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信仰する意義について

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こんにちは
なつと申します。 

今回は宗教を信仰する意義についてご相談したいです。

私は祖父母の代から信仰を持っていて、仏教徒です。とても熱心に修行をしているとはいえないですが、少し修行に参加しています。

しかし、最近信仰することに対して疑問を持つようになりました。

病気、失業、お金のトラブルと悪いことが続き、信仰していても仏様は守ってくださらないと思うようになってしまいました。

辛いことが起きたら、それは仏様がくださった試練ですよ、と一緒に信仰をしている信者さんにご助言いただきました。

しかし、その理論でいくと信仰をしていると試練が下されて辛い思いをしなくてはならなくて、信仰していなければ試練もないということになり、信仰していないほうが幸せなのではないか、と思うようになりました。

信仰している意義がわかりません。
私は生まれたときには親のはからいで入信していたため、自分で信仰したいと思って信仰し始めたわけでもありません。
なぜ信仰するのでしょうか。
わかりません。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その疑問は大事です

こんにちは。ご相談拝読しました。

おっしゃるとおり仏教を信仰していても仏様が病気、失業、お金のトラブルとなどから守ってくださるわけではありません。

仏様と言うのは真理に目覚めた人を指す尊称であり、最初に仏様になったのはお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)という「人間」です。ここ凄く重要です。
人間ですから当然ですが仏様が「運命の支配者」や「世界の創造主」であるわけではありません。よって上記の様ないわゆる良い・悪いの出来事をコントロールして誰かに与えるということはないのです。

「辛いことが起きたら、それは仏様がくださった試練ですよ」

というのは信仰における一つの考え方としてはアリかもしれませんが勘違いも助長する恐れがあるので少し危ういかなとも思います。
せっかく修行の場に参加しているのであれば信者さんではなく指導してくださる立場の僧侶に直接尋ねてみましょう。
僧侶も相手の理解度に応じてそのように説明する場合も有り得るかもしれませんが、「仏教本来のきちんとした内容を理解したいのです」と伝えても、そうしたいわゆる「信じる者は救われる理論」を振りかざしてくるようであれば、失礼ながらその場自体がちょっとどうなのかな?と心配になる所です。

仏教における信とはわからないものを無理やり信じ込むことではなく、今・ここでありのままに物事を観ることです。
言うならば無意識的に信じていたような迷信の類から目が覚まされるようなことが仏教の信の内容です。

(自分にとって都合の)良い事を招き、悪い事を遠ざけるという除災招福をうたう宗教はちまたに溢れていますが仏教はそうではないのです。
良い・悪いは物事にあるのではなく自分自身の心(都合・価値観)で決めており、その心によって自ら苦しんでいると自分の内側を深く観察するのが仏教です。

しかし人間はそう強くありませんから祈らなくてはおれないような場面もあるでしょう。そうした人間の弱さに寄り添うために方便(真理に導く手立て)としてまずは私たちの考え方に沿ってくれるような面もそれぞれの宗派の方法論であるでしょうが、本当に大事なところはその先にあるものです。

今、なつ様がお抱えの疑問・不安はとても大事な内容です。よいところに気づかれましたね。絶対にごまかさないで道を求めてみましょう。また何でもご質問ください。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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仏教における信仰について

なつ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教における信仰とは、教えを実践する、仏道を歩むための一つの力として必要であるものの、信仰だけして、何も仏教の修習をしないのであるならば、それは意味のない信仰となってしまいます。

その修習についても、信仰と共に、少し難しいことになりますが、菩提心の伴う智慧と福徳の修習となっているのか、ということも大切なところとなります。

また、信仰(だけ)したからといって、仏様が救って下さる、護って下さるというわけでもなく、あくまでも自分を救うのは最終的には自分自身(自灯明)、それも、自分の業によるところとなりますゆえ、いかに自分の業を善く清らかに調えるために、仏教を修習していくかが問われるところにもなるのであります。

信仰につきまして、よくダライ・ラマ法王様もご法話にておっしゃられておられますが、「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」として、しっかりと一つ一つの教えを批判的、合理的、論理的に検証しつつ、得心した上にて、受け入れていくことが肝要となって参ります。

世間八法(利己的な利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)に一喜一憂することなく、しっかりと仏道の清き善き流れに乗って参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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信仰とは、正しく歩むべき航路を指し示してくれるもの。

こんにちは。亀山純史と申します。

仏さまは私たちに試練を与えたりすることはありません。つまり、仏さまは私たちを試したりはしません。また、仏さまが病気、失業、お金のトラブルなどが消える、ということもありません。すなわち、仏さまを信仰したからといって、私たちの人生における問題は何一つなくなるわけではないのです。
では、なぜ私たちは仏さまを信仰するのでしょうか。
それは、仏さまを信仰するということは、「私たちが、この苦難に満ちた人生をいかに生きるべきか」という羅針盤を、私たちの人生に与えてくださる、ということです。
私たちの人生は大海原の中を航海する船のようなものです。そのとき、正しく機能する羅針盤がなければ、私たちは航路に迷ってしまうのです。人生において、正しく歩むべき航路を指し示してくれるもの、それが、信仰というものでしょう。

