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癒しと悟りは別物?

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癒しと
悟りは別物ですよね?

癒しは『私』がいるけど、

悟りには『私』がいないから

自分を癒してから
悟りについて向かっていったらいいでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りは向かうんじゃなくて本来の様子

はじめの一歩👣を誤れば悟りは遠のくばかりです。
本来の持ち物、足元の宝を見捨てて遠くのゴミを拾いに行くようにはならない様に注意しましょう。
北海道に行こうとしてもはじめの一歩を間違えて九州についちゃってから「北海道は何処だべ」と言うようなことはチョー時間の無駄です。
私自身もチョー遠回りしたのでみな様もご注意ください。
道元禅師も「邪師に惑わされた」ことを述懐しておられます。
こんなライトな書き方ですと、まさかこんなことが悟りだとは思わんでしょうが、求める先は我々が思い描く思考上のそれっぽいところではなく、今のあなたの目前の事実。
足元、目の前、思う前の自己、マジであれこれ思う5秒前。
いま、そこ、この事、即今、即処、只今のことなりけり、なのです。
「今でしょ!」これは林センセイではなく「而今」。元々禅の言葉です。
この今を置いて他に求めるべき悟りはない。
道元禅師は最上無為の「道」は本より円通しているのに、どうして修行らしいことや迷いを払って悟りを得るなどという手間ひま事が必要であろうか、と説いています。
坐禅や瞑想を通して悟った状態になってみると、あぁ、なるほど払うべき想念や煩悩なんて元々どこにもなくて、修行めいたことも不要であると分るのです。
全てはこの心のありようだから、修行めいた修行ばかりが修行ではなく、今見ていること聞いている事も本当は修行。ただし仏道の修行(修証)になるかならないかの違いだけです。
その違いとは何を見るにしても聞くにしてもそこにセルフの想念をつけ足さぬこと。
それがそこにそのままにして、おのがモノ言わぬ世界。
癒しはその時っきり、その場っきり。
長続きしないのです。
いまだ想念の世界にとどまっている心だからです。
悟りは想念を離れた事実に住するありようです。
思考世界から事実世界に住することに失われはありません。
聞くままに また心なき身にしあれば おのれなりけり 軒の玉水
見るままに また思い無き 眺めあらば おのれなりけり スマホ画面

自分が今見ている聞いている出会っている事も修行の材料です。
何を見る、聞く🍆為すにせよ自分の想念を交えず、私見を交えずに行われている。
すでにそのように全自動&無為で「行なわれている自己の身心を悟ること」(ココ大事ね)で本来の自己、悟りと世間で言われていることの実質、中身が現われるのです。

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「無我」とは、「私」が存在しないわけではありません

現に、あなたが、今、ここに存在し、ものを感じ、感情が生じ、ものを考えています。

そういう意味での「私」の存在を否定するのが「無我」ではありません。

無我というのは、われわれが、、無意識に「これは自分のものだ」と思っていることを、ひとつずつ「これは私のものではない」「これは私ではない」というように、考察していくことです。

例えば、「私の妻」「私の子供」「私の犬」という言い方をしますよね。
しかし、妻は別の人、子供も別の人、飼っている犬も別の生き物です。
「別のものである。しかし、関係性(因果、縁起)で結びついている、というのが仏教的な理解だと思います。
そうして考察していくと、「私の身体」「私のいのち」は私のものなのだろうか? 私の所有物と言えるのだろうか?という疑問がわいてくるはずです。

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浄土真宗、真宗大谷派です。
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別物です

 今や空前の「癒やし」ブーム!
 でも実は「癒やし」という言葉の歴史は浅く、文化人類学者の上田紀行氏が1990年、セイロンの悪魔払いの研究の中で「癒やし」という言葉を使ったのが最初とされています。

 上田氏は仏教にもちょくちょく口を出してはいますが、「癒やし」自体は仏教とは無関係といえましょう。むしろ2500年の歴史がある仏教と一緒にしないでよ!って感じです。

 かといって、「癒やし」じゃなくて「悟り」に向かう、というのもなんだか一足飛び感がしますね。また悟りに「私」がいないというお考えも何か違う気がします。
 まずは仏教について学びそれを実践してみるところからはじめましょう。そのことで次第に心が「癒やされ」てくると思いますよ。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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「自利利他」

コアラ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、「自利利他」という言葉がございます。

自分の事だけでもいけないし、かといって、他の事だけでもいけない。

自分の事も他の事もバランス良く進めていくことが大切となります。

詳しくには、自利が智慧、利他が福徳(方便)として、両方の円満な成就を進めていくことで、悟りへと至れるものとなって参ります。

自分のへの癒しと共に、他への癒しもバランス良くに進めて参りましょう。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

佐藤様、
ありがとうございます。
「無我」とは、「私」が存在しないわけではないのですね。
私の所有物ではないという感じ????
うーん。。
むずかしい。

丹下様
ありがとうございます
悟りはどこかにあるのではなくイマココにあるんですね。
お釈迦さまもたくさんの苦行をされましたが、
実はそんなことしなくても、
今ここにあればいいのだと言ってたような気がします。(昔読んだからまちがってるかも!)
癒しは続かないのですね。。。
救われたいです。

鳳林寺様
ありがとうございます
癒しってまだ浅いのですね
しらなかったです
癒しとは別なのですね。一緒にしてしまってすみません。
仏教が、私を救ってくれるなら学びたいです。

川口様
ありがとうございます。
そうですね
バランスが大事ですね。
すごくしっくりします。難しい言葉教えてくれてありがとうございます。

「悟りとは」問答一覧

悟り体験と仏教との関わりについて

こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?

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悟りや天国に優しさは必要ない?

仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。 酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。 (実家は浄土真宗です) などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