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善き人、悪き人

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こんにちわ。
今年も残り僅かとなりましたね。寒くなってまいりましたが皆様体調崩されてないですか?

質問ですがお釈迦様のお言葉で善き人と交れ、悪き人とは交わるなというお言葉がありますがこの善き人と悪き人をどう解釈すれば良いのか考えているのですが分からない状態でいます。

自分の中では十善戒を守りながら自分で改善しながら生きている人だったり、目標に向かって突き進んでいる人だったりと思いますが、自分中心で生きてる人や十善戒を守らず目先の快楽ばかり求め生きている人の中でも良い所はありますし、そうすると全員善き人になってしまいます。逆に目標に突き進んでいるような人でも道徳心に外れてしまう人もいたり、ますます分からなくなってしまいます。
完璧な人はいないと思いますが仏道の中で判断基準のようなものがあるのでしょうか?

自分が今後どれぐらいの人とのお出逢いが頂けるかわかりませんがその中でせっかく善き人とお出逢い頂いたのに自分がそれに気づかないままでは残念です。
お忙しい所、恐れ入りますがアドバイス頂けたら幸いです。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

二元論で考える癖を捨てる

この手の教えは何度も出てきますし、具体的にどんな人が善く、どんな人が悪いという教えも出てきます。ただし、ここメチャクチャ重要なんですが、『出家者に関する教え』です。つまり修行仲間を選びなさいとか、帰依する師匠を選びなさいということであり、一般社会の人々を推し量るモノサシにしては絶対にいけません。

真慧師の挙げていらっしゃる発句経の78偈についても、片山一良教授によるとチャンナ長老という弟子に向けた教えです。本当かどうか知りませんけどね。それこそ口伝をまとめたものですから。でも、友という単語にしても、お釈迦さまが弟子たちに呼びかける時に「友よ」と使っていたワードですし。
逆に406偈では、お弟子さんが不見識な世俗の人に酷い扱いを受けても怒ってやり返さなかったことについて、お釈迦さまは「その悪人とは距離を置きなさい」ではなく「他の弟子たちも見習うように」と説かれています。

発句経とかあの辺の原始経典に見えるお釈迦さまの言葉は『原則としてケーススタディ』です。どんな症状の誰に対しての教えかによって一見矛盾した言葉が出てきます。
だから本当はお釈迦さまの言葉って入門書としては最悪なんです。仏教というものの方向性が分かってきてから読まないとかえって誤解したり迷ってしまうんです。

これはhasunohaの我々の回答にしてもそうです。厳選癖で苦しむ人には「厳選は止めましょう」と回答しますし、何でもかんでも信じてしまって苦しむ人には「選ぶということを知りましょう」と回答します。対機説法とか応病与薬と言いまして、仏教ってそういうものなんです。

もっと言えば「判断するという行為そのものを捨てましょう」と説く場合もあれば、「正しく判断し、苦を離れるための原因と結果の軌道に自分を乗せましょう」と説くことだってあるんです。

善か悪か、0か100かではなく、引き出しを増やしていくつもりで仏教に触れてみて下さい。
自分自身の心構えの引き出しを増やす。付き合える人の引き出しを増やす。他人の善さを見出す引き出しを増やす。反面教師の教訓の引き出しを増やす…等々。

その引き出し作りは仏教一般論ではなく、ぜひあなた自身の身の回りのケーススタディをお坊さんと一緒に考えていきましょう。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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ブッダのことばの受けとめかた

「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。」
(岩波文庫『ブッダの真理のことば・感興のことば 』中村元・訳)

おそらく、このお言葉を指しておられると思います。
お返事の前に余談を少しばかり。

法句経、ダンマパダ、スッタニパータと称される経典は、現代に伝わる最古の部類のひとつで、初期の仏教、ブッダの直説をうかがい知るものです。
 ただし、ブッダが筆をとって書物を著したのではなく、説法を聞いた弟子たちによる編集や翻訳などを経てその一部が伝わり、更に近年になって日本語に翻訳されたもの(中村元先生ほかの同書)が、いま私たちの目に触れている、ということはご存知だと思います。
 それはつまり、シャカ族のゴータマ=お釈迦さまの言葉に限定していません。お釈迦さまその人はブッダ(目覚めた人)ですが、ブッダは歴史上お一人ではありません。お弟子様のブッダ、現代に名の伝わらないブッダもおられたでしょう。それらのおことばが元になっているということですから、上記は「お釈迦さまの」ではなく「ブッダのことば」です。

