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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

信ずるものの矛盾について

前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。

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興味と愛情

私はいろんな宗教の教えに興味があります。その中でも特に仏教に興味を持っています。 海外では激しい宗教対立がある中で日本では独自の均衡を保っているように思い非常に素晴らしいことだと感じています。 しかし教えを拝聴することも有り難いのですが、等身大で「話し合える」お坊さんとお酒でも飲みながらぶっちゃけトークをしたいと常々思っていました。 ところで、私の両親は敬虔なクリスチャンのはずなのですが、幼い頃から私を殴ったりののしったりして、彼らが思う通りにした時だけ「愛してる」と言われてきたので、「相手の思う「何か」をしないと私はいてはいけないんだ」と思うのが当たり前でした。 そして心身ともに病んでしまい、病院に通うも長年の投薬の副作用でホルモンバランスを崩し体重の激しい増減を繰り返し、免疫力がなくなり肝臓、腎臓、皮膚疾患、病気になりやすく転職を繰り返しています。 そんな私を両親はののしり、私は自分自身の不甲斐なさに落胆しています。 何回も挫折を繰り返してきましたが自分や病気、誰かのせいにするのではなく心の平穏を得たいと前から気になっていたお寺に通い始めました。 最初はただ境内を歩いたりするだけでしたが、本堂でお経を読む会に参加したりお坊さんとお話をするようになりました。 そして少しずつ前向きになり転職先も決まりこれからという時に 檀家さんの派閥争い?の様なものに巻き込まれ、悪口を耳にし凄く悲しい気持ちになっています。 なぜ同じ「仏」「神」を信仰しているはずなのに、他人の行動を批判するのか? 私には解らないのです。 また同年代のお坊さんの考えや展望など率直な意見を交わしたいのです。 そんな思いの中、少し年下のお坊さんでフランクな対応をして下さる方に最初に記述したお酒を飲みながらぶっちゃけトークをこの方なら出来るのではないかと思い連絡先を渡し飲みに行きたい旨をお伝えしました。 今はこれが知的好奇心、興味なのか恋慕なのかわからなくて混乱しています。 そしてそれが相手のご迷惑になっているのか不安です。 皆様からしたらこういう事は迷惑でしょうか?

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