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怒りを抑えすぎ病気になりました。

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有り難し有り難し 42

 お世話になります。何度も難病に悩まされながらも、仕事をしてきましたが、数年前に大きな持病を抱え、仕事も辞めないといけないかもしれません。心臓の不具合も出てきたので検査します。何年元気でいられるか分かりませんが、障がいある子どもを抱えて生きた母たちや亡くなった方々のために祈りを捧げて、出家しようかという考えがよぎります。結婚もしたかったのですが、障害者の家は駄目だと言われることも多く、心が折れてしまいました。
 そうこうしているうちに子どもも望めない年齢になり、家庭に憧れていたので、とうとう作れなかったことに辛くて仕方がありません。同年代の友達は、ごく普通に家庭を持ち、悩みながらも幸せのようです。精一杯やってきました。弟の世話も、母の愚痴にも。家族間の争いにも。血の繋がらない叔母には、あんたみたいな子、結婚なんかできへんわと祖母のご遺体の前で嗤われました。母は実家をかばって、私を庇わなかった。耐えました。なのに報われなかった。愛されなかった。だから私は幸せとは縁遠いんだと。その虚しさを仕方ない、それが人生だと思えません。悩みに対し、返信していただけたらありがたいです。 
 追伸ですが、実は退会しようとして見直したら、一度も相談していないことに気づき、文面を整理して書きました。皆様の問答を読むことで少しずつ対応しようとしてきたからです。自明灯という言葉がよぎります。完璧には癒されないと思いつつ、最後に質問いたします。

2021年10月20日 10:34

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他人と比較すれば誰もが羨むものですよね。

拝読させていただきました。

人により幸せの感度は異なるものですよね。隣の芝生は青く見えるように、他と自己を比べることで、優劣感・劣等感が芽生えるものです。その時どちらの感情も抱かない人は、他と比較していない人になりますよね。
釈迦は「他人のしたことしなかったことを見るな。自分のしたこととしなかったことだけを見よ」と説いてくれています。
単純である言葉であるものの中々、いや相当難しいことですよね。

1+1=2となり、1+1=3には基本ならないものです。+1を出せば3となるのも分かります。この「1」が自分になく、他人がもっているものと勝手な自己感情が生み出す欲なのです。

「欲は欲をつくり果てることがなく、足りていると思う強い気持ちが平常心を取り戻すのです。」
ようは欲はキリが無いと仏教では説き、渇愛と呼称します。四苦八苦では求不得苦と呼称します。
自身にないものをいつまでも掴もうとする執着が邪魔をしていることに気付くことが自身を楽にする一つの鍵となるものです。

人生は旅です。目指す到達地は他人の幸せの場所ではなく、自身の平穏の境地こそが人生のゴールです。生まれたときから、人の生きる道とゴールという到達地を会得していれば人には苦労もなければ感情も不要であり、人と人が交差する必要もなくなるものです。苦もあれば楽もあり、苦しみを知るからこそ、楽を知り得、仕事をするから休みが有り難いと思えるように、さまざまな感情の連続です。しかし、ここで仏教で説きますのは、何事も“かたよらない・こだわらない・とらわれない”ことです。

・考え“過ぎない”
・頑張り“過ぎない”
・我慢し“過ぎない”

ということであり、自身を時には客観的に見つめる時間が、何かに囚われていることに気付けたり、何かの思考に偏っていたり、形成された認識が「普通は!私は!」という固定観念が邪魔をしていたりするものです。
この認識作用は基本的に六根という「眼・耳・鼻・舌・身・心」が知らずの内に汚染されていることが大半です。自然や神社仏閣などを訪れることで忘れていた清らな感情がふと取り戻せる機会もあります。

これからですよ。人生には年齢で幸せは計れなく、他人と比較しない、身内からの罵声なども過去であり、自分らしく生きて輝いてやりましょう。小さくてもいい人生に自分らしい花を咲かせれば、人生すべてに無意味はなかったと

