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無我とはどういうものなのでしょうか

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短気な性格を直したくて読んだ自己啓発本に書いてあった無我(人や物事に対する興味、自分自身の気持ちを無くせばイラつくことも無くなるということらしいです)というものを数年前から自分なりに頑張って実践していたのですが、効果が出てくる頃には人と会話が続かないようになってしまいました。

会話している相手や話している内容(流行などにもかなり疎いせい)に全く興味がわかないので向こうが話かけてくれても一言二言生返事で返してしまいすぐに途切れてしまいます。

頑張って繋げようにも面接というか質疑応答のように無機質な感じになってしまい、華が咲かずただ無意味な問答で相手を困惑させているような気がします。

自分自身、気まずいという感覚が麻痺してきているのか感情という面で困ることは無いのですが、やはり不和の原因となっている部分もあるのでこのまま社会に出るのは危ない気もします。

元から私的な場面では人とあまり関わりたくない性分ですのでパブリックな部分は徹底してドライに割り切りたいのですが、感情的な人には斜に構えた嫌味な奴に思われてしまうのかも知れません。

「嫌われようがどうでもいい」という今までのスタンスを崩し、多少無理にでも嫌われない様にと努めるとまた昔のように小さいことでイライラする自分が垣間見えるのでどうすればいいかわかりません。

本家本元である仏教での無我というものはどういう教えなのでしょうか。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

【我】が破れた状態

【無我】とは、
オレが、オレが、という【我】が破れた状態をいいます。

体を痛めつけた末、思考停止になってボケェ〜となったりうっとりと恍惚感に浸ったりする事とは全く違うのでご注意ください。

質問文を読みますと、無我を手に入れようといろいろな作戦でかなりご尽力なされたのがうかがえます。しかし、やはりあなたの考えや計算、評価などが【自我】(エゴ)としてどうしても混じってしまっているようなのです。これを【我執】といいます。

わたしたち仏教者は、この【我執】を手放す為に【慈悲喜捨】を実践します。

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あらゆるものは名を与えただけのものにすぎない.

 我々が「ある」と思っている物事は,実は我々が名前を与えたものに過ぎないのです.しかし,それらが「ある」のは事実です.ただ,それらが我々の認識を離れて,それ自身に基づいて,独立的に存在しているわけではないのです.

 例えば,「私」を思い浮かべてみましょう.「私」というものは確かにあります.ただ,「私」と呼ぶとき,何を私と呼んでいるのでしょうか.「私」と名前を付けるとき,その名付ける対象が他のものに依存せず存在しているのでしょうか.
 人は数えきれないほどの細胞でできています.その一つ一つが私なのでしょうか.もしそうならば,数えきれないほどの「私」が一人の「私」の中に存在することになります.では,そうした細胞一つ一つとは離れた全体が「私」なのでしょうか.もしそうならば,それぞれ一つ一つの細胞は「私」ではないことになってしまします.したがって,細胞一つ一つが「私」でもなければ,それらを離れた全体が「私」でもないのです.
 このように分析して考えると,「私」という実体はどこにも見つけられません.でも,「私」は確かに存在します.その「私」とは何かというと,我々が名前を付けて呼んでいるに過ぎないものなのです.決して,認識と離れて独立的に存在する「私」という存在があるのではありません.

 人であれ物であれ,認識とは離れて,それ自身に基づいて成立しているものではありません.しかし,我々は,それらが独立的に存在していると思い込むのです.その思い込んでいる独立的な存在が「我」と呼ばれるものです.そして,今見てきたように,そのような「我」は存在しません.「無我」なのです.言い換えるならば,「空」なのです.
 また,独立的に存在しているという思い込みは,我執と呼ばれ,我々を輪廻に引き止める最大の要因です.仏教ではそのような思い込みは捨てて,輪廻から解脱しよう,と考えます.

