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生きる意味を知りたいです。

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生きる意味を見失っいます。
私は虐待を受け育ってきました。父親からの暴力、暴言、包丁で刺されたこともあります。父親はアル中で母親にも暴力をふるい入院したことも何度かあります。
最近まではこの状態が普通じゃないと理解すること難しかったように思います。
中学時代は父親に復讐を誓いました。どれだけ否定されようとこいつより社会的位置も収入も超えてやる、それだけで勉強を頑張りました。もちろん勉強の参考書に水をかけるような邪魔、学年で1位取ろうが褒められることもなく馬鹿にされ続けました。らが、その結果大学に行き、希望の業界に入社3年目になる時には会社での成績も上位、父親の収入2倍以上、社会的地位も超えたと、目標を達成出来たと自身の中で満足してしまったように思います。
その時から人生全ての目標を失い、自分は何のために生きてるのか分からなくなり鬱病が発病しました。薬で抑えても外に出ることも出来なくなり、自分の役目が終わったと希死念慮も出ました。会社も自主退職しました。
とにかく認められたかったという思い、そして今にして思えばずっと精神的に支配されてると思います、進行形で。
それから虐待を受け同じような経験を持つ女性と出会い付き合うことになり一緒に治療していきませんかという提案を受けそれに乗りました。治療に関しては過去の記憶を一つ一つ思い出して書き換えるというもので半年かけてやり切りました。
その間、トラウマを思い出して感情のコントロールも出来なくなったり父親から包丁で突きつけられ彼女が警察に通報し父親が殺人未遂で捕まり接見禁止になりました。
その後彼女からは鬱を原因に別れを切り出され私は拒絶されたように感じ周りに味方がいないように感じどんどん落ちていきました。
今はそれから数年が経ち業界大手に転職も果たしました。ですが生きる目標が分からない。ただただ死なないように生きているだけ。人は死という絶対的未来に進んでいくのに対しそこに意味を見出そうとする事で生きているように思います。意味を見出せなくなった時点で魂的には死んでるのだと。
生きることは修行であり魂を磨く為に輪廻転生を繰り返す等、宗教によって様々な捉え方はあると思います。
ほとんどの宗教でも大前提で自殺する事は悪である。しかし人によればこれは救済ではないのか?とにかく生きるとは何か本質を知りたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生死を明らめる ❝自己の宝蔵が開かれ受用如意❞になること

壮絶な人生を歩んでこられたのですね。今日まで生きてくれていてありがとうございました。
生きる事、死ぬことの「意義・真意」を仏道を求めることで必ず明らかになるでしょう。
「仏道をならうというは自己をならうなり。」(道元禅師)
この世の真理・真実を求めれば必ずたどり着くところがある。
古来より求道者が仏門を叩いたのは単なる出家や隠遁ではありません。人生における一大事を明らめるためです。菩提心を高く持てば持つ程に妥協を許さなくなる。菩提心・求道心が低ければそこそこのもので十分でしょう。ところが生き死にに関わるような本当の深い悩みにはベタな坊さんの生ぬるい言葉に救いはなかった。そんなものでは満足などするものではない。
必ず本物❝正師❞を求めるようになる。
正しい教え。手ごたえのある教え。
真の指導者、導師「正師」とは「そこ」へ導く方です。
自己は自己意識を忘じ去って仏法と言われて伝承されてきたことを明らかにすることで決着が着きます。
人間はこの自己というものを知らないから手ごたえが無いのです。
人の書いた本や教えの文言には答えはない。
その言葉が差し示すところの実物を会得して初めて明らかになるのです。
私自身も生きることの意義を学生時代からずっと求めて心理学や哲学にも求めてきましたが、手ごたえのある答えは得られず、仏法を明らかにされた方との出会いによって解決がつきました。知識というものはネットでもいくらでも手にはいる。ところが、自分が自分に目を向けることはそれを本人が本当にやらない限りは手に入らない。
何故この世に仏道というものがあるのか。それはこの自己を明らめて、自己の真相を知るためにこそあるのです。
仏教を学ぶということは実は仏教を学ぶのではないのです。
この自分自身、自己の本来の姿を求め、見極め、見定めて明らかにすることなのです。お釈迦様自身に仏教という言葉はありません。自分自身がすべての心理的な持ち物を手放して心において為すことを無くあらしめることによって禅定という人間の見解を越えた心が開かれるのです。
そこには「解釈」はありません。
あるのは絶対的な真実と確かな手ごたえです。
仏教にはそれがあるから重宝される。
解釈というものは人によって解釈が変ってしまうものですから真実にはならない。仏道の決着とは解釈を超えた万人の共通の真実。
真剣に求めることで決着が着きます。

