娘の死、その後
お世話になります。じゅんちです。
15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。
月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。
寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。
私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。
友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。
長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。
長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。
どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。
お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
全部あなたがやっていること
子供を思うのもあなたの思い。
他の子を観てうらやましいと思うのもあなたの思い。
申し訳ないと思うのもあなたの思い。
会いたい、でも会えない、寂しいつらいと思うのもあなたの内側でやっておられることではありませんか。
そうです。人間は一生、見えたり聞こえたりの他に、思えたり、考えたり、自分が自分の中でおこなわれていることだけを相手にしているのです。
ですから、あなたが今お嬢さんのことを思うにしても、それはお嬢さんではなく、あなたの思い。アナタが、お嬢さんの影を観るのも、それはあなたの観ている、現実ではない、あなたの作った思い。
全部、全部、あなたがやっていることなのです。
そのために供養がある。
だからこそ、まず、亡くなったお子さんをいつまでも「わたくし」するべきではありません。
現実が見えなくなるからです。
行かせてあげることです。
わたしの、わたしの、わたしの「娘」の 「の」という所有意識を捨てましょう。自由にしてあげてください。アナタがお嬢さんを縛ろうとすることで、あなた自身を縛り付けているから苦しいのです。
あなたは知らなかったかもしれませんが、葬儀の際には懺悔といい、生前のあらゆるいさかいごとを互いに許しあう儀式もしているのです。
ですが、あなたは葬儀の主催者側の人間で、ゆっくり個人としてお嬢さんとお別れができていなかったのであろうと思います。
他人に遠慮せず、もう一度お子さんと赦しあってください。
赦し合うとは、互いに緩め合うということです。。
互いに自分が自分を、相手を縛っている。
本当に縛っているのは自分自身なのです。
その真実に気づくまで、徹底して自分の心を観察なさってください。
そのお気持ちを、どなたかに吐露されましたか?
本当にお辛いですね。頭で理解していることに心が追いつかないことは、当たり前のことだと思います。
そのようなお気持ちは誰かに聴いてもらうことで少しは楽になります。私も広島ですが、拙寺でお子さんを亡くされた方々の分かちあいの集いを開いております。同じ立場の方にならお話できるのではないでしょうか。いつでもご連絡ください。
⇒ http://www.namuamidabutsu.com/tsudoi.php
いつも、共にあります。
じゅんちさん、こんにちは。
娘さんを亡くされた、ということでとても心が痛む思いです。
ある先生から聞いた話をします。
その先生は、夏休み前に一ヶ月、夏休み後に一ヶ月ほど学校を休まれました。そして、復帰なさった日に、事情をお話して下さいました。実は、夏休み前に一人、夏休み後にもう一人のお子様を亡くされたのだそうです。何事も出来ないほど落ち込まれたそうです。
お経に「倶会一処」という言葉があります。人は死を迎えたとき、阿弥陀如来のはたらきで、極楽浄土へ往き「ともに同じ所につどう」という意味です。先生は、死後に会えると言われても遅い。今、我が子に会いたい。死まで待つなんて残酷だと思われたそうです。
そういう思いの中で、日々お経を読み「倶会一処」という言葉に触れるのですが、あるとき、より深い仏様のお心に気づかれたそうです。「倶会一処」は、仏となった我が子から、私に掛けられた言葉であると。
私達、生きた人間は、極楽浄土を見ることが出来ません。しかし、仏様から見れば、この世もあの世もありません。ですから、極楽浄土で仏となった我が子は、今、既に私と共にあり、私を包み込んでくれている。そして、会いたい会いたいと願う私に、「必ず会えるよ。大丈夫だよ。」と声を掛けてくれていると。そのメッセージが自分の口から「南無阿弥陀仏」の声となって現れ、自分の耳に届いていると。「南無阿弥陀仏」は、インドの言葉で、「いつでもどこでも包み込んでるよ。安心だよ。」という意味です。これは、仏様から私達へのメッセージです。