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無我はなるものではない。元々が無我だと悟ればよい。

我・有我というのは人間のエゴエゴしたもの・自分自分した精神です。
いま世界はエゴの博覧会。どこもかしこもオレがオレがの我の嵐。
戦争・犯罪・非道・悪行はみなこの「自分を中心としたものの見方」である「我」が原因です。
「我」を肯定する国家をご覧ください。
他国のことなどお構いなし。
こどものように「これ俺取っぴー」「オレが最初にみつけたー」「オレのモーン」みたくイイ大人になっても本当にそれをやっていますから、世界中がドン引きです。

だからこそ、仏教ではその「我」「エゴ」を餓鬼心なとして、飼いならすことを勧めています。
カッとなれば先輩の警察官を拳銃で撃ち殺してしまうのも我のなせるわざです。
子どもに細菌兵器を用いることも我の恐ろしさ。
公的文書の改ざんもみな我のなせるわざです。
人間には誰にでも我が生ずる可能性があるからこそ、無我を求める必要があります。
では、無我になるにはどうすればよいか。
カンタンに言えば坐禅して能動的な意識を一切撃ち止めにすることです。
パソコンのマウスやカーソル、ポインターを触らなければ画面も休止画面になります。
緑茶も濁り酒も放っておけば濁りが底に沈みます。

心の中に暴れまわる我の暴走をおさめるには一念をおさめればよいのです。
我の立ち上がりはみなすべて一念。
テレビのニュースで痛ましい事件のニュースをきくと、大半の方が思いを起こします。その一念に注目するのです。その初めの一念は別に問題はありません。これは我ではなく自然な「反応」です。
ただし、その後の歩みの進め先によってはこの一念が「我」になるのです。
一念の出始めは純粋無垢。無我なるものです。
ところが、そこからその一念に対して無数の関連動画が現れて、社会的にも家庭的にも人間関係的にも良からぬ自分中心的な言動に向かうようになる。
それが「我」といわれる具体的な現れになるのです。
賢者はここを知り、ここの時点で鎮火します。
我をおさめるのです。
無我とは、私がやっていないこと。
見るのは自分がやること。見えるのは無我。
聞くのは自分がやること。聞こえるのは無我。
思いを展開して思索を深めるんは自分のやること。思われてくることは無我。自分がやっていることではありません。
自分の中で自分がやっていない働きに注目してみてください。「わたくし」以前の世界が見えてくることでしょう。

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「空」と「縁起」

海苔様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「無我」とは、願誉浄史様もおっしゃられておられますように、「実体が無い」ということで、「空」とも同意となります。

私たち凡夫においては、認識するモノ・コトの現れにおいて、まるであたかも、それらが、そのもの自体の側で、独立自存として、実体的に成り立ってあるかのように現れて執着することとなってしまうのですが、しかし、そのものをそのものたらしめているような実体的なものを厳密にいくら探そうとしても、全く見つけることができないということで、「無我」となるのであります。

もちろん、「無我」と言っても、何も無いといわけではなくて、モノ・コトは、「縁起」として成り立っていると申すこととなります。

「縁起」とは、他に依って、他に依存することによって成り立っているとして、何も他に依存することなしに成り立っているものは無いということにもなります。

簡単には、原因や条件に依って成り立っているということから、全体は部分に依って成り立っている、あるいは、全ては、分別に依って成り立っている、ということまで、幅広く「縁起」ということを説明することにより、理解を目指すところとなります。

少し難しいことですが、是非、これから「空」と「縁起」についても、更に仏教にて学び進めて理解を深めて頂けましたら有り難いことでございます。

とにかく、他に依って成り立っている以上は、他次第にも自分は依るところとなって参ります。

善き縁起により、善き自分をというところにもなります。

人間関係においても、できる限り他への配慮や気遣いを忘れずに、お互い様、お陰様という気持ちで過ごして参りたいところでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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頭で考えた概念は、夢幻みたいに実体がない。

難しいですね。
無我とは、実体がない、執着に値しないという意味ではないでしょうか。
じゃあ、何に実体がない?何は執着に値しない?
とりあえずは、「頭で考えた概念は無我(実体がない)」と理解してみてはどうでしょうか。