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おきもち

仏教を学んで悟りを目指してみませんか

難しく考える必要はありません。
幸せに生きて幸せに死んでいくのと、
不幸せに生きて不幸せな気分のまま死んでいくのと、どちらがハッピーかという話です。
お坊さんの多くは、人々に幸せになってもらいたいのです。
自殺願望は「うつ」の症状でしょう。
生命の本能としては、まだ生きたい。
仏教的な観点から言えば、「もう充分に生きた!大満足!ごちそうさま!」みたいな気持ちで死ぬのが理想です。
「うつ」の症状による自殺願望は、「生きることに満足した」わけではないのです。
仏教は、生きることに満足して(煩悩がなくなり)、生きものであることから卒業する(輪廻転生から解脱する)ことを目指しています。
いわゆる「成仏」ですね。
あなたが、仏教的な考え方に賛同するかどうかはわかりませんが、
私は、お坊さんとしてはそのように考えます。
新しい生きる目的として、仏教を学んで悟りを目指してみませんか?

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

丹下覚元様
コメントして頂き誠にありがとうございます。仰る通り書籍やネット、他者の意見を聞いても自分とは違う見聞、経験を持っており自己で探究し学び続けるしか無いように思います。少し心が軽くなりました。貴重な意見ありがとうございました。

願誉浄史様
コメント誠にありがとうございます。
生きると言う事の意味、輪廻転生の解脱には非常に興味があります。かく言う私は幼児洗礼のキリスト教で簡単に言うと信じる者は救われるという教えの元、生きてきました。しかしそこに意味は見出せなく教会にも10年以上行っておりません。
動物を見ていて思うことがあります。彼らは生きる為に生きてるのだと。人間は差異はあるものの思考という能力があり追求することが出来る。宇宙という点で考えればこの時間など些細な物でしかなく意味のないことなのかもしれない。ですがだからこそ興味があります。
仏教を学ぶにはどのようにすればいいですか。

「生きる意味」問答一覧

私は何のために生きているのでしょうか

お坊さん、こんばんは。 心が千切れて粉々になって、誰にも頼れずしんどくなった今、ふとここの存在を数年ぶりに思い出して投稿してみました。 下手くそな文章でしたら申し訳ないです。 私は二十代の社会人の女です。 以前から仕事をしていて、同じようなミスが減らなかったり、そもそも間違いを見つけることが出来なかったり、そういった事で「やる気がない」「何度教えてもだめだ」と指摘を受けることが多くありました。 周りの人間に見放され、どんどん居心地が悪くなってうつ状態に陥り、病院に行ったところ、診断結果は「発達障害」と、周りからの圧力や叱責による「うつ病」でした。 今まで自分が何故上手く仕事が出来なかったのか、それは全て発達障害のせいだと指摘され、涙が止まらなくなりました。 私にはきょうだいがいますが、障害を持っているのは私だけです。親も親戚も、誰も障害を持っていません。 それなのに、私だけが障害を持っていて、そのせいで周りからの評価に苦しめられ、結果うつ病にまでなってしまいました。 なぜ、私だけがこんなに苦しい思いをしないといけないのでしょうか。周りを見れば、「普通の人間」で「普通に仕事が出来る」人ばかりで、なぜ私はそちら側の人間にならなかったのかと、日々悔やんでも悔やみきれません。 父や母は「発達障害に産んだつもりなどない」と私の病気を否定し、誰も私の辛さと向き合ってくれません。きょうだいも、私が病気や障害のことを打ち明けた途端距離を置くようになりました。 私は発達障害者になりたくてなった訳ではありません。うつ病にだって、なりたくてなった訳じゃない。 周りは理解してくれないし、薬も合わなくて廃人のようになる日も少なくなく、休んだ後に職場に行けば周りからの目は白い。 こんな状態で生きていけません。 私は何のために生まれたのでしょうか。 今まで何が楽しくて、何に生きがいを感じていたのか、もう分からなくなってしまいました。 今は奨学金を返さないと死ねないと思って何とか死なずにいますが、昨日もやっぱり辛くて首を吊ろうとしてしまいました。 こんな質問してごめんなさい。 でも、もう私も何をどうして生きれば良いのか分からなくなってしまいました。

有り難し有り難し 11
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何かを機に、自分をたまに見失います

