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御守りや御札・ご祈祷、開眼供養について ②

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有り難し有り難し 15

法覚寺 吉武文法さま

欲を肯定する宗教があるとしたらそれはかなり危ういものです

というご回答を頂きましたが、

金運や健康運・交通安全等々の御守りや御札は何の為にあるのですか?
わたしの行動を見守ってくださっている、
ということはないのですか?

悲しい時、苦しい時、どうしたら良いか判らない時、等々、
助けて欲しいと祈り求めることは、意味の無いことですか?

病気の回復や商売繁盛等々を願ってご祈祷頂くのは危ういのですか?
去年、母の回復を願って何度もお願いしましたし、
わたしの商売・収益についてもご祈祷をお願いしています。

勿論、怪しげな新興宗教などではなく、
多くの方々がご存知の歴史ある大寺院で頂いております。

自分の在り方について気付きを得たいと思うことも
「欲」ですよね?
命尽きるとき、極楽浄土に行けるよう徳を積みたいと思うのも
「欲」ですよね?
知りたい・学びたいも然り。

そういった一切の欲を持たないことは素晴らしいと頭ではわかりますが、
わたしはレイヤーがずっと下なので、ご教示頂けましたら有り難く存じます。
宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

全部欲だからこそ

※回答者指名はできません。運営より編集が入ると思います。以後はお気を付けください。

「欲を肯定する宗教があるとしたらそれはかなり危うい」の意味について共に味わうことが出来ればと念じます。

さて、「自分の在り方について気付きを得たいと思うこと」も「命尽きるとき、極楽浄土に行けるよう徳を積みたいと思う」のも 「欲」です。
私たちの思いにここまでは欲じゃなくて、ここからは欲であるということは言えないでしょう。基本的に全て欲であり、煩悩であり、執着です。欲をなくしたいというのも欲ですからね。

だからこそ、その自分の在り方に目覚めなさいというのが仏教です。そして仏教が欲を肯定しないというのは「一切の欲を持たない」ということではありません。そういう素晴らしいものに私は成れると思うのもある意味では傲慢な欲ですしね。
(なお、お釈迦様自身は欲をことごとく滅尽されていますが…。)

「欲を肯定する宗教があるとしたらそれはかなり危うい」

というのは人間存在を否定することではなく、そうした人間のあり方をそのまま肯定してしまうような教えは危ういということです。
なぜならば欲を満たしても満たしても最後には老い、病み、死ぬからです。欲を肯定し、欲を満たすことを救いと説く宗教があるとしたらそれは根本的な救いではありません。

仏教はそうではありません。仏教が問題としているのは基本的にはこの私が老い、病み、死ぬことであり、それらが「思い通りにならないこと」=「苦」であることです。

ですからたとえ祈祷だろうが、お守りだろうが何だろうが、そこを「思い通りにできる」と勘違いさせる、期待させるようなものは本来の仏教からは離れてしまっていると個人的には思います。

悲しい時、苦しい時などに助けて欲しいと祈り求めることは意味の無いことではありません。祈りのもとには救われたいという願いがあるからです。その願いこそが真理への歩みを支えるものです。そして、その歩みを間違った方向に導かないように教えがあります。

じゃあ色々な御守りは何なのか?私には答えられません。ウチの宗派では扱いませんしね。
何とか答えるとしたら「方便(真実へ導くための手立て)」ということでしょうか。やはり皆そこを求めます。だからまずはそこを入り口として入ってもらって…なのでしょうかね?

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

法覚寺 吉武文法 さま

ご教示有り難うございます。
システムが分からなくて失礼致しました。

「欲」がなければ、
生きる原動力とは一体何なのだろうと思いましたし、
「欲」を否定したところで、
実際はあるし、除くことも出来ないし、
わたしは努力も感謝もしますが、
自分が煩悩の塊で、願う祈る求める頼ること甚だ多い
ということは自覚しております故、
とても為になるお話し有り難うございます。

もっともっと知りたいです!
どうぞ宜しくお願い致します。

「お守り・お札・護符」問答一覧

授与していただいたお札の取り扱いについて

お世話になっております。凄くくだらない方かもしれませんが、真剣に悩んでおりアドバイスしていただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。 本日、お寺の行事にてお札を授与していただきました。お札は凄く繊細なもので、お寺の近くにあるお店や露店で専用のケースが売られています。 今日は雨が降っていて、お札を授与していただいた後急いでケースを買いに行きました。(濡れたら破けてしまいそうなくらい繊細なお札なので)そこでお店の方にこちらでお札をケースに入れますよ、とお声がけいただいたので、雨も降ってるし入れていただいた方がいいかなと思ってそうしていただいたのですが、後々考えると私が授けていただいたお札なのだから私がちゃんとケースにも入れるべきだったのでは…と思いはじめました…。 お札自体は私が直接いただいて受け取っており、ケースにいれる作業のみお店の方がやっていただいた、という状況です。 後から思い直し、雨の当たらない場所で自分で気持ちを込め入れ直しはしました。 自分で最初にちゃんとケースに入れないと御利益も薄れてしまう、なんて事はあるのでしょうか?? それとも、最初にしっかり自分の手で直接授与していただいているので気にする必要はないのでしょうか…。 お寺のHPやsns等を見ても特にそのような話はどこにも記載されていないのですが(自分でケースにいれて下さい、自分以外の誰かに触らせないで下さい等)お札を授与していただいた後の作法として自分以外の誰かにそういったケースに入れてもらうなどの作業をしてもう事はどうなのか、等わからなく不安になってしまいました…。 もちろん、気持ちの問題だとは思うのですが、簡単にいただけるものでもないのでモヤモヤしたままでいるのも何か落ち着かなく質問させていただきました。 ご回答いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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お寺の御札/お守り等の授与物について