短気でイライラする場合、頭の中で考えた「期待」がまずあり、その期待が、頭で予想していたように実現しないと、イライラしてしまうのかも。
人生では、「当たり前」と思っていたことが、実は当たり前じゃないという場面がありますからね。

あと、イライラには怠けの煩悩も関係します。
つまりは、早く休憩したい、早く手をぬきたい、早く気をぬきたい、という「怠け」がイライラに結びつくのです。
たとえば、話の長いお年寄りに付き合うときにイライラするときは、自分自身の「怠けの煩悩」でイライラが誘発されている。
「これは怠けの煩悩だ」とイライラの正体を見破ると、不思議とイライラがおさまる可能性があります。

嫌われたくないというのも、もしかしたら、楽をしたい「怠けの煩悩」と関係があるかも。
怠けの反対は、精進です。
仏教で精進とは、がむしゃらに頑張ることではなく、冷静に集中力を持続し、落ち着いて、今やるべきことを今やる、という感じでしょうか。
あまり肩に力を入れず、自然体で、しかし、事態の変化に適切に反応し続ける。
難しいですね。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

沢山のご返答有難うございました。やはり無を考えるというのは難しいですね、ただ個人的に「我執」という言葉が琴線に触れたようで、魚の小骨が取れたような気分です。確かに自己を構成するのは自分一人ではなく、周りの縁も重要なファクターだということが抜けていました。
今までのような人生観程度の独り善がりな無ではなく、世界観に拠る公平な無を目指すよう、これからもより一層精進したいと思います。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

人と深い付き合いができず、人が嫌いです。

はじめて、相談を送ります。 お坊さんにのみ公開されているプロフィールを見ていただけると、過去何があったのかは記載したのですが、私は両親や姉妹との関係性が悪いです。 また、私の母も人嫌いで常に人の悪口を言っているような母でした。 その事も関係あり、人間全般がとても苦手です。軽く浅いお付き合いであれば出来るのですが、少しでも深く関わって来ようとされると嫌悪感でいっぱいになります。 苦手な人は、私の家に入ろうとする人や連絡先を聞いて来ようとする人、また仕事上の人間関係にプライベートまで付き合って来ようとする人等です。 出来れば家で1人でいたいし、誰とも関わりたくありません。 ただ、このままだと子供の交友関係にも問題が生じて来るだろうし、仕事も何か人間関係で問題があるたびに転職しなくてはならなくなります。 家族関係で問題があり、今の自分に影響がある人について、親や姉妹の事を大人になってまで人のせいにするなと、よくネット上では見受けられます。 私も大人になってまで、どうしてこんなにも親や姉妹の事から逃れられないんだろうと不甲斐無いです。 人を変えることは出来ない。自分を変えることしか出来ない事も分かっていて、性格を変えたり、人と楽しく付き合えるようになりたいのですが、とにかくしんどいです。苦しいです。 友達も数人しかおらず、その友達にも悩み事は相談できません。 誰にも相談出来ない。 旦那には多少言えますが、ほんの1割程度しか吐き出せません。 いつも自分で抱えて苦しいです。 誰か助けて欲しい。

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人生の楽しさ

現在子育て中です。 元々、物事を自分の計算した通りに進めることが好きな性格で、時間内にいかにタスクを処理できるか常にパズルのように当てはめて動いていました。 子どもとの生活は、そんなやり方は一切通用せず、思っていた時間に思っていたことができないことも多く、また、自分自身のことで発生するタスクにイライラするようになりました。自身のタスクとは、睡眠、食事、排泄という生きるうえでの根本的なことで、なぜ眠たくなるのか、ということにすらイライラしています。(無駄なタスクが増えるから) そして、そういえば自分は元々、生きることが面倒くさい、生きるうえで発生するタスクを処理することにイライラしながら生きてきたことを思い出しました。 いつも、変わりたいと思って色々な本や人の話を読み漁り、何とか軌道修正してきましたが、本心の部分から変わったわけではないので、ふとした時に本音の自分が登場します。登場しては、少し時間が経って内省する毎日です。 自分が素晴らしいと思っている人たちも、毎日の生活レベルではイライラすることもあるのかと思いますが、少しでも今より良い性格になりたく、考え方のアドバイスをいただけたら嬉しいです。 文章にまとまりがありませんが、今の気持ちのすべてです。 よろしくお願いいたします。

