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生きる意味は正しく死ぬ為

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有り難し有り難し 54

私は今23歳です
生まれてから今日に至るまで、生きていて楽しいと思った事はありません

楽しくない人生をこの先何十年も過ごすなら、今死んだ方が楽だ

この結論に至るまでに時間はかかりませんでした

しかし、自分が思っている程、事は上手く進まず
何だかんだで今も生きています

親に恵まれなかった為に、幼少から耐えがたい苦痛を味わっても尚、私は必死で生きようとしてきました
人がふわふわと何も考えず生きていられる期間は、私の人生に一時も有りませんでした
そんな時、ふと「生きる」という執着、固執、の概念が無くなり
その瞬間、所謂「ガス欠」になったのだと思います

大人になっても「親」という存在が残した爪痕は残り続け
私の選択肢は限定され、人生の分岐は無に等しいです

スタートラインが人より後ろでも、人と同じ位置でスタートする為に、ラインを引き直す努力をする方は沢山居ます
しかし、今の私はその気力が無駄に思えてなりません

困難を乗り越えた先に待っているのは
その労力に見合った未来である

と、誰かが断言したとしても
その保証はどこにも有りません

皆、なんとなくで生きているこの世で、そんな保証を求めるのは間違いでしょうか?

フィクションの世界なら、悪役ですら大義名分を貫いて「意味のある死」を迎えます
そんな信念が有れば、私の人生にも「生きる意味」を見出せるのでしょう
しかし、「生きる」為にはその大義名分も曲げなければならないのが現実です

そんな現実を生きるくらいなら、私は今死にたいです

自死を止める理由が無い、止めた後の責任を取れない
にも関わらず、他人の人生に干渉して、世論で武装した無敵状態の赤の他人が、世の中には溢れています
そういう方は何も「生きる意味」を答えられません

こういう無責任を良しとする民意が大嫌いです
ここにこんな事を書き綴った所で、恐らく
私の自死を止めるだけの回答は得られないのは明白です

自死を止めて欲しい訳じゃない
どこかで、こうして口にする事で、生きるだけの目的を、だれかの言葉で偶然見つけられるかもしれない
そういう、淡い期待をしているのだと思います

私の人生には生きる意味も、生の実感もありません
今生きている人達は、何故、何の為に生きているのでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

たくさんの想いが詰まっている。何かの言葉に触れるかもしれない

プロフィールも読ませてもらいました。
今まで生きてきて、「生きたい」と思えなかったのね。。。

耐えがたい苦痛。それがどれほどのものなのかと想うと。もういいかなって、生きることに意味を見出せなくなるわね。
あなたの周りに、そう思わせてくれる人や、力になるものには、出会えなかったのね。

それは、苦しいだけだよね。絶望ね。
自殺をする為に生きていると。
死ぬにも、力がいるものね。

人は、何の為に生きているのだろうね。
生きていたい、目的があるのだろうね。
目指すものがね。

みんな違う 何かのためにね。
それを知りもしないで、
生きてほしいと私の一方的な思いを押し付けたりしたくないけれど、

目的を見つけていくために、生きているって理由があってもいいと思うわ。
まだ出会えていない人や場があるものね。

今の状況や苦しみが、消えることはなくても、
少し変わるのなら、あなたと話をしていきたいわ。

ハスノハには、たくさんの質問や想いが詰まっています。
誰かの、何かの、言葉に触れるかもしれない。
探してほしいわ。

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有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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生きる意味

納豆が好きさん、複雑な胸のうちをご投稿くださりありがとうございます。

世の中では、生きる意味について、どのような事を言われているかは知りませんが、私が感じていることを書かせて頂きますね。
だから、お坊さん皆さんとは違うかもしれない事をあらかじめご承諾くださいね。

生きる意味は、今まさに生きるということ意外に意味はなく、生きていること自体に意味があります。

単純なように受け取られがちですが、単純ではありません。
まず、今生きているご自分のことを多くの方は解ってはいないように思えます。

自分はどのような存在なのか、お聞きすると、大概曖昧なお返事が返ってきます。

でも、そんなにいい加減なものなどでは決してないんですよ。
自分の存在が、言葉や理屈ではなく本当にかけがえの無いもので、世の中のどんな価値あるとされるものも、全く比較にならないほど尊いと実感する刹那があります。
それは、私には仏道修行によりもたらされましたが、人によっては仏道修行ではなくとも、あらゆる瞬間に何かのきっかけで実感することがあるものだと感じております。

そんな瞬間が貴方にも訪れるかもしれません。

もし、その瞬間が訪れて自分という存在がどのようなものかが解れば、環境や出生時の条件や育った状況など全く気にならなくなり、無条件でそのまま幸せを実感できると思います。