私は千葉県の在住です。成人です。 観音様への関心が強まりまして、 毎月・朔日/月初にお参りに通うなら在住市内に在るお寺の方が良いかなとも考え、検索して近所に見つけましたが、お寺って、中規模以上くらいにならないと、御札等がある程度の種類の取り扱いが無いところが多いな…と思いまして。 自宅の神棚にお祀りして毎朝お祈り/祈願したいのです。 それで、例えば、東京浅草の浅草寺は生まれてから2~3度お邪魔した事はあるのですが、 遠くはないが、行きたい時に難無く赴けるほど近くはない距離感で、郵送での購入を検討していますが、 「Q:普段から正月のお参りやある程度定期的にお詣りして馴染みがある訳でもないのに、御札やお守りだけを頂く事でも本尊様方のご利益に与れるものだろうか?と思いました。」 そこまで考えるのは少し考え過ぎかどうか…。 自宅近所に見つけた車で5分程度の同じ市内のお寺も聖観世音菩薩を御本尊として、他にも不動明王様もいるお寺で行き付けにしているのですが、浅草寺様と同じ観音様だから関連している…と考えて良いものか、と。 普段現地に顔を見せないのに御札だけねだられても…とは浅草寺の観音様も思わないんでしょうけど…。 或いは、その発見した近所のお寺にお参り時に、同等の金額を浄財としてお布施すれば意義的には同じなのかな…とも一縷考えましたが。 ※勿論、一番良いのは直接その場で授与していただける事、何か御祈願したい時にいつでもお参りできる事だとは承知はしているのですが…。

有り難し有り難し 13
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聖天様のお守りと参拝について

夫婦関係に悩み、初めてのお寺に観音様の参拝に伺いました。事前にHPを拝見し、聖天様と浴油祈祷の記載もありましたが、何のことか私には理解できない事だと思い、観音様の参拝にと伺いました。 参拝後、本堂横の授与所で、あるお守りに惹かれましたが、お寺の方に"観音様ではなく聖天様ですが宜しいですか?"と2度念をおされ、意味はわからないまま"一旦考えさせて下さい"とその場を離れました。 そして聖天様について携帯で調べると、安易に拝むべきでない、信仰するなら一生、辞めると怖い等の情報を目にしました。 その後別の授与所で、お寺の方に"本堂で念を押された意味は何なのか、聖天様が怖い神様だと目にしたこと、私は一生信仰はできないだろうし、お守りを一度も粗末なく扱えると言い切れないので私が授かって良いのか迷っていること"を尋ねました。すると"確かに聖天様は神様なので私達の様な者に対して何をしてるんだ!と気づかせるイタズラはされます。でも一般の方にはないと思いますし、イタズラもせいぜい転ぶ程度です(私が心配する様な一生を左右するような罰はない)。一生信仰できなくても、綺麗に終われば良いです。願いが叶ったらお供えでも浄財でも構わないのでお持ちし、心を込めて感謝すれば大丈夫です。惹かれたということは心が呼ばれているということなのでお求めになれば如何ですか"と言われ、悩んだ挙げ句、"予め聖天様に、もし失礼があったら申し訳ないのですがお守りに惹かれ授からせてくださいとお参りしても良いですか"と聞くと、"良い事だと思います"と言って頂き、何の作法も知らずただ聖天様に手を合わせ、家庭の状況・観音様の参拝に伺ったがお守りに惹かれ授かりたいこと、もし粗相があったら申し訳ありませんと伝えお守りと共に帰宅しました。 その際はとても心強い安心した温かい気持ちになったのですが、その後も聖天様について調べてしまい、怖い気持ちが肥大し、そう思う事自体失礼で申し訳ない様な、でも分不相応な事に手を出してしまったような恐れを抱き質問致しました(以前の問答を読んだ上でまだ恐れてしまう自分がいます)。 お寺の方のお話をただ信じ、聖天様を触らぬ神に祟りなしと恐れず、他の仏様やお守りと同じ様に考えて良いのでしょうか?そもそも一生信仰とは何を指すのでしょうか?聖天様にお願いをしたら別の神様に同じお願いをしてはいけないのも本当ですか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