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即身仏は仏像として捉えられているのか?

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有り難し有り難し 17

即身仏はお寺で祀られておりますが、祀られているということは仏像扱いなのでしょうか?もし仏像扱いなのであれば、日本にある即身仏は、如来・菩薩・明王・天の中で何に当てはまりますか?理由と共に教えて頂きたいです。またもし即身仏が仏像扱いでないのであれば、それはなぜでしょうか?

数年前から即身仏に興味を持ち、そこから仏教に興味が湧くようになり、自分でも色々調べてはおりますが、一人で知るにはとても難しいので、ぜひ教えて頂きたいです。よろしくお願いいたします。

2022年1月10日 3:49

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

即身仏(ミイラ仏)について

らいおん丸さま

即身仏(ミイラ仏)が、イコールで仏・如来と言えるわけではなく、あくまでも修行の一成果、その象徴と捉えることができるのではないだろうかと存じます。

もしあえてとなりましたら、「菩薩」の分類となりますでしょうか。

ここからは無上瑜伽タントラの話となりますが、私たち輪廻にある衆生の身体は、有漏の身体、つまり、汚れた意識によって生じている汚れた身体であり、この身体では実のところ成仏は不可能であります。

仏の身体である、仏の三身(法身・報身・応身)は、いずれも、清らかな意識、つまり、無漏の意識により生じる清らかな身体となるため、凡夫、菩薩の有漏の身体のままで仏になることはできないのであります。

では、今生での即身成仏とはいかなる事態となるのかと申しますと、有漏の身体を土台として、清らかな意識を菩薩行により生成していくことで、最終的には、その清らかな意識によりて(今生にて)成仏するということになります。

即身仏(ミイラ仏)の行者が、もし(今生にて)成仏されたとするならば、残ってある身体は、有漏の身体の抜け殻と言えるかとは存じます。

合掌

2022年1月10日 10:17
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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こんにちは。答えはわかりませんが面白い質問ですので思うところを書いていきますね。

 お坊さまを像や絵にしたものを「頂像」(ちんぞう/ちんそう/ちょうそう)と言いますが、即身仏(ミイラ仏さま)も「頂像」になるのかなぁと思いました。
 如来・菩薩の違いとして、悟りを開いていれば如来 悟りを目指すものであれば菩薩となりますので、そのお体の持ち主によって言い分けるのかもしれません。一方でお坊様のお姿が像になっているものとして、弘法大師さまや達磨大師さまなどを思い浮かべますが、これらの像に「○○如来」や「○○菩薩」などという呼び方をしないですし、私が修行した本山にも即身仏がいらっしゃいましたが、「○○如来」や「○○菩薩」などという呼び方はしていませんでした。如来・菩薩・明王・天 のどれにも当てはまらないのかもしれません。
 どちらにしても仏法を伝えた先人として敬意をもち手を合わせることが大切だと思います。

2022年1月10日 14:21
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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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質問者からのお礼

光禪 様

とても参考になるご回答、どうもありがとうございました。そして、お礼のメッセージがかなり遅くなってしまい大変申し訳ございません。「面白い質問」と思われたということは、きっと私のような疑問を持つ人は少ないということですよね。あまり仏教の事を知らずに育った私にとっては、仏教はまるで脳トレのような、なんと言葉で伝えるべきかわかりませんが、とりあえず自分の頭で考えなければならない側面が強いと思っておりまして、一人で考えて結論を導くのにここ最近本当に限界を感じておりましたので、私が長い間抱いていた疑問がやっと解決できるようなご回答が頂けて、脳の負担が大変軽くなりました。そもそも、私はお坊さまを像や絵にしたものを「頂像」ということも知りませんでしたし、特に菩薩と如来の違いも、そのお体の持ち主によって言い分けるということでしたので、それではこの世界にいる私たちには如来なのか菩薩なのか分別がつかないのかも?と思うと、脳で理解しようとする試みから遥かに飛び越えてしまうという理解の仕方に、仏教に対して更なる興味を抱きました。確かに、弘法大師さまや達磨大師さまをそのような呼び方をしないですよね。
光禪様の如来・菩薩・明王・天のどれにも当てはまらないのかもしれず、頂像に当てはまるのかもというご意見、本当に大変参考になりました。そして、アドバイス通り、どの即身仏様にも敬意をもち手を合わせたいと思います。本当にどうもありがとうございました!   

eishun 様

とても為になるご回答をどうもありがとうございます。キリスト教などの西洋文明を支える宗教と違い、明確な回答があるわけではないというのが仏教のスペシャルポイントだと思っておりますが、「即身仏はイコール仏・如来と言えるわけではなく、あくまでも修行の一成果、そしてその象徴と捉えるのではないか」というご回答、大変参考になります。また、もしあえてということであれば、「菩薩」になるというのも、私の稚拙な質問でも(無理やり?)結論づけることができるのだと知ることができて、とても感銘致しました。

また、無上瑜伽タントラのお話は、ここ最近読み漁っていた即身仏に関する書籍にも説明がありましたが、eishun様のご説明無しでは、ちんぷんかんぷんの箇所がありましたので、大変助かりました。書籍では、この辺の説明はかなり難易度高めに説明しておりますので、eishun様にこの辺のところを易しい解釈の方法でご説明して頂けて理解が大変進みました。確か、この辺のことは「蝉の抜け殻」と表現されて、本に記載があったと記憶しております。本当にどうもありがとうございました!おかげさまで、即身仏に更なる畏怖の念を抱きました。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