でも、多くの方々は、ご自分をちゃんと知ろうとなさらず、環境や状況などをあたかも自分の構成要素としてご自分に蓋をしてしまい本当のご自分の存在を知る機会を失ってしまいます。

本当の自分という存在を知らずに、命を断つのは全く勿体ないと私は感じます。

お節介と感じたらスルーして頂いて構いません。

しかし、貴方の普段見なかった、奥の奥の奥をどうか見つめて頂けたらと思います。
始めはどうしたら良いかわからないかもしれませんが、近くのお寺で坐禅会や瞑想会があったら参加してみるのも良いかもしれません。

生きる意味は、この本当に筆舌に尽くし難い素晴らしい自分という存在を知ることだと私は確信しています。

合掌

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有り難し
おきもち

仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...
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読ませて頂きました

拝読させて頂きました。
あなたの今の心の中にある思いを読ませて頂きました。
そしてあなたがその様な思いを抱きながら今必死で生きて厳然と存在していることを私は感じました。

今まであなたが受けてきたこと、そして沢山の苦しみを背負っていらしたこと、様々な思いがあなたの心の中にほとばしっていることを感じとりました。

私は他者の生死に対して何ら意見を申し上げる権利はないとは思います、「生きること」への無責任な押し付けになってしまいかねないとも痛感します。人の今までの状況や生きざまに何ら言える立場にはないとも思います。
あなたのおっしゃるとおりと思います。

あなたの思いを読ませて頂く中で「生きること」「死ぬこと」をあなたの生き様から見つめることはできますし、生きて存在しているあなたの存在をうかがい知ることができます。

計り知れない様々な巡り合わせや不思議なご縁の中で私もあなたもここに存在していますし、私達が知る以上に遙かに私達の存在はそれぞれに尊いものですし大切なものです。

それぞれ考えはあるかとは思いますが「生きることとはその尊さや大切さを知ることでもあるでしょうし、存在を確認しつないでいくこと」でもあると思います。

苦しみや楽しみや悲しみや喜びの中に何を見出していくか、何を感じていくか、何を受けとっていくかは人それぞれ違っています。

今すぐに「生きること」の意味や目的や答えや結論は出ませんが、あなたが生きていく中でふとした巡り合わせや出来事や人々の姿の中でふとじっくりと感じることもあるのではないでしょうか。

ここであなたがご自分の思いのたけをしっかりと語っておられて、質問を投げかけている中にも「生きること」について考えるきっかけや意味を感じたり見出したりすることがあなたにも私にもできるのではないかと思います。

せっかくのご縁や機会ですからあなたの思いをしっかりとお話なさって下さい。
あなたを心よりお待ちしています。

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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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私も納豆が好きです

納豆が好きさま

私も納豆が好きです。

仏教では、生死の見極めは非常に大事なことです。

モノ・コトには必ず全て因縁(原因と条件)があります。

因縁の無いモノ・コトはあり得ません。

つまり、生きること、死ぬことにも必ず因縁があるのであります。

もちろん、生死における私たちの迷い苦しみが生じるのにももちろん因縁があります。

それら迷い苦しむ因縁を明らかになさられ、そして迷い苦しみを無くすための因縁を明らかになさられましたのが、お釈迦様でございます。

ですから、仏教に取り組めば、迷い苦しみを無くしていけることになります。

そして、生死についての因縁も知り得るところが多々出てくるでしょう。

その一つで仏教の業(カルマ)におけることを知っていくことは、つらく厳しいこともあります。

しかし、それを知ることによる迷い苦しみももちろん、お釈迦様は見透かされておいでであり、対治するための教えがございます。

いずれにしても、無明(根本的な無知)と業を何とかしない限りは、自死を問わずどのような死であろうが、また輪廻に迷い苦しむ現実から逃れることはできないのであります。

その輪廻から逃れるための法に出逢えた今こそ、是非、仏教に取り組んで頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「生きる意味」問答一覧

