こちらの質問は取り下げられました
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
匿名様
また何かございましたら、どうぞお気軽にご質問なさられて下さいませ。
回答率98-99%を保ち続けております。規約に反するようなご質問ではない限り、ほとんどの質問に対して、回答僧の誰かがお答えをさせて頂けるかと存じます。
匿名様のお幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
初めて相談させて頂きます。 文章の構成などめちゃくちゃだと思いますがご容赦ください。 私は20代、社会人の男です。 タイトルにある通り、楽しかった過去を定期的に思い出してしまいその度に苦しくなってしまいます。 きっかけはいろいろあるのですが、昔の友人から連絡があった時や、ふと過去の写真を見つけた時、はたまた仕事で辛いことや受け止め切れないことが起きた時などにそうなることが多いです。 前者であればまだ「あの時はいろんなことがあったなぁ」とポジティブに懐かしむことができるのですが、後者の場合(仕事で辛いことがあった時など)が非常に厄介です。 もともと私は要領が良い方ではなく0から物事を考えることも苦手なのですが、今の仕事では覚えることや考えることが非常に多く、いつも上司に怒られてしまいます。 いつも迷惑をかけてしまっているな、と落ち込む毎日です。 普段はなんとか自分なりに前向きに取り組み心もリカバリーできるのですが、 自分の中で限界になると「昔は楽しかったなあ」などと現実逃避してしまいます。 それがタイトルにも書かせていただいた状態であり、今まさに陥っている状況です。 こうなると目の前の物事に向き合う事も難しく、具体的には過去のメッセージのやりとりや写真などいろいろ漁ることに夢中になってしまいます。 しまいには、「なんとかあの頃にもう一度戻れないだろうか」と本気で考えてしまいます。それは絶対に無理だとわかっているからこそ、とても苦しくなるのです。 結婚しており趣味も楽しめているため、プライベートは充実していないわけでは決してないと思うのですが、どうしても仕事で辛い状態が続くとそういったドツボにハマってしまいます。 こういったときに私はどう向き合うべきなのでしょうか? 人間誰しも過去を懐かしむことはあると思うのですが、皆様はどう向き合っているのでしょうか? 今は将来どころか目の前も見えず、ただ過去に固執してしまっている状況です。
宝くじを買うのが趣味なのですが、高額当選した人はその後の人生は良くない…とか聞くのですが、やはり運を使ってしまったのでしょうか…。 私の考えとしては、もし高額当選しても、今まで通り働いて普段通りに生活していれば良いのではないかなと思っています。 人生の中で「運」を使い切るとかそういうのってあるんでしょうかね。 まだ高額当選したことありませんが……(^_^;)
以前ご質問させていただいた後日、お寺に行き、愛染明王様のご真言や梵字が書かれた金色のカードと愛染明王様が描かれた金の護符(守護札?)の計2枚が入っているものを購入し、愛染明王様にお会いしてお参りさせていただきました。 その後、毎日それらを携帯ケースに入れて持ち歩き、最近では、お家で朝や寝る前にそれらを両手で持ちながら感謝申し上げたり悩みを聞いていただいたりご真言を唱えたりしております。 そのようななか、本日、外出時に焦っていた際に携帯ケースからそのカードと護符がするりと抜けて床に落ちてしまいました。 愛染明王様をお慕いしている者として、落としてしまったことがショックです。 落としてしまった護符とご真言や梵字のカードには、もう愛染明王様やそのお力やお心は宿らなくなってしまったのではないか、愛染明王様に失礼なことをしてしまったので、もうご加護をいただけないんじゃないか、というエゴな悩みで情けないのですが、その悩みに対する答えをどうか教えていただけないでしょうか。 また、私はそのお寺で塗香も購入しており、床に落としてしまったそれらを塗香で清めることは有効か、また他にも良い方法はあるのかということについても教えていただけないでしょうか。 愛染明王様がいつも見守っていてくださっているということが心強く、充実した日々を過ごしていた最中でしたので、少しショックです。 護符やご真言や梵字をもっと大事にしたいという戒めにもなりましたが。 このような質問で恐縮ですが、ご回答宜しくお願い申し上げます。
自業自得とはいえ、仕事に就けない。 もうつらいよ、死にたいよ。この世に僕がなんとか働ける居場所は無いよ。みんなの記憶から消えた上で、肉体も光に包まれながら無痛で消えるのが今の目標だ。これから大変なことだらけなんだろ?死ぬほどつらい思いしてまで生きる理由なんてないよ。そうでしょ?
