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自らの死について

わたしの周りには、3人自ら命を絶ってしまった友人、従姉妹、友人の娘がいます。思い出すと、とても悲しく心が苦しいです。
自ら命を絶ってしまった人の魂は、いつまでも苦しんだままだというような事をよく聞きますので、死んでもなおその3人が苦しんでいるのだろうか?
と考えただけで自分の心も苦しいです。
仏教では、そのような魂についてどのような教えなのでしょうか?
また、自分の悲しみの癒し方、もっと身近にいるご家族の悲しみをどうやって癒したらよいのか、なんと声をかけたらよいのか、教えをいただきたいです。病気などで身近にいる人を亡くした時とは違う、ものすごい喪失感と心の痛み苦しみが身体まで蝕んだような日々を過ごしています

死について
有り難し 118
回答 5
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

苦しみの大きさは愛情の深さ。

neko様 はじめまして。

私の父も自死でした。

理由は、わかりません。

「長男の僕ならその理由がきっとわかるはず!」という意気込みは11年の間にいつのまにか形を変え、「わからない」という答えになりました。

「わからないこと」とわかった(気づけた)ことが僕を変えました。

今も悲しいです。さびしいです。忘れたころに涙がどんどん出ます。家族もそうです。きっと一生続きます。

しかし父が今もなお苦しんでいるとは、これっぽっちも思っていません。念仏の教えに遇い、生かされて生きてきた父が、自ら死を選んだところで、阿弥陀様のはからいは何一つ揺らぐことはありません。

ちょっと乱暴ですが、僕自身は「癒してほしい」とは思っていません。

僕の場合ですが、もし友達が僕を癒そうとしているとわかったら、友達でいられないと思います。ただ、悲しくなっちゃった時、さみしくなっちゃった時は、受け止めてほしいと思っています。普段は、何をしてほしいとも思っていません。ただ、僕の父をたまに思い出して、元気でやっていてくれるだけで、本当に十分です。

僕の悲しみを知っている友人や、自死の悲しみに触れた方々には、すこしでも自分の人生やいのちに真剣に向き合い、「うまれてよかった」、と言えるようになってほしいと願うだけです。

自分の話ばかりしてしまい、申し訳ありません。
なるべく素の気持ちでおこたえさせていただきました。

私たちが、「うまれてよかった」って言えるようになるまで、亡き人達のいのちはまだまだ続きます。

自死された方が、特別に苦しむことはありません

nekoさま

昨年(平成24年)、やっと年間3万人を切った日本の自死者数ですが、依然として人口比で高い水準にあります。
しかし身の回りで3名もの方が自らいのちを絶たれたとは、それは辛く苦しい気持ちを抱えていらっしゃることと思います。

自死者が死してなお苦しむ、と聞いたことがあり、心配されているのですね。nekoさんはどう思われますか?

宗派や僧侶によって立場は違うかもしれませんが、私はそんなことは無いと思います。
生まれも、育ちも、生き方も、そして亡くなり方も全てを問わず平等に救うのが仏さまだと、私は信じております。

しかしそうは言っても、自死者遺族は単に身内を失った悲嘆に加え、様々な悲しみ苦しみにさらされます。
周囲の無理解や偏見もありますし、また自らを責める遺族の方が多くいらっしゃいます。中には「病気で家族を亡くした方がうらやましい、病気を恨むことが出来るのだから」とさえおっしゃる方もいます。

その深い悲しみをすぐに癒す方法はありませんが、各地に自死者遺族の集いなどがあります。そういった会に出向いてみるのも良いかもしれません。

私も所属していますが、超宗派の僧侶で活動する「自死・自殺に向き合う僧侶の会」という会もあります。
http://www.bouzsanga.org/

毎月の集い、年に一度の追悼法要、手紙による相談も受け付けています。
ご参考になれば、さいわいです。

必ずかならず極楽浄土へ往くことが出来ます

nekoさん、こんにちは。

hasunohaの井上広法と申します。ぼくも友人を自死で喪った一人です。

さて、亡き人が出来なかったこと、代わりにしてあげることを仏教では「回向」といいます。

どうぞ、nekoさんが亡き人の代わりにたくさんのお念仏をお唱えください。

必ずかならず極楽浄土へ亡き人は往くことが出来ます。

なむあみだぶつ

「不殺生戒」

neko 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

「不殺生戒」を説く仏教において「殺」をいかに捉えるべきであるのか・・

拙考察は、まだまだ途上ですが、密教史上の「呪殺」と併せて、現在、既に100名を超えているチベット焼身自殺抗議について考えさせて頂く中において、これまで拙生なりに真摯に扱わせて頂いて参りましたつもりではございます。

勝義方便メモ・シリーズ
http://togetter.com/li/456916
特にNo.3と4にて

現在の拙私見ではございますが、「殺」については、仏教的立場から基本的にはもちろん否定されるべきことではあるものの、確かなる慈悲に基づいた利他行・善徳行として、極限において許される場合があり得るのではないだろうかとは考えております。

しかし、問題は、その「殺」が本当に確かなる「慈悲」を根拠としての利他行・善徳行の範囲として仏智(悟りの智慧)から認められるものであるのかどうかということであります。これは、仏智がいかなるかを知り得ない凡夫から判断するのは大いに危険性があるのは否めないものであるとは考えております。

もちろん、凡夫の判断からでも、明らかに煩悩や無明(根本的無知)を原因とする「殺」と捉えることができる場合は、やはり「悪業」の結果は免れないことになってしまうであろうことは推測できるのではないだろうかとは存じております。

厳しい見方となるかもしれませんが、現実上、真に仏智からの慈悲に基づいた「殺」がこの人間道において成立する場合があるのかどうかと申しますと・・非常に難しいとしか今の拙生からは申し上げられないところでございます・・

「殺」にはもちろん、自殺・殺人、生き物(動物)への殺も含みます・・生き物を殺さずに人間界を過ごすことなど誰もできないのも正直な現実としてあります・・

問題は、その「悪業」をできるだけ少なくして、いかにして「善業」を積むことにより「悪業」を浄化せしめることができるかについて考えなければならないと存じております。

その一つの方便として、追善供養、功徳回向ということが成り立つものとなるのではないだろうかとは考えております。井上広法様のおっしゃられている「回向」もそのような次第であると存じております。字数制限上申し訳ありませんがここまでにて失礼致します・・

川口英俊 合掌

neko様へ

私の所属する「NPO法人 自殺防止ネットワーク 風」では、
貴方様の様な方々がお電話やメール、更には面談で心の内をお話しに成られておられます。
どうぞそちらにも、ご相談をお持ち下さいませ。
専門知識を持った僧分が、貴方のお心のうちを親身に成ってお伺い致します。
先ずは、「NPO法人 自殺防止ネットワーク 風」の東京事務所へお電話下さいませ。
又は当方へでも結構ですよ。

アドレスは以下の通りです。
http://www.soudannet-kaze.jp/


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