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老親に心が開けない自分が嫌になります

両親は現在89才と86才、共に軽い認知症で持病も患っています。 施設には入らず、通院しながらお互いを支え合って生きている両親です。 いずれそう遠くない未来にあの世に旅立つことは間違いなく、だから私は少しでも多く実家に顔を出そうと務めております。 破天荒な私と違い、本当に常識的な一般良市民である両親で、私のこともずっと愛して育ててくれました。 それがわかっているのに、昔からどうしてもソリがあいません。相性が合わないと言うのでしょうか。 特に母とは昔から会話をしていてもかみ合わず、どうしてもイラっときてしまって話をする気にならないのです。 例えば、私がバツイチなことについて「老後が寂しいじゃないの。何とかならないの」と心配顔で言われます。 私が「もう再婚する気はないし寂しいとも思わないから大丈夫!」と言っても 「そんな事ないわよ。やっぱりひとりは寂しいわよ」とさらに心配顔で言われ、いたたまれません。 これは一例で、その他私の生き方、考え方が母の理想とは違っているために 会話がはずみません。 こんな感じで私はいたたまれなくなったり、イライラしたりするので なるべく母と話をしたくないのです。 私がもっと心を開いて母とたくさん会話をすれば母はどんなに喜ぶかわかっているのに、です。 この先、母が永遠に旅立った後で自分がどんなに後悔するか、どんなに母を恋しく思うのかしっかり想像できます。 それでも今現在は母との会話を避けてしまう自分が情けないです。

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この人のもとで学ぶ事への不安

初めてこちらにて相談をさせていただきます。 私は今月から、ヨガインストラクターの養成講座を受講します。 そのスタジオは長年養成講座を行なっており、講座の説明や見学、普段のレッスンも受け、レベルの高さやスタジオに通う方々の人柄にも触れ、ここなら大丈夫だと受講を決めました。 しばらくして、先生方と一緒にヨガ哲学を交えながらみんなで悩み相談や雑談を楽しむ企画が始まり、私も参加しました。 そこではいろんな方の話を聴く事ができ、先生方の受け答えの内容に時には心震え、涙しました。 しかし先日、その企画に再度参加した時の先生方の返答や考えに違和感を覚えました。 ヨガ哲学や食生活に合わせて出てきた言葉が、行きすぎた反ワクチンの考え方や添加物は絶対悪といったもの。 さらには○○社や××社は裏で武器を作って利益を出しているから、そこの商品を買う事は戦争に加担している。ワクチンは人口削減の意味があるし、金儲けの為にワクチン接種の決まりを作り、真実がバレると誰も打たなくなるから情報規制をしている人がいる。 Qアノンなど陰謀論を語る人には有名な単語も出てきて、「私達は真実を知っている。だからこそ見本となり、間違った現代の日本を変えていきましょう」と熱く先生が語り、皆がうんうんと頷いたあの空気に今でも恐怖を感じます。 もしかしたら先生の言葉の中に真実もあるのかもしれません。 ですが普段聞き慣れない単語、怪しいかもと思えるようなものを半ば押し付けるように語り、自分が知るものを知らない周囲を見下し、自分達が正しいと断言…まるで洗脳でもするかのような言動をした先生方を目の当たりにした事で一気に恐怖心が芽生えてしまいました。 怪しい宗教を目の当たりにしたような恐怖や不安、嫌悪感は日に日に強くなります。 長くなりましたが、タイトルにもあるようにこのような不安や嫌悪感を覚えたまま本当にこの人のもとで学んでいいのでしょうか? 今の自分がなくなりそうで怖いです。かといって安定を求めるのは退行でもある、と先生は言っていました。その言葉には概ね同意出来ます。 ですがあの時の先生のような思想や言動で自分や家族、応援してくれる人を傷つけたり、振り回したくないです。 どうか、ご意見をよろしくお願いします。