浄土真宗の教えの話をしましたが、宗教は関係ありません。亡くなった方はいつも共にあるというのは、間違えのないことです。その証拠がじゅんちさんの悲しみです。人間は、心と心の対話の中で存在しています。娘さんは、じゅんちさんの心に、今は悲しみとなって現れています。今後、心の対話が変化して、「娘さんのお陰で今の私がある」という感謝や安心となることを願っています。
その為にも、今は、娘さんとの対話=悲しみを大切にしてほしいと思います。
お答えになりましたでしょうか。
また、お会いしましょう。
お久しぶりです
じゅんちさま、お久しぶりです。なごみ庵の浦上です。
確か前回は4ヶ月というところで問いを頂いていましたね。
それからさらに4ヶ月、いかがお過ごしでしたでしょうか。きっとお辛い日々を送られていたことと思います。
楽しい時間を過ごすと罪悪感を覚え、もうひとりの娘に同じことが起きないか不安で不安で仕方がない。母親とは、なんと辛いものなのでしょうか。
知人の女性僧侶が、「母親の道は修羅の道です」とおっしゃっていたことを思い出します。我が子のためなら、母親は修羅にでも鬼にでもなってしまう、ということなのだと思います。
これはひとつの提案で、是非やりなさいということではありませんが、朝にお経を読まれてみてはいかがでしょう。お付き合いのお寺で、頂けると思います。
今でもきっと、毎日のように仏壇や遺影に手を合わせ、ご飯やお水をお供えしていらっしゃると思います。朝の時間は忙しいかと思いますので、短いお経で結構です。亡き人を思い合掌し経を読む。その積み重ねはじゅんちさんにとってマイナスにならないと考えます。
よろしかったら、いかがでしょうか。
「地蔵和讃」
じゅんち様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
15歳の娘さんを亡くされて、8ヶ月・・いまだ癒えないお苦しみ、お辛いお気持ち、誠にお察し申し上げます・・
「地蔵和讃」というお経がございます。15歳のお子様を水子さんと致すのには異論もあろうかとは存じますが、流産や早産、死産で亡くされた方はもちろん、お子様を若くして亡くされた親御さんにとりましても、非常に深く染み入る内容があるかと存じております。
拙生も「地蔵和讃」を読む度に、涙が溢れて溢れて止まりません・・
「地蔵和讃」は、地方によっても、宗派によって少し内容が異なるところもございますが、下記が最も参考になるかとは存じております。
「地蔵和讃」
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jizouwasan.htm
この「地蔵和讃」を小さな頃から地蔵盆にて祖母のご詠歌に併せて共に読んでおりましたが、どうして水子さんたちは、地獄の鬼にいじめられてしまうのかと、ある時から誠に疑問でした。水子さんの心は純真無垢なはず・・いまだ何も悪いこともしていない、罪もないはずなのに・・
なぜ水子さんたちは苦患を受けるのか・・「地蔵和讃」においては、その原因が実は「親の嘆き悲しみ」にあると説いてございます・・非常に厳しいことではございますが・・
もちろん、頭では理解できたとしても簡単なことではないことは分かります。でも、あまりに嘆き悲しむことで、娘さんがいまだに苦患を受けることになってしまっていてもいけませんし・・
どうか、やがては娘さんのことを仏様、菩薩様に御任せをして下さいませ。じゅんち様の思いも受け止めて、その大慈大悲の御心で迎えて頂けるかと存じております。
そして、無事にこれからも娘さんが悟りへと導かれますようにとして、ご供養のお勤めを賜れましたらと存じております。
川口英俊 合掌
それでいいじゃん。
優しい言葉は他の僧侶の方に任せておいて。厳しいことを言わせていただきます。
坐禅で雑念が起きたらどうするか。雑念を消すのではなくそのままにしておくのがいいと教わりその通り行ったら、いつの間にか坐禅中のみ雑念が気にならなくなりました。
今じゅんちさんが思っている感情は極々当たり前のことで変える必要あるのと思ってしまいます。「気持ちが頭がバラバラです。」は私にもありますし、どんな人でも些細な事でも起きているのでこの気持ちはじゅんちさんだけが経験しているのではありません。
自分だけ自分だけという思いが強くて特別扱いしてませんか。後ろ髪引かれているのも今年まで。私はこのままの状態でいいと思っています。時間が経てば解るのでたまには坐禅しましょう。参考にするかしないかはあなた次第です。