2021年10月21日 0:58
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有り難し
おきもち

祈るこころに佛心が宿る。 変化多き時代を生きる私たちにできること、それは...
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質問者からのお礼

法源様、回答ありがとうございます。平穏とは無縁の人生と思って生きてきました。探しても見当たらないので諦めていたのです。空っぽの心のまま人に尽くして、とうとう怒りが突き抜けて自分を傷めてしまった経過がありました。極端な人生でした。お寺は大好きで、御世話になっている真言宗のお寺にお訪ねし、お話を伺うことも多いです。「普通は!私は!」という固定観念が邪魔をしていたりするものですというお言葉、私は長く普通と自分に境界線を感じていました。
 人生には年齢で幸せは計れなく、他人と比較しない、身内からの罵声なども過去であり、自分らしく生きて輝いてやりましょう。小さくてもいい人生に自分らしい花を咲かせれば、人生すべてに無意味はなかったと。この力強い励ましのおことば、何よりです。置かれた場所で咲きなさいというシスターの言葉を思い出しました。よろめきながら、生きてきました。体が良くなりましたら、お寺にお訪ねさせてください。ありがとうございました。

「自分・人生に絶望しています」問答一覧

私は人を不幸にしている気がします

過去の出来事を思い出したり私や私の家族の現状を見ていると「人を不幸にしているかもしれない」と思い自分の存在への罪悪感が湧き出てきます。 こんなお母さんでごめんね、こんな娘でごめんね、こんな妹でごめんね、こんな嫁でごめんね。こんな気持ちです。 私は元カレと交際している間に依存に陥ってしまい仕事も辞め、駆け落ちし、飼っていた犬もネグレクト状態になりこのままでは可哀想と思い里親に出し、借金をつくり現旦那と結婚中に返済完了し、現在は2児の母として育休中です。 兄は鬱病で心配ですし、兄が大変な時に私は気づかず自由に生きていたことへ申し訳なく思いますし、親に何もしてあげられていない現状や経済力なさ、旦那からの言葉に傷つけられ虚しくなります。 ぷつっと何かがキレて飛び降りてしまいそうな感覚になります。 気がつけば自殺の情報など調べたり。でも死にたくない。そんな訳のわからない感覚です。 子どももいなく、1人だったら生きる責任もなく死んでしまうだろうなと思います。 過去の出来事はずっと私というものの肩書きのように消えることはないのでしょうか。 誰と付き合っていた、誰との間で流産した、誰との間で借金をしたなど...過去とらわれず新しい自分としてスタートしたいけれど旦那などに過去のことを言われたりした時「あ、私は変われないんだ」と死にたくなってしまいます。 私は生きている価値はありますか。 どうしたら自分を認めてあげられるのでしょうか。