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自身の悲運をずっと引き合いに出してくる夫

夫が全て夫自身の生まれのせいにする傾向があります。 貧乏というほどではないですが、あまり経済的な余裕がない家庭に生まれた夫は、学者になるという夢がありましたが、大学に進学できた途端に、家族からこれ以上の経済的な負担は厳しいと言われ、奨学金も満額借りていましたが、泣く泣く学問の道を諦めました。 ちょうどそのタイミングで出会った私とそれからは暮らし、現在は私の父の仕事を手伝っております。 現在に至るまで、彼は積極的に仕事を探そうとしなかったり、通信の大学も一度入学したのですが、やる気が出なかったのかほとんど実績を残さずそのまま退学しました。 私自身が、両親が会社を経営していたりと、比較的金銭的には恵まれた環境で育ててもらえたということもあり、何か喧嘩するたびに彼は自身の経済的に恵まれなかった生まれを引き合いに出してきます。 彼の悲運には同情するばかりですが、その後の彼の行いは、半分程度は彼自身の選択(仕事を探さなかったし、勉強も続けなかった)の結果ではないかと思ってしまいます。 そうして落ち込んでいる時に私が何か言葉をかけても、「君は恵まれて育ったから僕の気持ちはわからない」と一蹴されてしまいます。私自身もそれはごもっともではあると思うのですが、私のツテで仕事をしていたり、他にも私の両親に金銭的に援助してもらったりと、私の生まれに恩恵を受けているのは夫も同じくなのではないかと思ってしまうのです。 彼は一緒に地獄に堕ちてくれる人を待ち望んでいたんだろうな、と結婚前から感じていたことでしたが……結婚前から金銭的なことだけでなく、色々と問題はたくさんあったので、彼とは心中するつもりで結婚しました。なのでこうした問題はもちろん覚悟の上ではありました。私にも足りないものがあったからこそ彼に惹かれたのでしょう。 また彼が自身の悲運を引き合いに出してきた時は、私はどうするべきなのでしょうか。

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寂しさと惨めさについて。

自分の育ちや過去のことで寂しく、惨めになるのがつらく、相談させていただきたいです。 自分について。 ・30歳女です。20代のほとんどをうつ病と強迫性障害という神経症を抱えながら過ごしました。 ・家族と縁を切っています。 アルコール依存で酔うと手をあげる父、不倫して出て行った母、怒鳴り暴力を振るうきょうだいの中で育ちました。 とにかく、暴言暴行&蔑みあいのなかにいて、一番力のない弱い私がサンドバッグのようにあたられ、殴られました。警察が来て恥ずかしい思いを何度もしました。 ・ここ2年ほどで、心の中で家族のことを許しました。もう会うことはないけれど、今では同情と感謝の気持ちもあります。 悩みについて。 自分の育ちが恥ずかしく、普通の家庭で育ってこれた友人や親戚を羨んでしまうのをやめたいです。 目に入るアーティストや周りで成功している知人、好きな仕事を見つけた知人、子どもを産んだ知人など“何者”かになっている人の背景に、応援してくれて整えてくれた親の存在があるのだと知るときも勝手に辛くなり、自己憐憫をやめなくてはと思います。勿論ご本人の努力があり、またみんなそれぞれのつらさがあり、自分が一番辛いとは考えていません。 だけれど、うつで自分のこともやりたいことも見失い20代という時間を失ったことで「自分にも綺麗な環境があったなら、歪まず、ロスもなく、何かを見つけて集中できて、まっすぐ生きていっていたのでは」と思ってしまいます。 このことで、さみしさと惨めさに囚われる瞬間がつらいです。 持てなかったものに執着するのはダメだと、自己憐憫をしないよう努力しています。仕事をしながら将来に向けて勉強をしています。痛みを知ってるぶん人のために生きていきたいという思いがあります。日々よかったことに目を向けて心を楽しくする努力をしています。自分が自分を救わなければと気づきもありました。 だけど、どうしても、「周りが羨ましい、何にもなれていないこれから探すとしてもロスが惜しい惨めになる」のループに嵌りテンションを上げることができません。今までつらかった分がいつ報われるのか、神様はどのような意図で私を歩ませているのか、最近心がぽっきり折れています。自分を励ませなくなりました。 確固たる自分になりたいです。 考えの切り替え方や心構えを知りたいです。よろしくお願いします…!