また、「十善戒」という戒めを拠り所とされていますが、これは江戸時代の真言密教の僧侶のおしえです。それが間違いということではなく、ブッダの言葉を解釈するのに、かなり時代背景の異なるおしえを並べると、混乱するもととなりそうです。
(十善戒をとなえられた慈雲上人は法句経も研究されたかもしれませんが。)
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さて、善き人と悪き人の判断基準というお尋ねについて。

申し上げるなら、まさに「判断に迷っていることが正しい」と思います。
私という不完全な「ものさし」で善き人・悪き人を裁くことが、どれほど恐ろしいことか。

同じく「ダンマパダ」の一節に次の言葉があります。
「心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることがない。」

だから、迷いを恐れていいのだと思います。迷うことが当たり前とひらき直るよりも。
そんな「心の弱さ」を認め、気づかせてくれる存在を、私は善き人と考えます。同時に私を高慢にさせ、人を裁き選り分け、自分自身をも切り刻んでいく悪き人も、その要素は誰にでも備わっていると考えるべきでしょう。
私に善悪が同居し、愛する人、尊敬する人、罪を犯す人、怠惰の人にも善悪が同居しています

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おきもち

北海道の内陸にある浄土真宗の寺院を預かっています。法名(仏弟子の名前)、釋...
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諸仏

こんにちは。

熱心にお釈迦様の教えに学ばれているのですね。素晴らしい事です。

仏教における善悪の基準というのはやはり、涅槃・覚りに近づける方向性のものが善、逆に遠ざける方向性のものが悪ということになるでしょう。

しかしそれがどうしても私という個人の人間のレベルでの判断になると「私の都合」になってしまうものです。

あの人はいい人、あれは悪い出来事、あの人はどうでもいい

という様に私が裁判官にでもなってしまいます。

しかし仏法に私を学ばせていただくのならば、あらゆる人が私にとって仏法に目覚めさせてくれるはたらきをもった善き人であったといただく、これを諸仏(しょぶつ)と呼びます。

私個人にとって私のモノサシで図るとどうしても悪人としか思えない。しかしその人を通して私が仏法に目覚めるならばその人もまた仏様と同じはたらきをする諸仏なのです。

もちろん私たちが生きる現実としてそれは中々難しい事です。どうしても避けて遠ざけたくなるような怨憎会苦という出会いもあることでしょう。
しかしそのこと一つとっても仏法との出会いとなり得ます。人の付き合いとしては避けたとしても、そのことを通して常に我が身が仏法に照らされる。それこそが仏法に私を学ぶという道の実践でしょう。

頭の中で作った善悪の基準でもって人を裁いていくのでなく、出会いの事実を持って仏法に包まれていく。
「あらゆる人が私にとって諸仏でございました」といただける世界は本当に豊かでしょうね。私もそうあるように精進したいと思います。

これからもよろしくお願い申し上げます。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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つつましく生きる

寒くなってきました。
善き友と歩き、悪との交わりを避けること、これは大切に温めたい問題です。

まるこさんのお察しの通り、人には善い面も悪い面も両方存在します。
だから、判断に迷いますね。

子供の時、学校や親御さんから、人の悪い所ばかりに注目せず、善い所に注目してあげなさいと習いませんでしたか?

素晴らしい教えではあるのですが・・・
その教えが、悪い人と感じながらも、こんな部分もあるし・・・などと判断を迷わせる結果にもなりかねません。
また、その逆もです。

仏教には、中道という考え方があります。

とびぬけて善い面を備えていても、悪い面を備えていても、行き過ぎはダメということです。
ちょうど中間くらい、つつましく目立たず謙虚で、そんな方こそが善き人である、少なくとも私はそう思います。

善人と交わり、より良い人生を歩んでください。

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おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいっ...
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質問者からのお礼

真慧様 大慈様 吉武文法様
海老原 学善様
ご回答頂きありがとうございました。

初めて知る事もあり、そういう事だったんだと認識する事で自分を見つめ直す事が出来、今までガチガチに絡まってしまった糸がスルスルと解けていくような感じになり、気持ちがスッと軽くなる事が出来ました。
お出逢いの中で自分が精進していきたい思います。
色々とご丁寧に教えて頂き、本当にありがとうございました。

皆様年末年始、お忙しい時節と思いますがどうかお体にはご自愛下さいませ。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