こんばんは。 いつもお世話になっております。 高校3年生の頃から考えることはありましたが、最近になって再び、生きる意味を考えることが増えました。昨年に新しい環境、新しい暮らしが始まり、有難いことに友達もできました。最初は、友達ができたことに嬉しく、心の拠り所になっていました。ですが、時間が経つにつれ、価値観の違いがあったり、相手の良くない態度で、自分で自分を苦しめることが増えました。なんでそう思えるのか、私が何か気に触ることをしたのかな、と些細なことを無駄に考える時間を費やし、疲れ果てました。ですが、いざその子がいなくなると、寂しい部分もあって、今思えば、依存していたのかもしれません。4月からまた再び、新しい年が始まりましたが、彼女と話すことが一段と減りました。前回と同様、依存だと分かっていても寂しさがあります。他の友達といると少し羨ましがったり...でも、頭のどこかでは、もしかしたら、離れる縁なのかもしれない、離れていっても追いかけることないんじゃないか、無理にまた自分が楽しい時間と辛い時間のギャップを受けて、自分を苦しめるのではなく、自然に身を任せてもいいんじゃないかって考えがあります。 いい縁は例え別れてもいつか再開して戻ってくるはずって思ってしまいます。今繋がっている縁を大事にしながら、自分から離れていった縁は追いかけずそのままに。 また、もうひとつ考えることがあって、心の底から幸せだと思える瞬間を、一生を共にする相手と迎えたいなとより思うようになりました。胸が苦しいときは尚更、私には、辛い時、嬉しい時を共有できる伴侶が出来るのか、と思うようになり、以前より鮮明に伴侶は誰か分からないけれど、その伴侶といるときの自分の姿が浮かんでくるようにもなりました。この浮かんだ姿は、将来の本当の姿なのかなと思ってしまいます。 何を機にこれらの考えになったのかが、分かりませんが、私、ちゃんと生きられているのでしょうか。この今の自分が、自分ではないみたいで、たまに分からなくなります。本当の幸せ、掴むことができるのでしょうか。今でも幸せは感じています。でも、これは自分にとって、本当に幸せなのかなって思うことがあります。ご回答をいただけたら、嬉しいです。

有り難し有り難し 4
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昔の教え子と相撲をとり思わぬ結果に戸惑い

以前下記の質問をした者です。 https://hasunoha.jp/questions/66841 ご回答どおり教え子と相撲をとりました(スポーツ施設内の正規の土俵です)。 私は47歳、170cm、102kgの巨漢。彼は20歳、168cm、53kgの細身。 結果は10勝5敗で...彼の勝ち越しでした。 こんな結果になった原因ですが、私の体力が衰え過ぎでした。 日頃の運動不足に過度の喫煙が加わり、すぐに息切れしてしまいました。 そして脚の筋力はないのに体重だけはあるので自分の巨体を支えきれず、常に膝が伸びて棒立ちでした。 足腰が不安定な状態で彼に懐に潜り込まれ、私はまわしがとれないまま彼に双差しを許し、巨漢の私が細身の彼に真正面から寄り切られてしまう、という内容が大半でした。 最後の取組もこの負け方でしたが、土俵際に追い込まれた際あまりの苦しさに「まわしが、とれない」と声に出してしまう程でした。 私は、年齢差もあるので彼に負けるかもしれないとは思っていましたが、まさか幾度も真正面から寄り切られるとは予想していませんでした。 尤も、事前にまわしを締める際、私は羞恥心もあり下に短パンを履きましたが、彼は「男と男の勝負なので正々堂々と戦いたい」と、お尻を出してきました。この時点で、私は彼に気持ちの上で負けていたのかもしれません。 対決が終わった後、負けた私は寧ろ清々しい気持ちでした。 小学校時代は本当に華奢で身長も体重もクラスの男子で最低だった彼が、 私の巨体に物怖じせず相撲で真っ向勝負を挑んでくるほど強く育ってくれたこと、 女子にもよく泣かされる弱虫だった彼が、恥ずかしがらずにお尻を出してまわしを締めるほど精神的にもたくましくなってくれたことが、教師として嬉しくて仕方ありませんでした。 その反面、勝ったはずの彼の方が、どこか物悲しげで寂しそうな表情をしていました。 「勝てると思ってなかった」と幾度か言っていたので、私を本物の力士のように強いと思っていたのでしょう。 現実の私は、彼の思い描いていた姿ではありませんでした。10年の歳月はやはり残酷ですね。 彼に、電話か手紙で励ましの言葉を贈ろうと思います。敗者が勝者を励ますというのも変な話ですが、相撲の勝敗と勝負後の気持ちが逆だったので、私が励ます側だと思っています。何と言ってあげれば良いでしょうか。

