる意味はあるんでしょうか。

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生きてる意味

いつもご回答ありがとうございます。今回も相談失礼致します。 今私が思っている事吐き出させてください 毎日毎日生きている心地がしません 昨日も今までの事やこれからの事を考えてしまい不安で頭がいっぱいになりました 小学校に転校したての時にいじめに遭い、多分その時点で私の心は死んでいたと思います。いじめって言ってもみんなが思ってるようないじめではありません。暴言を吐かれたりハブられたり無視されたり都合のいいように利用されたりそんなものです。 小学生のころの私は弱かったしいいなりになるしかありませんでした いじめてきた子に認められたかったし仲良くなりたかった、そしたら無視されることもなくなると思ったしみんなと同じように接してくれると思いました。今思えば本当に惨めです。 何年か経ち小学校3年生くらいの時新しいお友達が3人できました 親友と呼べるほどに仲良くなってお泊まり会やお出かけもしました ですが一人の子が○○ちゃんが一番好き、一番仲いい子、幼馴染だから、その発言を聞く度に私は、転校生なので幼馴染がいるわけもなくとても羨ましくて、なんだか利用されているだけなのかもと思っていました 当たり前に喧嘩はありました、大好きで仲良かった子にも散々暴言を吐かれ愚痴を言われ無視され、私も悪い部分があったとはいえ本当に辛かったです その他にも兄が同級生に絡まれ、たぶんあれはいじめられていたんだと思います。 それを見てどうしても腹が立ってしまいその中に割り込んで口出ししました いじめてる側の人達にはもちろんいじられ、兄は助けてくれると思ったのですがまさかの相手側についていました。 でも分かります、嫌われるのが怖いしまた虐められるのが怖い、私も同じなので分かります。ですが兄にまで裏切られた私には絶望と悲しみしかありませんでした それからも男子に体型をからかわれたり冗談で暴力をふるわれたり、私は元々肌が弱く虫に刺されやすくて、それに加え治りにくかったので肌が汚いです。なので水泳授業など苦痛でしかなかったしそれが原因でいじめられるのも怖かったです。 結局不登校になってしまった今でもこのトラウマは思い出してしまうし、フリースクールでも空気のような自分、みんなは可愛くて友達もいて輝いてる、誰でもいいから私を見つけてほしい認めて欲しい人が怖い、もう死んでしまいたい

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今の幸せを感じるには

大学卒業後、就職した職場でなかなか環境に慣れることができず適応障害になって退職し、そこからフルで働くことができなくなりました。 今は平日パートタイムで働いていて、なんとか4.5年続いていますが、人間関係や労働環境は最悪です。 給料が低いことと、この先また適応障害になって寝込んで動けない状態になるかもしれないという恐れから、今だに実家暮らしです。 また大学時代からずっと付き合っていた人と1.2年前に別れ、結婚や子供も諦めました。 この歳になっていまだに自立できていないこと、仕事のキャリアを積んでいけないこと、親に孫の顔を見せられないことなど現実に向き合えない自分が嫌です。何のために生きているか分からず、無意識に死にたいという言葉が口から出るようになりました。 自分も両親も健康で、大きな病気や怪我もなく、借金や人間関係など大変な問題を抱えてるわけでもありません。 明日食べるものに困るような状態でもなく、とても恵まれた状態であるにも関わらず、ずっと「もう人生を終えたい」と考えています。 死にたいというよりは、今ある面倒なことから逃げたいというのが本音かもしれません。 安心して過ごせる家があるというだけでとても幸せなことなのに、なかなかそれを実感することができません。 どうしたら今すでに身の回りに存在している幸せに気づいて、死にたいと考えてしまうことを減らしていけますでしょうか。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