自分について

3回目の質問です。 長文すみません。 実家にいるべきか悩んでいます。 HSPという気質からか、親や家族(人)といるとどこかで素を出せず、自分が消極的になっているのがわかるからです。 家族のことは嫌いなどではなく、仲はとてもいいです。例えば家で家族との会話はできますが、勉強するとき声を聞かれたくなくて音読ができなかったり、今何をしているか知られたくない、家族の機嫌やその場の状況によって左右されてしまう、などがあります。 私は以前海外留学していました。 その時の理由の一つも、家から離れたら何か変わるかもしれないから、でした。 確かにその期間は自分で考えられて積極性もついていたと思います。自分でも変わったと思った瞬間がいくつもありました。でも帰ってきたら元に戻りました。 再び海外に行きたいですが、海外生活が思ったより寂しいものと気づき、情けないですが、次行っても孤独に耐えられる自信があまりありません。また自分が親に依存していることにも気づき、どこへ行けばいいか悩んでいます。 であれば首都圏へ行ってみるか、でもお金もかかると思います。(資金力はある方ですが、環境を変えればなんとかなると思って結局居住費などお金のムダ、なんてことになると良くないと思い踏ん切りがつきません。) 地元で図書館に行ったりして、知識を積んで家にいない時間を作るか、それでも家に帰れば無気力なのかな。と悩むとキリがありません。 何よりも、親や家族に自分を出せていなければ、自分は世界どこへ行っても誰にも理解されない孤独な人間になるのでは、という寂しさが耐え難いです。 私は成長したい気持ちから海外や別の場所へ行きいろんな世界を見たい気持ちだったり、今の自分ではいけない気持ちが強いです。留学へ行って自分を出していた経験から、現在がとても遠いもののように感じられ、もどかしい焦燥感のような気持ちを感じています。留学の時も、このように自分を責めてばかりでしたが。 でもいざ行動してみると1人とても寂しい自分の姿がイメージとして浮かぶんです。 考えが甘い部分があると自分でも感じています。迷ってばかりで申し訳ないです。 行き先をどう決めるべきか、お叱りやアドバイスをくださらないでしょうか。長文すみません。何卒よろしくお願いします。

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人と深い付き合いができず、人が嫌いです。

はじめて、相談を送ります。 お坊さんにのみ公開されているプロフィールを見ていただけると、過去何があったのかは記載したのですが、私は両親や姉妹との関係性が悪いです。 また、私の母も人嫌いで常に人の悪口を言っているような母でした。 その事も関係あり、人間全般がとても苦手です。軽く浅いお付き合いであれば出来るのですが、少しでも深く関わって来ようとされると嫌悪感でいっぱいになります。 苦手な人は、私の家に入ろうとする人や連絡先を聞いて来ようとする人、また仕事上の人間関係にプライベートまで付き合って来ようとする人等です。 出来れば家で1人でいたいし、誰とも関わりたくありません。 ただ、このままだと子供の交友関係にも問題が生じて来るだろうし、仕事も何か人間関係で問題があるたびに転職しなくてはならなくなります。 家族関係で問題があり、今の自分に影響がある人について、親や姉妹の事を大人になってまで人のせいにするなと、よくネット上では見受けられます。 私も大人になってまで、どうしてこんなにも親や姉妹の事から逃れられないんだろうと不甲斐無いです。 人を変えることは出来ない。自分を変えることしか出来ない事も分かっていて、性格を変えたり、人と楽しく付き合えるようになりたいのですが、とにかくしんどいです。苦しいです。 友達も数人しかおらず、その友達にも悩み事は相談できません。 誰にも相談出来ない。 旦那には多少言えますが、ほんの1割程度しか吐き出せません。 いつも自分で抱えて苦しいです。 誰か助けて欲しい。

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人生の楽しさ

現在子育て中です。 元々、物事を自分の計算した通りに進めることが好きな性格で、時間内にいかにタスクを処理できるか常にパズルのように当てはめて動いていました。 子どもとの生活は、そんなやり方は一切通用せず、思っていた時間に思っていたことができないことも多く、また、自分自身のことで発生するタスクにイライラするようになりました。自身のタスクとは、睡眠、食事、排泄という生きるうえでの根本的なことで、なぜ眠たくなるのか、ということにすらイライラしています。(無駄なタスクが増えるから) そして、そういえば自分は元々、生きることが面倒くさい、生きるうえで発生するタスクを処理することにイライラしながら生きてきたことを思い出しました。 いつも、変わりたいと思って色々な本や人の話を読み漁り、何とか軌道修正してきましたが、本心の部分から変わったわけではないので、ふとした時に本音の自分が登場します。登場しては、少し時間が経って内省する毎日です。 自分が素晴らしいと思っている人たちも、毎日の生活レベルではイライラすることもあるのかと思いますが、少しでも今より良い性格になりたく、考え方のアドバイスをいただけたら嬉しいです。 文章にまとまりがありませんが、今の気持ちのすべてです。 よろしくお願いいたします。