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親族への不純な優越感

お世話になっております。  若い頃、散々伯母と共に馬鹿にしてきて屈辱を与えてきた従弟が 30代でハゲはじめ、現在数年間無職です。数年ぶりに訪ねたら怒鳴り合いになり、自分を散々いじめてきた伯母も、もはや彼は手に負えなくなっており、 自分に嫌味を言うのがやっとと言う感じで哀れでした。  さらには高校生の頃「お前はどうして、背が伸びないんだ。可哀想でよ~」と、執拗に言ってきた父の二度目の浮気が発覚し、大騒ぎとなりました。 自分は親族の中で一番背が低く、170cmにも届かず、他の兄弟や従兄弟、伯父や父に至ってもきちんと170cmを越えており、上記の従弟に至っては180cmあり、本当に悔しくて屈辱でした。 ちなみに父は自分が嫌がると知っててテレビに出て来るイケメンやモデルを 「おっ!背、高いね~~!!」とわざと声高々に言い、自分が怒るとさらにバカにしてきて、終いには「父親に対してなんだその態度は!! お前が規則正しく生活しないからチビなんだろ、バカ」と暴力を振るって、押さえつけて来るような男でした。実はこの時一度目の不倫中だった上、自分が逆らうからと食事を別の部屋にさせられることもあり、大変悔しい思いをしました。学校が辛かった事も拍車を掛けました。  そこで二度目の不倫の決定的証拠を抑えた自分は、父がそのような事を言うたびにわざと、父が不倫相手に当てたラインを「○○、愛してるよ、ってか?」と音読すると一発で黙るようになりました。どんなにやめてくれと母と共に頼んでも、やめようとはしなかったにも拘わらず、です。その後も何度かその応酬が繰り返された結果殴り合いになり、負けそうになった父は包丁を持ち出して来て、ほとほと情けなく思えました。  そして、その思いの丈を理解してもらうべく、周囲に思いきり語ると男が下がるからやめろ、などと否定されます。その通りだと思います。しかし、思春期に受けた屈辱、悔しさから何とか持ち直したところ相手が同じような目に遭えば、この嬉しさを言わず、笑わずにはいられないのです。  その内自分にバチが当たるような気がするのですが、このストーリーを他のどなたかに伝えずにはいられず、語らせて頂きました。この不純な高揚感を受け止めた上で、自分を戒める説法があればお聞かせ願いたいです。そして、このようなことを人に語らず生きていけるようになりたいです。

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応援する資格がもうない

こんにちは。 私はとあるアーティストが好きです。そのアーティストについて呟いたりファン同士で交流する用のツイッターがあります。 私は所謂同担拒否の方が苦手です。自分の存在が否定されているような気がするのです。そのアーティスト自身も同担拒否について苦手意識を持っています。その方の歌声に惹かれて応援し始めたのは事実ですが自分と同じ考えを持っていることにも安心できたため応援をしていました。また「あくまで自分は恋愛感情を抱かせる売り方はしていない。恋愛対象とするのであれば別のアーティストを探してください」と公言している程です。 数年前のことです。私はツイッターでたまたまアーティストの同担拒否の方を見かけてしまいました。またその方はアーティストに対して恋愛感情を抱いているといったツイートも本人に直接発信していました。 私は怒りと同時に動揺もしてしまいました。私の存在が否定された、アーティスト自身が公言したことも無視しているとそう感じてしまいました。 またその同担拒否の方は友達募集のツイートもしており「同担需要ない」といった文言も含まれていました。 そして私はとある掲示板にアクセスしました。ファンがマナーの悪いファンを批判しているような正直に言うと雰囲気の悪い掲示板です。そこの掲示板では既にその同担拒否の方が取り上げられており「恋愛対象とするなら別のアーティストを探せって公言されてるのにありえない」「アーティストに対しての返信もかなり失礼」と書かれていました。私は何を思ったのかそれに便乗してしまいました。「〇〇って奴のタグ(友達募集のツイートのこと)が不快。お前の方が需要ない」と書き込んでしまいました。ですが私の書き込みを気に留める人はおらず、そのまま別の方の批判で流れて行きました。当時の私は発散ができればよくそれ以上書き込むことはありませんでした。 ですが数年経った今ふと思い出し罪悪感に苛まれています。書き込んだのはその一回だけでしかも私の書き込みを気に留めていなくてまたその掲示板も書き込める上限に達し別のスレッドが作られている状態ですがここ最近ずっとそのことで頭がいっぱいです。私はもう応援する資格がないと感じています。お相手は今は同担拒否ではなくなっているようですがツイッターは非公開になっており内容は確認できませんでした。 私はこの罪悪感とどう向き合っていくべきでしょうか。

