人は死んだらどうなるのでしょうか?
私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人は次のように、
おっしゃっています。
この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし
『末灯鈔』(十二通)
意味は、
そろそろ、この世の生が終わりに近づいきました。
先に極楽浄土へ往って待っているから、
(みなさんたちも)間違いなく必ず
(お浄土)に来なさいよ。
ということです。
私は、親鸞聖人の御言葉を無条件で信じています。
ですから、死んだら必ず、師僧である親鸞聖人のところ、
お浄土に参らせていただくのです。
もっとも、親鸞聖人は、私には、仲間は志を同じくする仲間はいるが、
弟子はいないとおっしゃっています。
私が師僧と敬慕するのは私の勝手です。
私は、亡くなったら、お浄土で阿弥陀さま、諸菩薩、諸仏、諸先達に
お会いして、教えを乞うのを楽しみにしています。
見えない、聞こえない、存在を実証することのできない世界ですが、
信仰とは、信じることです。
信じるとは、人が言うと書きます。
親鸞聖人や、その師僧であらせられる法然聖人をはじめ、
歴史に残る大勢の先達、高僧と言われる方々が、
死後の世界、お浄土について、語っていらっしゃいます。
これを無条件で信じ切きるしか、愚僧の私にはすべはありません。
ですから、私は、幸せです。
これからも、有難い人生を歩ませていただき、
寿命が来たら、お浄土に連れて行っていただきます。
ですから、死後のことを恐れずに、
たった今、この時を精一杯生きてくださいね。
二度目のご縁をいただきました。
さて、人が死んだならどうなるのか?はっきりと言えることは、死んでみないとわからないということでしょう。
仏教では存在や死後について有る(存在する)という見解や、逆に無い(存在しない)という見解はどちらも事物の真実の姿を知らない誤った(偏った・とらわれた)見解とされます。
果たして「死後の世界の存在」が死を目の前にする人々の心強い支えとなるでしょうか?
逆に死後の世界におびえる方もいらっしゃるでしょう。
死への恐怖の本当の克服とは「死後の世界の存在」の有無を問わないということでしょう。
有っても無くてもどちらでもよい。
と言い切れるように今を生きるということです。
生は死によって無駄となりますか?
あなたの大切な人の人生は死によって無駄となりましたか?死んでもなおあなたに影響を与え続けているのではいですか?
死後、本人が実際にどうなったかはわかりませんが、わかることは残されたものにとって先に命を終えていかれた方の存在が仏としてはたらくということです。
仏とは真実を教えてくれるはたらきです。
真実は死後にでなく、今にあるのです。その時、死後の世界の有無は果たして問題となるでしょうか?
私は私の死が残されたものに影響を与え続けていくことを信じ今を生きていくだけです。
なぜなら私自身の中に亡くなられた先達が今もなお生き生きとはたらきかけてくださるからです。
死んでも無になりません。
そもそも無とは何でしょうか。
存在しているだけでも、すでに多くの存在とかかわり合っている。急に亡くなったからってすぐに忘れ去られたりするでしょうか。その人の親がいる。家族がいる。友人がいる。…のに。
自分が死んだからって、それでもう無になった、と見るのはあまりに虚無的です。
限りなく無に近くなりたければ遺骨も海に散骨して生前その人を知っていた人たちにも知らせない様に、こっそり散骨(捨骨)でもすることです。
そうすれば生前その人を知っていた人の記憶の中で位しか思い出されない。
ひどい話でしょう。
さて、そういう抗い的な事ことは、人為の為すわざです。だからこそしてはならないのです。
生きて、呼吸しているだけでもその存在が確かにある。鼓動している。血が流れている。
お釈迦様は死んでから無になったのでしょうか?