有り難し有り難し 19
回答数回答 4

ADHDの私は社会でやっていけるのか

私は3年ほど前から心身の不調により心療内科に通っています。主な症状は鬱や過眠で、大学の授業にもあまり出席できず、通院状況を大学側に伝え、学生支援室から配慮を受けながら通学しています。はじめは睡眠障害と診断されていたのですが、昨年主治医からADHDと診断され、過眠によって朝に起きられないのもその特性によるものではないかと伝えられました。確かに私はADHDの特性としてあげられる不注意が多く、スケジュール管理や部屋の片付けが苦手で生活が乱れることが多いです。ただ、勉強はむしろ得意な方なので大学で実家を離れて一人暮らしを始めるまでその症状が可視化されなかったのかもしれません。 診断を受けてから今までの生活を見直し、同じ症状に悩む方々のライフハックを参考にしたり、自分なりに苦手なタスクを自動化する方法を考えたり工夫はしていますが、今年で大学4年生になるため、大学の学生支援室の方からも厳しいコメントを頂くようになりました。 周りの子達が就活を進める中で、あなたは社会でどうやっていくのか。朝起きられない、スケジュール管理ができないといったことは社会では通用しないが、卒業後あなたはどうするつもりなのか。といったコメントを度々貰うようになり、分かっていてもそういった言葉を聞く度に生きているのが嫌になってしまいます。社会から見れば自分が甘えた人間であることは言われなくても分かっています。社会に出たらどうするのと聞かれても、これが私の精一杯でどうすることもできないというのが答えです。 私は今大学院への進学を考えていますが、進学してもいずれ社会に出る日は来ます。その日が来るのが怖くて自分で選んだ院への進学という道さえ就職から逃げた結果のように思えてきます。大学もまともに通えない人間が社会でやっていけるのでしょうか。社会でやっていけない人間が生きる意味はあるんでしょうか。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

生きてる意味

いつもご回答ありがとうございます。今回も相談失礼致します。 今私が思っている事吐き出させてください 毎日毎日生きている心地がしません 昨日も今までの事やこれからの事を考えてしまい不安で頭がいっぱいになりました 小学校に転校したての時にいじめに遭い、多分その時点で私の心は死んでいたと思います。いじめって言ってもみんなが思ってるようないじめではありません。暴言を吐かれたりハブられたり無視されたり都合のいいように利用されたりそんなものです。 小学生のころの私は弱かったしいいなりになるしかありませんでした いじめてきた子に認められたかったし仲良くなりたかった、そしたら無視されることもなくなると思ったしみんなと同じように接してくれると思いました。今思えば本当に惨めです。 何年か経ち小学校3年生くらいの時新しいお友達が3人できました 親友と呼べるほどに仲良くなってお泊まり会やお出かけもしました ですが一人の子が○○ちゃんが一番好き、一番仲いい子、幼馴染だから、その発言を聞く度に私は、転校生なので幼馴染がいるわけもなくとても羨ましくて、なんだか利用されているだけなのかもと思っていました 当たり前に喧嘩はありました、大好きで仲良かった子にも散々暴言を吐かれ愚痴を言われ無視され、私も悪い部分があったとはいえ本当に辛かったです その他にも兄が同級生に絡まれ、たぶんあれはいじめられていたんだと思います。 それを見てどうしても腹が立ってしまいその中に割り込んで口出ししました いじめてる側の人達にはもちろんいじられ、兄は助けてくれると思ったのですがまさかの相手側についていました。 でも分かります、嫌われるのが怖いしまた虐められるのが怖い、私も同じなので分かります。ですが兄にまで裏切られた私には絶望と悲しみしかありませんでした それからも男子に体型をからかわれたり冗談で暴力をふるわれたり、私は元々肌が弱く虫に刺されやすくて、それに加え治りにくかったので肌が汚いです。なので水泳授業など苦痛でしかなかったしそれが原因でいじめられるのも怖かったです。 結局不登校になってしまった今でもこのトラウマは思い出してしまうし、フリースクールでも空気のような自分、みんなは可愛くて友達もいて輝いてる、誰でもいいから私を見つけてほしい認めて欲しい人が怖い、もう死んでしまいたい

有り難し有り難し 24
回答数回答 2

今の幸せを感じるには

大学卒業後、就職した職場でなかなか環境に慣れることができず適応障害になって退職し、そこからフルで働くことができなくなりました。 今は平日パートタイムで働いていて、なんとか4.5年続いていますが、人間関係や労働環境は最悪です。 給料が低いことと、この先また適応障害になって寝込んで動けない状態になるかもしれないという恐れから、今だに実家暮らしです。 また大学時代からずっと付き合っていた人と1.2年前に別れ、結婚や子供も諦めました。 この歳になっていまだに自立できていないこと、仕事のキャリアを積んでいけないこと、親に孫の顔を見せられないことなど現実に向き合えない自分が嫌です。何のために生きているか分からず、無意識に死にたいという言葉が口から出るようになりました。 自分も両親も健康で、大きな病気や怪我もなく、借金や人間関係など大変な問題を抱えてるわけでもありません。 明日食べるものに困るような状態でもなく、とても恵まれた状態であるにも関わらず、ずっと「もう人生を終えたい」と考えています。 死にたいというよりは、今ある面倒なことから逃げたいというのが本音かもしれません。 安心して過ごせる家があるというだけでとても幸せなことなのに、なかなかそれを実感することができません。 どうしたら今すでに身の回りに存在している幸せに気づいて、死にたいと考えてしまうことを減らしていけますでしょうか。

有り難し有り難し 9
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