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さすがにもう幸せになりたい

不幸自慢のように思われてしまうかもしれません。けれど、どれだけ不幸であったか、不幸であるかということを書かせていただきます。 小学生のときに転校してから、今までずっとずっと、死にたい死にたいと思いながら生きてきました。 いいかげんに幸せになりたいです。 転校した初日に母に言った言葉は死にたいだったそうです。私は覚えていないのですが…… その日から学校にいても家にいてもしんどくて、生きていることが辛い、消えたいと思う毎日でした。 実際はしんどくないのに死にたいと言っているかというとそういうわけでもありません。 小学生の頃は人の目が怖かったです。場面かんもく症といって、学校関係の場面では声が出ずに話すことができませんでした。前を向くこともできず、首が痛くなるほど下を向いていました。 小学生の頃には父からの性的な暴力が何度かありました。今はもう一緒に暮らしてはいませんが、親子関係は続いています。ですが父親として認めることはないです。 中学生は不登校で、少しだけ通いましたが、授業をまともに受けられないし、下ネタが飛び交う荒れた環境でした。1人の子からブサイクだ、存在が気持ち悪いといじめられたこともあります。机をぶつけられたりもしました。 高校生の間は、転校してからの人生で一番穏やかなときでしたが、やはりブサイクだ気持ち悪いと言ってくる人はいました。辛いことが重なった結果うつ病になりました。 こうやって書いていると、あまりしんどくなさそうだなぁと思われるかもしれません。 ですが本当に心がしんどくて、生きることが苦しいんです。 最近は支えてくれていた母もしんどくなってきてしまって、ケンカが増えました。私が責任を押し付けて、母のことを尊重できていません。 私の命はなぜあるのだろう、苦しむためにあるのかなと感じます。 変な話、嫌に思われるかもしれないのですが、小さい頃に悪いものに取り憑かれたことがあるみたいなんです。有名な厄除けのお寺でよくしてもらいました。 その悪いもののせいで辛い人生なのかなって、悪いものに責任を押し付けたくなります。 生きることは苦しみであると仏教は説いていますよね。 幸せになれるって言って欲しい気持ちもあります。 長年苦しんだから、幸せになれますか? 人生に希望が見えなくて、希望を見せて欲しいって思ってしまいます。

有り難し有り難し 30
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楽しかった過去を思い出してしまい苦しい

初めて相談させて頂きます。 文章の構成などめちゃくちゃだと思いますがご容赦ください。 私は20代、社会人の男です。 タイトルにある通り、楽しかった過去を定期的に思い出してしまいその度に苦しくなってしまいます。 きっかけはいろいろあるのですが、昔の友人から連絡があった時や、ふと過去の写真を見つけた時、はたまた仕事で辛いことや受け止め切れないことが起きた時などにそうなることが多いです。 前者であればまだ「あの時はいろんなことがあったなぁ」とポジティブに懐かしむことができるのですが、後者の場合(仕事で辛いことがあった時など)が非常に厄介です。 もともと私は要領が良い方ではなく0から物事を考えることも苦手なのですが、今の仕事では覚えることや考えることが非常に多く、いつも上司に怒られてしまいます。 いつも迷惑をかけてしまっているな、と落ち込む毎日です。 普段はなんとか自分なりに前向きに取り組み心もリカバリーできるのですが、 自分の中で限界になると「昔は楽しかったなあ」などと現実逃避してしまいます。 それがタイトルにも書かせていただいた状態であり、今まさに陥っている状況です。 こうなると目の前の物事に向き合う事も難しく、具体的には過去のメッセージのやりとりや写真などいろいろ漁ることに夢中になってしまいます。 しまいには、「なんとかあの頃にもう一度戻れないだろうか」と本気で考えてしまいます。それは絶対に無理だとわかっているからこそ、とても苦しくなるのです。 結婚しており趣味も楽しめているため、プライベートは充実していないわけでは決してないと思うのですが、どうしても仕事で辛い状態が続くとそういったドツボにハマってしまいます。 こういったときに私はどう向き合うべきなのでしょうか? 人間誰しも過去を懐かしむことはあると思うのですが、皆様はどう向き合っているのでしょうか? 今は将来どころか目の前も見えず、ただ過去に固執してしまっている状況です。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