無になったなら仏教だってもうとっくに無になっている。
無にはなっていないでしょう。
それが死んでも無にならないことの確かな証明です。
お釈迦様も、先人たちも死んでも活きている。
目の前のものを見てください。物質にも先人の魂が宿っています。
前の人のソウルを受け継いでいなければ物って進化しないのです。
仏教だって、こうしてhasunohaサイトができて、これだけの釈迦の精神を継いだ人間たちが何千万人と生まれてきている。
影響力としてだってクラシックや名画のように不滅でしょう。
だれが無になるなんて言ったのですか?(^。^)
そういうのを魂・そうる・れいこん・永遠の命とも言う。
お釈迦様は「死後については考えるな」とも言われました。ですから科学的に考えれば、死後は何も無いという事は間違いではありません。
しかしお釈迦様は「全てのことは心によって成り立つ」とも言われています。
ですから私は、強く心に信じること、念じることがあるなら、それは現に生まれると思うのです。
私は死後に極楽浄土に行くと信じています。
そのためによく南無阿弥陀仏とお唱えします。
よかったらご一緒に南無阿弥陀仏と唱えましょう。なむあみだふつ、でも、なんまいだ、でも構いません。
いつでもどこでも何回でも構いません。
たった一言でも。
極楽浄土は悟りに至るための仏道修行をする所です。
いつかは共に極楽浄土で修行しましょう。
Hannah 様
質問拝見いたしました。この質問、一緒に考えさせていただきます。
とても興味深いですね。私は30代になりますが、Hannha様は10代でいらっしゃいます。
ここに於いて『死後の世界』ということに思いを馳せますと。私は想像出来ません、クリアーな絵として。何故なら、自分の眼で見たことの無い、世界だからです。
ただ、僧侶としてご法事やお葬儀をお勤めをさせていただいて思うこと、気づいたことがあります。
それは、人の生きた内容や容姿は、その人の縁に触れた人によって、この世界でその人の『死後』に及んで語り継がれる、ということです。
例えば『おじいさんはこういう人だったね。』『お父さんは優しい人だったね。』『お母さんは厳しかったわ。』『あなたは亡くなったお祖父さんに似てるわね。』など、このような話、耳にしたことありませんか?
この現実世界においての『死後』の話です。
それぞれが、ある場面において会話の中心に存在し、生きているんです。
供養はその最たるものではないでしょうか。
その存在を『魂』と呼ぶかは知りませんが、Hannhaさまの質問の最後に重なってくるのではないでしょうか?
さらに言えば、子孫を残した場合、その遺伝子がこの世界に存在し続けるという事実もまた然り。しっかりと、現実に目を向けていけばそのような事実に気づきます。
但し、自分が『死ぬ』というのは未知の世界ですから、おそらく大半の人にとっては、容易には受け入れられることではないと思いますし、『怖れ』(未体験の出来事として)もあるでしょう。但し、そうではない、との教えも仏教には出てきます。
最後に、仏教や宗教を信仰することによって、生き方が変わる、即ち死に方も変わるということです。人生は、時として、どうしようも答えが見出せない場面が出てきますが、そんな時、信仰する宗教には自分なりの答えを見つけるヒントがたくさんあるのではないでしょうか。
Hannhaさまの質問により、一緒に考える機会を与えていただき、ありがとうございました。
一つの回答として、『死後』について考える参考になれば有り難しです。合掌。
Hannah様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
死後については、拙生も昔は虚無的、悲観的に考えておりましたが、仏教を修習していく中で、存続していくありようについての確信を少しくにも得ることができてきております。
それは、微細なる意識として死後も存続していく心相続(心の連続体)に関するありようについてでございます。
私たちの存在は、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)なるものと申しまして、五蘊とは、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)が、色々な因縁(原因と条件)によって、それらの要素が互いに依存し合って集まり成り立っているものとなりますが、死後において、この肉体が滅び、今あるような身体的な機能・作用が停止したとしても、実は、肉体的な機能に左右されない微細なる意識としての心相続(心の連続体)が、更に色々な因縁(原因と条件)によって存続していくものであると考えることになります。
そして、その微細なる意識としての心相続、心の連続体においては、過去世、現世ももちろん含めて、全てのこれまでの数々の行いの業・カルマというものが、これから先へ向けても引き継がれていくことになります。
永遠永久に変わらない実体的な自分という何かがあるわけではありませんが、様々な因縁に依りて存続していくものはあり得ているというところとなります。
ですので、何もかもが消えて無くなるというわけではないと考えています。
ただ、その死後における心相続、心の連続体の赴きにおいては、様々な因縁と共に、実は、己自身の行い(業・カルマ)の影響が強く反映され、おおよそその行き先が決まっていくことになります。
ですので、できる限り、この今、現在、そしてこれからも、善き業・カルマをしっかりと調えることで、より善い行き先へと向かえるように調えて参りたいものとなります。
できれば、仏道を歩み、悟り・涅槃へと向かうための善き業・カルマをしっかりと調えることで、この迷い苦しみの輪廻を解脱して、悟り・涅槃へと至ることを目指すことが、仏教においての要諦となって参ります。
できましたらこれを機会に、より一層、仏教に興味を持って頂きまして、是非、学びを進めていって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
丁寧なお返事をありがとうございました。ずっと先、死んだ後もみんなの心に永遠に生き続けられるような人生を生きていきたいと思いました!
南無阿弥陀仏を聞くととても心が落ち着きます。不安になった時や悲しい時、わたしも唱えてみます。