度々、申し訳ありません。
彼のことを後追いしたくなる、
自分のことを責めたくなる、
こんな気持ちを抑えるために
熱中できることを探しました。
お裁縫だったり、細かいパズルだったり
時間のかかることをやってみて、
意外と冷静な自分になれました。
でもふと、思ったのです、
わたしいま、彼のことを
忘れようとしたんじゃないか、と
落ち着いたんじゃなくて、
忘れかけてしまったのではないか、
受け入れたんじゃなくて、
拒絶してしまったのではないか、
考えれば考えるほど
自分が嫌になります。
どうすればよいですか?
私はどう生活すればよいのですか?
悲しみを避けたいがために、
かわりの熱中できるものを
探してしまう自分が嫌でたまりません。
それでも何かしてないとだめなんです。
例えばいつも通りを心がけて
テレビを見てても、
結婚式のCMとか赤ちゃんのCMとか
彼とこうゆうことしたかったなとか
もう、できないんだなって思うと
つらくてしかたがないんです、
普通の生活なんかできないんです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こんにちは。以前からのやり取りも拝見させていただきました。お辛い経験をされたのですね。彼が往生される事、私も確信して南無阿弥陀仏をお唱えさせていただきます。
さて、「何かしていないと…と行うと、それが"彼を忘れようとしている"という罪悪感になる」ということですね。それは分かります。けれど、それで良い、罪悪感を持つ必要はないと思いますよ。
例えば、いまこの瞬間、私は貴女やかれのことを思って文章を書いています。そして多分…私にとって愛すべき、妻や家族のことは忘れています。ほっぽっているのです(時々指摘されます)。私はそのことに、罪悪感を感じるべきでしょうか?家に帰ってテレビを見れば、大切な「南無阿弥陀仏」を忘れている瞬間が、きっとあるでしょう。子どもの勉強を見ている時、写真を撮っている時、スマホでゲームをしている時…それぞれの瞬間、私は罪悪感を感じるべきでしょうか。
大切なことは、時折「こちらから思い出す」ことだと思います。これは、先に亡くなったご先祖様も同じ。そして、彼が存命の時も同じだったのではありませんかー
つまり、言いたいことは。「100%でないことに、罪悪感を感じる必要はない。0%でなければ」なのです。一心に編み物をする。そしてCMを見て彼のことを思い出す。パズルに熱中する。そして「ああ、隣にいないんだ」と気づく。その行ったり来たりで良いのではありませんか?
彼は、「いつもいつも、一瞬たりとも俺のことを考えない時間を持たないでくれ」という束縛を持つ人でしたか?「忘れる」と「覚えている」は正反対ではないのです。
南無阿弥陀仏。
何か熱中できることを探すことが悪い事だとは思いません。
ただ、それは良く言うと「一時の癒し」、悪く言うと「ごまかし」と言うようなもので本質的な救いではないかもしれません。
受け入れるべきことは二つあります。
「彼の死」と「自分」です。
「どうすればよい」ということでなく「どんな自分でもよい」ということです。
すぐに楽になろうと思わなくてよいのです。苦しいことがダメではないのです。全部含めて彼からの、そしてご縁からのいただきものです。
いつのまにか忘れていた自分も、忘れられず悩む自分も、忘れたいと思う自分も、忘れたくないと思う自分もそれでいいのです。
この自分がよくてこの自分が悪いという思考を思考で分別しなくてもよいのです。
だって、寂しいでしょう、お辛いでしょう、苦しいでしょう。その気持ちは事実です。
「肉体をもった彼には会えない事実」、「あれこれ考えてしまう事実」
その揺るぎ無い事実を認めるならばそのままでよいのです。いっぱい泣きましょう。いっぱい苦しみましょう。あるがままに。
考えても考えても、人間が及ばない事実があるのです。
ただ、手を合わせましょう。南無阿弥陀仏 ナムアミダブツ なんまんだぶ なんまんだぶ…
そのままでいい、そのままで。
普通の生活をしてもいい。できなくてもいい。
事実さえ認めるならば、また現実の中で立ち上がり歩みを進めていく時が来ます。「どうしたら?」「どうすべき?」と考え悩んでいた自分に、「これでいいんだ」「こうするしかないんだ」「こうしたいんだ」そんな思いが湧き上がってくる時がきます。その時にその気持ちを認めることです。今がまだその時ではないだけです。
だってそんなちっぽけな事ではないでしょう?大きな大きな事実でしょう。
ただただ 南無阿弥陀仏 とお念仏申すばかりです。
拝読させて頂きました。あなたのおっしゃる思いはよくわかります。確かに彼との結婚式や夫婦生活は現実にはないでしょう。そのことを思えば悲しみがこみ上げてくることでしょう。その現実はもはやかえることはできないですから。
あなたはこの現実世界を生きています。そして彼は仏様のもとへと旅立たれたのです。そして彼は仏様のもとに生まれていかれます。あなたも私達もしっかりと彼を心からお送りすることが役目なのです。本当に本当に今それは悲しいことですし、とてもつらいことです。悔やんでも悔やみきれない悲しいことです。
ただ今はあなたは自分を追い込まないでください。今できることをただただひたすらにやっていくことです。
彼への思いを彼のご供養に捧げていくことです。
そして彼はあなたの姿を見てくれています。あなたが生きる姿を見届けていらっしゃるのです。
もしあなたがこれから様々なものごとをするならば彼が見ていてくれることを想いながらなさってください。
あなたがそう思う時に彼はあなたのそばで一緒に付き添ってくださっていらっしゃるのです。
気づかないでもあなたと彼とはこれからも今のひとときひとときを共に過ごしているのです。
時を超え時空を超えて共にいらっしゃるのです。
あなたが熱心に取り組まれることを彼も熱心に見守っていらっしゃるのです。
どうかそうお感じながらこれからの人生これからの生活を自分なりにしっかりと歩んで頂きたいと願います。
心を穏やかにあきらめないでこれからも彼と共に毎日を歩んでくださいね。
あなたを心より応援しております。
お礼が遅れて申し訳ないです。
吉武様、佐藤様、東様のお言葉は
ごもっとも、うなずくばかりです。
私のこれからは彼と共にあるのだと、
現実的にはできないこともあるが、
ひたりになることはない、
彼が必ず近くにいることを信じ
彼の死、そして自分自身のこれからを、
受け入れていこうと思います。
お忙しいところ、
申し訳ありませんでした。
ありがとうございました。
お礼に誤字がありました、
申し訳ありません。