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老親に心が開けない自分が嫌になります

両親は現在89才と86才、共に軽い認知症で持病も患っています。 施設には入らず、通院しながらお互いを支え合って生きている両親です。 いずれそう遠くない未来にあの世に旅立つことは間違いなく、だから私は少しでも多く実家に顔を出そうと務めております。 破天荒な私と違い、本当に常識的な一般良市民である両親で、私のこともずっと愛して育ててくれました。 それがわかっているのに、昔からどうしてもソリがあいません。相性が合わないと言うのでしょうか。 特に母とは昔から会話をしていてもかみ合わず、どうしてもイラっときてしまって話をする気にならないのです。 例えば、私がバツイチなことについて「老後が寂しいじゃないの。何とかならないの」と心配顔で言われます。 私が「もう再婚する気はないし寂しいとも思わないから大丈夫!」と言っても 「そんな事ないわよ。やっぱりひとりは寂しいわよ」とさらに心配顔で言われ、いたたまれません。 これは一例で、その他私の生き方、考え方が母の理想とは違っているために 会話がはずみません。 こんな感じで私はいたたまれなくなったり、イライラしたりするので なるべく母と話をしたくないのです。 私がもっと心を開いて母とたくさん会話をすれば母はどんなに喜ぶかわかっているのに、です。 この先、母が永遠に旅立った後で自分がどんなに後悔するか、どんなに母を恋しく思うのかしっかり想像できます。 それでも今現在は母との会話を避けてしまう自分が情けないです。

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この人のもとで学ぶ事への不安

初めてこちらにて相談をさせていただきます。 私は今月から、ヨガインストラクターの養成講座を受講します。 そのスタジオは長年養成講座を行なっており、講座の説明や見学、普段のレッスンも受け、レベルの高さやスタジオに通う方々の人柄にも触れ、ここなら大丈夫だと受講を決めました。 しばらくして、先生方と一緒にヨガ哲学を交えながらみんなで悩み相談や雑談を楽しむ企画が始まり、私も参加しました。 そこではいろんな方の話を聴く事ができ、先生方の受け答えの内容に時には心震え、涙しました。 しかし先日、その企画に再度参加した時の先生方の返答や考えに違和感を覚えました。 ヨガ哲学や食生活に合わせて出てきた言葉が、行きすぎた反ワクチンの考え方や添加物は絶対悪といったもの。 さらには○○社や××社は裏で武器を作って利益を出しているから、そこの商品を買う事は戦争に加担している。ワクチンは人口削減の意味があるし、金儲けの為にワクチン接種の決まりを作り、真実がバレると誰も打たなくなるから情報規制をしている人がいる。 Qアノンなど陰謀論を語る人には有名な単語も出てきて、「私達は真実を知っている。だからこそ見本となり、間違った現代の日本を変えていきましょう」と熱く先生が語り、皆がうんうんと頷いたあの空気に今でも恐怖を感じます。 もしかしたら先生の言葉の中に真実もあるのかもしれません。 ですが普段聞き慣れない単語、怪しいかもと思えるようなものを半ば押し付けるように語り、自分が知るものを知らない周囲を見下し、自分達が正しいと断言…まるで洗脳でもするかのような言動をした先生方を目の当たりにした事で一気に恐怖心が芽生えてしまいました。 怪しい宗教を目の当たりにしたような恐怖や不安、嫌悪感は日に日に強くなります。 長くなりましたが、タイトルにもあるようにこのような不安や嫌悪感を覚えたまま本当にこの人のもとで学んでいいのでしょうか? 今の自分がなくなりそうで怖いです。かといって安定を求めるのは退行でもある、と先生は言っていました。その言葉には概ね同意出来ます。 ですがあの時の先生のような思想や言動で自分や家族、応援してくれる人を傷つけたり、振り回したくないです。 どうか、ご意見をよろしくお願いします。