以上が私からの回答になります。他の方の回答と合わせて、ご参考になさっていただければと思います。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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仏様のおかげで私に降りかかる災いや不運が現状の状況で収まっている。そう思って仏様を敬うことがいいと思います。仏様は神様と違って私たちに試練などは与えたりしないのですから。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

たくさんのご回答ありがとうございます。
どれもありがたいご回答でした。
また迷ったら読み直そうと思います。

「宗教について」問答一覧

伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?

 いつもお世話になっております。  私が尊敬する情報科学の先生がXで、 「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。 だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」 とおっしゃっていました。  私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」 と捉えています。  昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、 「仏様神様がお怒りになっている」 と捉えたと聞きます。  しかし、私は、 「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」 と捉えています。  私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、 思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも 繋がると思っています。  私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして いくかを説いてくれているものだという認識です。  「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。 私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと 思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が… お告げが…  お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や 精神疾患が原因と分かっています。  また、ある工学の先生は、 「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると 思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な 自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを 宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」 とおっしゃっていました。  私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、 世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。

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牧師、神父、イエスキリストが信じられない

仏教のサイトでキリストの話をするのは筋違いだと思いますが、お話しします。 イエスキリストを心の底から信じられないのです。 というか、私は私が所属したい教会がわかりません。 宗教ジプシーで、十数個の宗教を渡り歩いてきました。 でも、どこの神様も心から信じられないのです。というか、どこの教会も心から信じられません。 牧師にもそのことを話しました。 どこの教会が真理かと。 で、聖書を読んでいるかと牧師に問われて、新興宗教の教会に通っていることを打ち明けると、とても馬鹿にされました。 すごく悲しかったし、本気でキレてしまいました。 新興宗教というか、キリスト教の教会にも行かなく成りました。 なんだか、「クリスチャン」が信じられないのです。 もちろん私が知り合ってきた人には、良いクリスチャンもいます。でも、ネットでクリスチャンを自称している人は嫌いです。 ガンジーが「クリスチャンはキリストのように生活してねーじゃん」とツッコミを入れているように、私はクリスチャンが善人ばかりではないことを悟りました。 私はどうしたらいいんでしょう。 もう宗教が嫌になっています。 嫌というか、何かすごい心がモヤモヤします。 どうしたらあの嫌な牧師を赦せるのでしょう。汝の敵を許せと聖書にはあります。 でもどれだけ祈っても聖書を読んでも牧師を赦せないのです。 カウンセラーにも牧師を赦せないことを話しました。 でも、心理学や精神医学を使ってもあの牧師を赦すことができないと私は思ってしまいます。 カウンセラーに助けを求めましたが、正直あまり救われたと思えないのです。 どうすれば人を赦せますか。 お坊さんは、こいつ殺してやりたいと思う奴をどう赦すのですか?そもそも人を殺したいほど憎みますか? また、どうすれば、私は私が納得する教会というか、教えに出会えるでしょうか。

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科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

 いつもお世話になっております。  ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。  私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。  「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。  精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。  以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。  しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。  科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。  そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。  こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。  時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。  ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。  実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。  

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宗教について

お付き合いをして3年目、結婚を将来的に考えている20代後半の彼氏がいます。 結婚に向けて話を進めていく中で、 彼氏のお母様が熱心な新興宗教の信者なことが発覚しました。 彼氏は生まれた時から強制加入されているようですが熱心ではなく活動などにも参加していません。幽霊会員のような状態です。 彼氏はお母様の熱心さに嫌気がさして出身地から遠い所で暮らしているので日常生活で相手の親御さんが尋ねてきたり勧誘してきたりはあまりないと思っていますが… 私の父親が宗教関連断固拒否派です。 彼のことはずっと知らせていて近々食事だけでもするという話も出ていました。 私自身は信仰の自由はそれぞれ個人の自由かと思っているので勧誘されても入らないことは頻繁に伝えて固い意思でお断りすれば良いかなと思っていますが… 彼氏のお母様は私の入信を望んでいる様子だそうです。 (彼氏は宗教関連の話を一切私にしないで欲しいとお母様にきつく言ったようですが聞かない様子だそうです) 父親の反応が怖くてその件を言い出せない状態ですが、母親にも相談したところ「考えが甘すぎる」と言われてしまい結婚は愚か食事会すら猛反対されてしまいました。 私の結婚に対する考えは甘いのでしょうか?

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なぜ祈る?祈りと願いの違いとは?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