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人の生き方に文句を言う人

私は2年前、SNSにて、自称詩人である40代女性と知り合い、仲間になりました。 その女性は何かというと、私の言動に余計なひと言を言ってきては、私だけでなく、他の仲間たちにも嫌な思いをさせてきました。 何かの会話のはずみで「私の勝ちー!」とマウントを取られ、私はなんのことかわからず、私も周りの仲間たちも意味がわからず、もやもやした空気が流れました。 さらに、私は絵を描くことが仕事なので、お気に入りのゲームのキャラを描いた絵をアップしたところ「キモカワ!」と言われムっとしたこともありました。(創作物に関しては、世に出した以上、誰がどんな意見を持つのは自由です。でも批判されれば描き手は凹みます) さらに、私は買い物も趣味ですので(我が家は借金もなく、マンションも一括で買ったものなので住宅ローンもなく、共働きですのでお金はあります。強いていうなら毎月の公共料金と携帯代くらいです)私が稼いだお金は私の好きに使っていいよと言われているので、自分で使っていい金額はいくらまでと決め、たまにスカート一枚くらいの買い物はしていました。残りは全て生活費と娘の学資に回しています。 私の仲間は女性が多いので、やはりファッション関係の話題には興味があるのか「かわいい!」「これどこで買ったの?」「いつ着るの?」など盛り上がっていたところ、その詩人さんだけ、私に「〇〇さん(私の名前)お金使いすぎじゃない?」と言ってきて、やはり気まずい空気が流れました。 私はついに爆発し「大きなお世話です!」とぴしゃりと返事をしました。すると詩人さんは平謝りしてきました。私は正直もう、この詩人さんと関わりたくない、仲間から外そうかと思っていたところ、謝罪のメールが何度もありました。私は鬱陶しかったので「謝罪はもう結構です。これ以上、この件について言及されても、一切返信しません」と返信したところ、その数時間後に、仲間から外れてくれました。私も仲間もほっとしていました。 それから2年経ち、その詩人さんがブログにて、私のことを「頭のおかしな女」と称して記事を書いているのを発見しました。 私が素直に、はいそうですねすみませんと認めるべきだったのでしょうか?それとも詩人さんが大きなお世話なのでしょうか? ご回答をお待ちしております。

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50代半ばの発達障害の身をどう生きるか

 50歳になる年に発達障害(ASD)と判明し、ハローワークさんの専門部署のお世話で主治医にも巡り合えました。現在、障害年金を頂きつつ、専門分野の翻訳(仏教ともかかわりあり)をして限られた収入を得ております。これまで結婚歴はなく、80代の老母と二人暮らしであります。妹夫婦は私のこれまでの人生の歩みには、ありがたいことに理解があるほうです。  さて、私自身も加齢し、専門分野の翻訳なので、仕事の量は以前も今も今後も限られたものであり、将来に不安がないわけではありません。いや、日々不安の連続であります。  それで就労支援事業所に学んだりとか、A型・B型作業所で働いてみようとか考えたのですが、なんと、今現に収入がある人は、そうした場所は受け容れてもらえないことを知り、愕然としております。限られた仕事ではあっても、その翻訳の仕事は自分にとってアイデンティティーそのものであり、やるなと言われるのは、死ね(←激越な文言で申し訳ございません……)というに等しいことであります。  あとで手遅れにならぬよう、そろそろ自分の身の振り方を考えねばならないのですが、ああでもない、こうでもないと頭でっかちになって苦しくて仕方がありません。相談できそうなところには相談し尽くし、半ば万策尽きたという思いでおります。どのようなことでも構いませんので、どなたか大所高所に立ったお立場から御指導賜れば幸いに存じます。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