私が高校生の時、10年程前に亡くなりました。 3年ほど入院していたのもあって亡くなってからも、 病院に行けば会えるのではないか?と感じてしまいあまり 亡くなった実感がないままこの10年を生きてきました。 その間に私は結婚して子供が生まれたのですが、 最近になって元気に走り回る子供たちを 母に見せたかったという思いが募ってきて、 ようやく母がいないという実感が出てきました。 悲しみにあふれ、泣き崩れてしまうこともあります。 この気持ちの折り合いのつけかた、心構えを教えてもらえればと 思います。
毎回、丁寧にお答え頂きましてありがとうございます。 仕事中に落薬事故報告、転倒・転落事故報告をしなかった事がある。事故報告を都合よく書いてしまった事がある。薬を落としてしまい、見つけた分だけ内服させてしまい正直に事故報告できませんでした。 凄く後悔しています。反省しています。 しかし、今更言ってもという話です。 過去の話であり、周りを混乱させてしまいます。今更話さなくても良いでしょうか? 自分で反省したら、自分を許して良いのでしょうか? 宜しくお願い致します。
以前、病院にかかり心理検査をしていただいたところ、他人の気持ちに過敏であり、それに対して自分の感情を無にすることで反応しないように社会の中で生きているという結果でした。 他人の気持ちに過敏な部分は、自分に対しても同じで、何かストレスを感じたりしても無かったことにします。 でも完全に無かったことにはなっていなくて、溜まりに溜まって突然爆発することが多いです。 どうすればすべてを他人事にせず、爆発するまで溜め込まず、うまいこと受け流すことが出来るのでしょうか。
はじめまして 会社員の20代男性です 一度投稿したものを消してしまったので再投稿です マイナス思考が染み付いてしまって、どうすればいいのか分かりません 以前数年間お付き合いしていた方が少し精神的にデリケートで、自分を傷つけたり、卑下したりする事が多い人でした 普段は明るくて優しい人で、少しでも元気になってほしくて、彼氏としてできる事はなんでもしようと思っていました しかし最後は結局私の方が抱えきれなくなってしまって、5年ほど前の私が就職する直前に別れてしまいました 弱っている人を見捨ててしまったと罪悪感を感じていましたが、数ヶ月後に連絡がきて、付き合っていた時に私が本当に支えだったと感謝を気持ちを伝えてくれました ただ、私自信が私を許す事ができずに今日まで来てしまいました 未練というのとも違い、自分自身の事が許せない、最低な人間だと思えて仕方ありません 夢だった職業にも就けて、上司や先輩に私を評価していただいても、「本当の自分は最低な人間で、周りの人を騙している」と感じてしまいます こういった感じなので、人からよく思われる事がすこし怖いと感じます みんなが優しくしてくれるのはみんなが良い人だから。 自分が何かいい結果を残せたのは周りのおかげ。 そう考えてしまいます 趣味を楽しむにしても、自分のような人間が…と思い好きだった事もだんだんと熱中できなくなりました 自分の夢を叶えたいという気持ちも無くなってきました 人並みの幸せも諦めて、自分と関わった人がみんな健康で幸せでいてくれて、自分はたまに美味しいものが食べられたらそれでいいと思ってこの数年は生きてきました なんで生きてるんだろう?と思う事もありました ただ最近、もう少し自分の幸せを大事にしようと思ってはじめてみたアプリをはじめてみました 何人かお会いしたりもしましたが、こんな自分を相手に気を使わせてしまっているような気がして申し訳ない気持ちでいっぱいです 以前お付き合いしてた人のせいして、今の自分を正当化したいという訳ではなく、ただただ自分が許せないのです ずっと誰にも話しておらず、実はこの事を誰かに聞いてもらうのも初めてです でも今後の人生の分岐点が今年は多いような気がして、何かを変えないとと思い相談させていただきました 長文大変失礼しました ご回答いただけますと幸いです
幼少期に親が離婚した際に身についた癖で、嫌なことがあると脳をシャットダウンするように、しばらく思い出さないようにして忘れてしまいます。 『思い出しかけてしまった時は無心になる』を繰り返すと、何も無かったかのように忘れられます。 これが癖になってしまっていて、去年亡くした大好きな祖母を忘れてしまいそうなんです。 忘れたくないけど、思い出すととても苦しくてやはり考えないようにしてしまいます。 この思考のおかげで、葬儀や職場への復帰はスムーズでしたが、苦しみとちゃんと向かい合って、思い出を楽しく振り返ったりしたいです。 祖母を忘れてしまいそうなのが悲しくて辛いんです。
私は今就活中の大学生です。ここ数年、自分の人生に行き詰まりや限界を感じています。精神的にしんどいことが多く、このままではこのさき生きていけないという不安感があります。 私はおそらく人より不安感が強く、同じ出来事でも一般的な人の数倍、辛さや不安を感じやすいのだと思います。 その辛さにどうやってこれまで打ち勝ってきたかというと、とにかく頑張ることでした。「不安だ、不安だ」と悩む私に、「不安なら不安が気にならなくなるまで頑張るしかない!」とよく親から言われてきました。 頑張っても微々たる不安しかかき消せず、でも頑張らないよりはマシだといろんなことを頑張ってきました。 そのおかげか、周りの人からは「頑張り屋さんだね、コツコツ頑張ることができるんだね」と褒められます。だけど虚しいです。私は鈍臭いから、何をするにも頑張る必要があるだけ、簡単にやってしまえる人が羨ましいと思います。それに、頑張ることにもキャパがあります。この先、私が頑張れなくなった時、私はその人たちからなんと言われるのだろうかと考えてしまいます。実際、頑張ることの限界が近いと最近感じます。 「勉強を頑張るのは、将来やりたいことができた時に困らないためだよ」と言われて、それを信じて自分の可能性を広げるために学業に打ち込んできました。 しかし、頑張れば何にでもなれるわけではありません。就活がうまくいかず、「なんのためにこれまで頑張ってきたのか、頑張ればなんでもできる訳ではないということは理解していたはずなのに」と落ち込んでいます。 私は頑張ることでしか存在価値を示せません。だけど、頑張ることもそろそろ限界が近いです。というか、もう限界を超えています。それに私は頑張れない自分をきっと認められません。 ただ生きているだけでも人よりも多く不安を抱えて、それを乗り越えるために頑張ることもできない。 心と体を休めたくても、社会人になればそんな猶予はないはずです。 早急に私の中の何かを変えなければ、私はこの先、きっと生きていけません。というか、少しでも生きやすいように自分を変えられないのなら、もう私はこれ以上の苦しみを味合わないように消えてしまいたいとすら思います。 どうすれば、もう少し楽に生きていけるでしょうか。もう限界です。
躁と鬱と私と共に生きる西條るじん僧侶
和歌山の駆け込み寺・中田三恵住職
「心の厄がはがれていく本」をご紹介!
教えと名言・逸話
仏教の根幹となる教え
仏教が説く8つの苦とは