皆様に大変ご好評をいただき、ご質問が殺到しています。

回答が追いついておりません。お坊さんから丁寧にご回答いただくため質問受付数を制限させていただいております。大変申し訳ございません。

不妊で悩んでいます

はじめまして。
結婚して8年経ちましたが未だ子宝に恵まれず悩んでおります。
結婚当初は何度か妊娠はしたものの流産を繰り返し、最近では妊娠の兆候すらまったく見えない状況であります。
高度医療の治療も何度か挑戦したのですがよい結果は出ませんでした。
これから夫と二人で生きていくんだ!と心に決めたものの、町で見かける家族連れを見ると羨ましくて・・。
現実を受け止めなくてはと思いつつも、現実を受け入れたくない自分の気持ちが強くて、これから先どのように生きていったらよいのか分からず悩んでおります。
どうかよいアドバイスがあれがご教示下さい。

不妊の悩み
有り難し 462
回答 4
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

苦悩と共に歩みましょう

今日は、共感するご質問が続けて来る日のようです…

私たち夫婦にも子どもが無いのですが、数年前に諦めようと決心しました。

決心しても気持ちが揺れる時が多々あります。
お正月に届く年賀状に、子どもの誕生や成長の写真。ほほ笑ましくもありますが、少し胸がチクリとします。
テレビで著名人が高齢妊娠・高齢出産したという報道を見ると、こころがザワザワとします。

尊敬するお坊さん夫婦にも子どもが無いのですが「子どもが居て得られる喜びがあり、得る苦しみがある。子どもが居なくて得られる喜びがあり、得る苦しみがある」とおっしゃっていました。

その通りだ! と自分を納得させようとしても、やはり吹っ切りきれないのです。

還暦にでもなったら諦めがつくのかと思うのですが、きっとその頃になると孫を持った友人を見て、羨ましさに苦悩するのだと思います。

子どもを授かる以外の解決方法はありません。同じ苦悩を抱えている者がいるよ、とお伝えする事しか出来ません。共に、悩み苦しんでいきましょう。
あ、でももしyokotonさんがお子さんを授かったら、私は心からの祝福と、少しの嫉妬を送ります(苦笑)。

ひとつ、坊さんらしい事を。
人は、親だけで育つわけではありません。一説には、人生には200人のかけがえのない人がいるのだそうです。直接子どもを育む縁が無くても、多くの人々の「かけがえのない人」になりたいと、私は願っています。

授かりの道を歩むのです

私の師は実の母親が亡くなった時、涙一つ流していなかった。
「悲しくはないのでしょうか」と尋ねしましたら、
「生みの親より育ての親だ」と。
実は師匠は幼少の頃、実の母親から引き離されお寺に引き取られて育ての親の元で育ったのです。
産みの母より育ての母親の方が血の濃さよりも勝るのですね。
そもそも夫婦も元々は他人同士です。
ですが亡くなった時に一番悲しいのは肉親の死より愛し合った伴侶がなくなった時であるとも言います。
血縁関係よりも強い心の結びつきこそ“本当の家族”になれるのです。
どうしてもお子さんが欲しい、と望まれるのであれば、養子を取られることをお勧め致します。

もう一つは、授かりの道。
元々そこにあった素晴らしい存在に気づくこと。

何かを求める時。
求めるということ自体が、そこにないものを欲している姿であるが故に、小さな悲劇が生まれているということを知っておいて頂きたいのです。

そこにないものを欲するがゆえに、ないがしろにされてしまう存在があるということです。

たとえば部屋の床がタタミでありながら、フローリングが良いという求めを起こした時、畳職人さんは泣いています。
出てきたお食事がお米であった時、パンが欲しいと望めば、一年かけて育ったお米の命が軽んじられ農家の方も悲しいです。
男の子もしくは女の子が欲しかったのに、そうでなかった場合、その子は一生悲しいです。
子供がどうしても授からなくて、それでもどうしても欲しい、という求めを起こされることで、何かが、誰かが、色薄くなってしまうということを忘れないでいてください。

何か新しいものであるZというものを求める時、
目の前に授かっていたAというものの価値が損なわれ、失われてしまう。
(☝何度も何度も読み返してください)

「目の前にあるAというものとは違う、
別の何かであるZを所望してしまった瞬間から、
それまで楽しく過ごしていた素晴らしいAの恵みの色が姿なきが如くに薄れてしまう」

ここにはない何かを欲しがるようになったその瞬間から、
ついさっきまで享受していた心地のよい素晴らしい世界に光が注がれなくなってしまっている。
光を注いであげてください。

何を失っても、それは授かりである。この道理に気づけば、失われることがなくなります。
たとえ得られずとも失われることの無い、この授かりの道を歩まれますよう。

『多くの人々のかけがえのない』存在となることが仏教の目的

yokoton 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

浦上師回答の『直接子どもを育む縁が無くても、多くの人々の「かけがえのない人」になりたいと、私は願っています。』・・誠に素晴らしいお答えであると存じ上げます。

全ての衆生たちは、「仏の子」であるとして、世間で親御さんが我が子にかける愛情のように、如来・菩薩様たちは、迷い苦しみにある一切衆生を我が子であるとして、その尊い慈悲の御心により救わんとなされますが、まさにこの『多くの人々のかけがえのない』存在となることが仏教の目的と言えることとなります。

このことは仏道を歩む上で私たちにとっても大切となる「菩提心」と同様であり、私たち凡夫の場合では、全ての衆生たちは、「子」ではなくて、「母」と捉えて、一切の衆生たちは幾過去世にわたっての私の母たちであったとして、そのかつての大恩ある母たち、いまだ輪廻を迷い苦しんでいる母たちを何としても救いたい、そのためにも悟りを目指して仏道を歩むのだとして「菩提心」を起こすことが求められることとなります。「菩提心」に関しましては、詳しくは下記拙論をご参照頂けましたらと存じます。

『菩提心論』
http://t.co/aSBtLQQI

また、子どもがいても、いなくても、「幸せ」は己の心のありよう次第ともなります。たとえ子どもがいたとしても「不幸せ」な場合など(不安・心配・束縛・犠牲・虐待・ネグジェクト・パラサイト・非行・家庭内暴力・・)山ほど多くありますし、子ども、家族、親戚、友だち、仲間・・といえども無常なるこの世界においては、実体のない空なる存在であり、本来的にとらえられて執着できるものでもありません。思い通りに理想通りにいくことはまずほとんどありえないことでしょう。※もちろん、「空」とはいえども「無」ではなくて、最終的には、全てあくまでも「縁」のものとしての存在であります。(非有非無の中道)

また、諦めずに「縁」を求める中で、例えば見方を変えて、養子を迎えたり、里親となったり、色々と「子ども」を持てる方法もまだまだあるかとも存じます。

もちろん、新たな「縁」を得れるように努力する中でも、これまでも様々な「縁」に支えられてあることへの感謝・報恩は忘れず、「空」であることも忘れずに、日々を「安心」して過ごしていきたいものでございます。

川口英俊 合掌

人生では努力しても、どうにもならないことがあります

yokoton様へ

残念ながら私のところへも同じような悩みをもつ夫婦が多く相談にこられます。
非常におつらい気持ちを持ちながら二人で歩まれていることと思います。
素直な気持ちを打ち明けていただきありがとうございます。合掌

人生では努力しても、どうにもならないことがあります。
その運命を受け入れるしかありません。
どうやら理想と使命は異なるようです・・・

まずは二人の夫婦という関係を大切にしてください。
そして、二人にとって何が大切か
そこについて考えて、出た答えをこれからの人生において
大切に生きていくことが重要ではないでしょうか。


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