何かを機に、自分をたまに見失います

こんばんは。 いつもお世話になっております。 高校3年生の頃から考えることはありましたが、最近になって再び、生きる意味を考えることが増えました。昨年に新しい環境、新しい暮らしが始まり、有難いことに友達もできました。最初は、友達ができたことに嬉しく、心の拠り所になっていました。ですが、時間が経つにつれ、価値観の違いがあったり、相手の良くない態度で、自分で自分を苦しめることが増えました。なんでそう思えるのか、私が何か気に触ることをしたのかな、と些細なことを無駄に考える時間を費やし、疲れ果てました。ですが、いざその子がいなくなると、寂しい部分もあって、今思えば、依存していたのかもしれません。4月からまた再び、新しい年が始まりましたが、彼女と話すことが一段と減りました。前回と同様、依存だと分かっていても寂しさがあります。他の友達といると少し羨ましがったり...でも、頭のどこかでは、もしかしたら、離れる縁なのかもしれない、離れていっても追いかけることないんじゃないか、無理にまた自分が楽しい時間と辛い時間のギャップを受けて、自分を苦しめるのではなく、自然に身を任せてもいいんじゃないかって考えがあります。 いい縁は例え別れてもいつか再開して戻ってくるはずって思ってしまいます。今繋がっている縁を大事にしながら、自分から離れていった縁は追いかけずそのままに。 また、もうひとつ考えることがあって、心の底から幸せだと思える瞬間を、一生を共にする相手と迎えたいなとより思うようになりました。胸が苦しいときは尚更、私には、辛い時、嬉しい時を共有できる伴侶が出来るのか、と思うようになり、以前より鮮明に伴侶は誰か分からないけれど、その伴侶といるときの自分の姿が浮かんでくるようにもなりました。この浮かんだ姿は、将来の本当の姿なのかなと思ってしまいます。 何を機にこれらの考えになったのかが、分かりませんが、私、ちゃんと生きられているのでしょうか。この今の自分が、自分ではないみたいで、たまに分からなくなります。本当の幸せ、掴むことができるのでしょうか。今でも幸せは感じています。でも、これは自分にとって、本当に幸せなのかなって思うことがあります。ご回答をいただけたら、嬉しいです。

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昔の教え子と相撲をとり思わぬ結果に戸惑い

以前下記の質問をした者です。 https://hasunoha.jp/questions/66841 ご回答どおり教え子と相撲をとりました(スポーツ施設内の正規の土俵です)。 私は47歳、170cm、102kgの巨漢。彼は20歳、168cm、53kgの細身。 結果は10勝5敗で...彼の勝ち越しでした。 こんな結果になった原因ですが、私の体力が衰え過ぎでした。 日頃の運動不足に過度の喫煙が加わり、すぐに息切れしてしまいました。 そして脚の筋力はないのに体重だけはあるので自分の巨体を支えきれず、常に膝が伸びて棒立ちでした。 足腰が不安定な状態で彼に懐に潜り込まれ、私はまわしがとれないまま彼に双差しを許し、巨漢の私が細身の彼に真正面から寄り切られてしまう、という内容が大半でした。 最後の取組もこの負け方でしたが、土俵際に追い込まれた際あまりの苦しさに「まわしが、とれない」と声に出してしまう程でした。 私は、年齢差もあるので彼に負けるかもしれないとは思っていましたが、まさか幾度も真正面から寄り切られるとは予想していませんでした。 尤も、事前にまわしを締める際、私は羞恥心もあり下に短パンを履きましたが、彼は「男と男の勝負なので正々堂々と戦いたい」と、お尻を出してきました。この時点で、私は彼に気持ちの上で負けていたのかもしれません。 対決が終わった後、負けた私は寧ろ清々しい気持ちでした。 小学校時代は本当に華奢で身長も体重もクラスの男子で最低だった彼が、 私の巨体に物怖じせず相撲で真っ向勝負を挑んでくるほど強く育ってくれたこと、 女子にもよく泣かされる弱虫だった彼が、恥ずかしがらずにお尻を出してまわしを締めるほど精神的にもたくましくなってくれたことが、教師として嬉しくて仕方ありませんでした。 その反面、勝ったはずの彼の方が、どこか物悲しげで寂しそうな表情をしていました。 「勝てると思ってなかった」と幾度か言っていたので、私を本物の力士のように強いと思っていたのでしょう。 現実の私は、彼の思い描いていた姿ではありませんでした。10年の歳月はやはり残酷ですね。 彼に、電話か手紙で励ましの言葉を贈ろうと思います。敗者が勝者を励ますというのも変な話ですが、相撲の勝敗と勝負後の気持ちが逆だったので、私が励ます側だと思っています。何と言ってあげれば良いでしょうか。