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自身の悲運をずっと引き合いに出してくる夫

夫が全て夫自身の生まれのせいにする傾向があります。 貧乏というほどではないですが、あまり経済的な余裕がない家庭に生まれた夫は、学者になるという夢がありましたが、大学に進学できた途端に、家族からこれ以上の経済的な負担は厳しいと言われ、奨学金も満額借りていましたが、泣く泣く学問の道を諦めました。 ちょうどそのタイミングで出会った私とそれからは暮らし、現在は私の父の仕事を手伝っております。 現在に至るまで、彼は積極的に仕事を探そうとしなかったり、通信の大学も一度入学したのですが、やる気が出なかったのかほとんど実績を残さずそのまま退学しました。 私自身が、両親が会社を経営していたりと、比較的金銭的には恵まれた環境で育ててもらえたということもあり、何か喧嘩するたびに彼は自身の経済的に恵まれなかった生まれを引き合いに出してきます。 彼の悲運には同情するばかりですが、その後の彼の行いは、半分程度は彼自身の選択(仕事を探さなかったし、勉強も続けなかった)の結果ではないかと思ってしまいます。 そうして落ち込んでいる時に私が何か言葉をかけても、「君は恵まれて育ったから僕の気持ちはわからない」と一蹴されてしまいます。私自身もそれはごもっともではあると思うのですが、私のツテで仕事をしていたり、他にも私の両親に金銭的に援助してもらったりと、私の生まれに恩恵を受けているのは夫も同じくなのではないかと思ってしまうのです。 彼は一緒に地獄に堕ちてくれる人を待ち望んでいたんだろうな、と結婚前から感じていたことでしたが……結婚前から金銭的なことだけでなく、色々と問題はたくさんあったので、彼とは心中するつもりで結婚しました。なのでこうした問題はもちろん覚悟の上ではありました。私にも足りないものがあったからこそ彼に惹かれたのでしょう。 また彼が自身の悲運を引き合いに出してきた時は、私はどうするべきなのでしょうか。

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寂しさと惨めさについて。

自分の育ちや過去のことで寂しく、惨めになるのがつらく、相談させていただきたいです。 自分について。 ・30歳女です。20代のほとんどをうつ病と強迫性障害という神経症を抱えながら過ごしました。 ・家族と縁を切っています。 アルコール依存で酔うと手をあげる父、不倫して出て行った母、怒鳴り暴力を振るうきょうだいの中で育ちました。 とにかく、暴言暴行&蔑みあいのなかにいて、一番力のない弱い私がサンドバッグのようにあたられ、殴られました。警察が来て恥ずかしい思いを何度もしました。 ・ここ2年ほどで、心の中で家族のことを許しました。もう会うことはないけれど、今では同情と感謝の気持ちもあります。 悩みについて。 自分の育ちが恥ずかしく、普通の家庭で育ってこれた友人や親戚を羨んでしまうのをやめたいです。 目に入るアーティストや周りで成功している知人、好きな仕事を見つけた知人、子どもを産んだ知人など“何者”かになっている人の背景に、応援してくれて整えてくれた親の存在があるのだと知るときも勝手に辛くなり、自己憐憫をやめなくてはと思います。勿論ご本人の努力があり、またみんなそれぞれのつらさがあり、自分が一番辛いとは考えていません。 だけれど、うつで自分のこともやりたいことも見失い20代という時間を失ったことで「自分にも綺麗な環境があったなら、歪まず、ロスもなく、何かを見つけて集中できて、まっすぐ生きていっていたのでは」と思ってしまいます。 このことで、さみしさと惨めさに囚われる瞬間がつらいです。 持てなかったものに執着するのはダメだと、自己憐憫をしないよう努力しています。仕事をしながら将来に向けて勉強をしています。痛みを知ってるぶん人のために生きていきたいという思いがあります。日々よかったことに目を向けて心を楽しくする努力をしています。自分が自分を救わなければと気づきもありました。 だけど、どうしても、「周りが羨ましい、何にもなれていないこれから探すとしてもロスが惜しい惨めになる」のループに嵌りテンションを上げることができません。今までつらかった分がいつ報われるのか、神様はどのような意図で私を歩ませているのか、最近心がぽっきり折れています。自分を励ませなくなりました。 確固たる自分になりたいです。 考えの切り替え方や心構えを知りたいです。よろしくお願いします…!

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