有り難し有り難し 19
回答数回答 4

ADHDの私は社会でやっていけるのか

私は3年ほど前から心身の不調により心療内科に通っています。主な症状は鬱や過眠で、大学の授業にもあまり出席できず、通院状況を大学側に伝え、学生支援室から配慮を受けながら通学しています。はじめは睡眠障害と診断されていたのですが、昨年主治医からADHDと診断され、過眠によって朝に起きられないのもその特性によるものではないかと伝えられました。確かに私はADHDの特性としてあげられる不注意が多く、スケジュール管理や部屋の片付けが苦手で生活が乱れることが多いです。ただ、勉強はむしろ得意な方なので大学で実家を離れて一人暮らしを始めるまでその症状が可視化されなかったのかもしれません。 診断を受けてから今までの生活を見直し、同じ症状に悩む方々のライフハックを参考にしたり、自分なりに苦手なタスクを自動化する方法を考えたり工夫はしていますが、今年で大学4年生になるため、大学の学生支援室の方からも厳しいコメントを頂くようになりました。 周りの子達が就活を進める中で、あなたは社会でどうやっていくのか。朝起きられない、スケジュール管理ができないといったことは社会では通用しないが、卒業後あなたはどうするつもりなのか。といったコメントを度々貰うようになり、分かっていてもそういった言葉を聞く度に生きているのが嫌になってしまいます。社会から見れば自分が甘えた人間であることは言われなくても分かっています。社会に出たらどうするのと聞かれても、これが私の精一杯でどうすることもできないというのが答えです。 私は今大学院への進学を考えていますが、進学してもいずれ社会に出る日は来ます。その日が来るのが怖くて自分で選んだ院への進学という道さえ就職から逃げた結果のように思えてきます。大学もまともに通えない人間が社会でやっていけるのでしょうか。社会でやっていけない人間が生きる意味はあるんでしょうか。

有り難し有り難し 3
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生きてる意味

いつもご回答ありがとうございます。今回も相談失礼致します。 今私が思っている事吐き出させてください 毎日毎日生きている心地がしません 昨日も今までの事やこれからの事を考えてしまい不安で頭がいっぱいになりました 小学校に転校したての時にいじめに遭い、多分その時点で私の心は死んでいたと思います。いじめって言ってもみんなが思ってるようないじめではありません。暴言を吐かれたりハブられたり無視されたり都合のいいように利用されたりそんなものです。 小学生のころの私は弱かったしいいなりになるしかありませんでした いじめてきた子に認められたかったし仲良くなりたかった、そしたら無視されることもなくなると思ったしみんなと同じように接してくれると思いました。今思えば本当に惨めです。 何年か経ち小学校3年生くらいの時新しいお友達が3人できました 親友と呼べるほどに仲良くなってお泊まり会やお出かけもしました ですが一人の子が○○ちゃんが一番好き、一番仲いい子、幼馴染だから、その発言を聞く度に私は、転校生なので幼馴染がいるわけもなくとても羨ましくて、なんだか利用されているだけなのかもと思っていました 当たり前に喧嘩はありました、大好きで仲良かった子にも散々暴言を吐かれ愚痴を言われ無視され、私も悪い部分があったとはいえ本当に辛かったです その他にも兄が同級生に絡まれ、たぶんあれはいじめられていたんだと思います。 それを見てどうしても腹が立ってしまいその中に割り込んで口出ししました いじめてる側の人達にはもちろんいじられ、兄は助けてくれると思ったのですがまさかの相手側についていました。 でも分かります、嫌われるのが怖いしまた虐められるのが怖い、私も同じなので分かります。ですが兄にまで裏切られた私には絶望と悲しみしかありませんでした それからも男子に体型をからかわれたり冗談で暴力をふるわれたり、私は元々肌が弱く虫に刺されやすくて、それに加え治りにくかったので肌が汚いです。なので水泳授業など苦痛でしかなかったしそれが原因でいじめられるのも怖かったです。 結局不登校になってしまった今でもこのトラウマは思い出してしまうし、フリースクールでも空気のような自分、みんなは可愛くて友達もいて輝いてる、誰でもいいから私を見つけてほしい認めて欲しい人が怖い、もう死んでしまいたい

有り難し有り難し 24
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今の幸せを感じるには

大学卒業後、就職した職場でなかなか環境に慣れることができず適応障害になって退職し、そこからフルで働くことができなくなりました。 今は平日パートタイムで働いていて、なんとか4.5年続いていますが、人間関係や労働環境は最悪です。 給料が低いことと、この先また適応障害になって寝込んで動けない状態になるかもしれないという恐れから、今だに実家暮らしです。 また大学時代からずっと付き合っていた人と1.2年前に別れ、結婚や子供も諦めました。 この歳になっていまだに自立できていないこと、仕事のキャリアを積んでいけないこと、親に孫の顔を見せられないことなど現実に向き合えない自分が嫌です。何のために生きているか分からず、無意識に死にたいという言葉が口から出るようになりました。 自分も両親も健康で、大きな病気や怪我もなく、借金や人間関係など大変な問題を抱えてるわけでもありません。 明日食べるものに困るような状態でもなく、とても恵まれた状態であるにも関わらず、ずっと「もう人生を終えたい」と考えています。 死にたいというよりは、今ある面倒なことから逃げたいというのが本音かもしれません。 安心して過ごせる家があるというだけでとても幸せなことなのに、なかなかそれを実感することができません。 どうしたら今すでに身の回りに存在している幸せに気づいて、死にたいと考えてしまうことを減らしていけますでしょうか。

有り難し有り難し 9
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