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おおらかになりたい

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有り難し有り難し 46

いままで培ってきた経験に基づいた性格は
変えられるのでしょうか。

いくらがんはったところで、既に周りの人に与えてしまった自分の印象は変えられないのではないかと…


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつでも新しく生きる性格になりましょう。

本当は性格なんてありません。
どこかに「これがわたしだ」なんて、決まりきった固定的な貴女があるわけではありません。
ただ単に、習慣的な行動パターンがあるだけです。
それを変えればイイだけです。(^<^)
ただ単に、物事への反応の仕方が、毎回同じようなマンネリ反応しているだけかもしれませんよ。
「性格を治す」というあいまいな表現ですと、具体的に何をどう変えてよいやらわからなくなると思いませんか。
「一期一会」という言葉の意味ならば、誰でも知っています。
簡単に言えば、どんな出会いも、一生に一度っきり、その時、その場、その限りということです。
これを知識として知っているだけでは役に立ちません。
この心身が、いつでも真新しい、二度とない、人生はじめて、初もの出逢いをしているということに、目の前の出逢いを通して目覚めるべきです。
もう前のあなたはいません。前の様子もどこにもありません。
いつも同じ電車に乗っているとしても、そこで同じ乗客が乗り合わせる事は二度とありません。
あなたが気にする、評価というものも同じです。
私にとって評価は、精神的な残りカスです。残りカスですから、本体でも、実質でもありません。本当に実りのある方は、評価ではなく、今から始まる実質なのです。
わたしがここで回答したものは、あなたの所に届くころには、❝情報化❞されたものです。
私自身は、ここで記した、記事とはまるで別のところで存在して、独立闊歩しています。
あなたも、あなたへの評価がどこで、どう浮かぶことがあっても、その評価とは無関係、無縁に、独立闊歩しています。現代人は、評価、情報の方があたかも主体であるかのように思い違いをしていますが、本物は、この記事を見ている、あなた自身、本体です。
本体を見失って、情報の方を主体とさせていることが以下に過ちであるかに、今ここで気づいて、どーでもいい評価に振り回されんようになることです。
【情報はアナタではない。情報を取り扱っているノーミソのある所がアナタである】了叡

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有り難し
おきもち

経験からきているのであればこれからの経験で変わるでしょう

周りに与えた印象は変えなきゃいけないのでしょうか。他人にどうこう思われて悪いことはありますか。
性格、考え方は、変えることはできると思います。そうしたことで、自然と印象は変わるのではないでしょうか。
しかし、誰かに憧れあの人のようになりたい、とあまりにも強く思うと、自分と比べ、私はなんでこうなのか。ダメな人間だと、自分を責めるようになってしまいかねません。
無理はせず、自然体が一番いいのだと思いますよ。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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変えることができます

ひろ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「性格」も含めて、私たちのこの世界におけるあらゆるモノ・コトというものは、独立自存なる実体としてはあり得ておらず、全ては「縁起」により成り立っております。

「縁起」にも幾つかの考え方がございますが、一番わかりやすいのは、「因縁果」の理であり、最近の下記の問いでも扱わせて頂いております。

問い「死ぬほど苦しい」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1030488117.html

『・・「因」とは「原因」(直接的要因)のことで、「縁」とは、「条件」(間接的要因)のことで、「果」は、「結果」のこととなります。そして、「因果応報」とは、善き因と縁が調うと、善き果がある、逆に悪い因と縁が調うと、悪い結果があるということであります。この世におけるモノ・コトというものは、突然に何もないところから生じたりするものではありません。必ず、モノ・コトには因縁があり、その結果として生成、生滅していくものとなります。また、その結果も何かの因縁となって更に結果となり、また更にその結果も何かの因縁となって・・と続いていく流れが無常というものとなります。・・』

ひろ様の性格も、何もないところから、因や縁なしにして、突然にそのようになってしまわれているわけではありません。やはりその因縁によって今のひろ様の性格に至られている次第でございます。

もちろん、それはこれからの因縁の努力次第において幾らでも変えていけることができるということでございます。

「性格は変えられるのでしょうか。」・・はい、変えることができます。

「自分の印象は変えられないのではないかと」・・大丈夫です。これも変えることができます。

変えるためには、そのための因縁を調えていくことが大切になりますが、「おおらか」ということを目指すのであれば、何事にもゆったりと、余裕を持って取り組み、焦らない、冷静な心を保ち、懐の深い、包容力、許容力を養い、温厚に、穏やかに、くよくよせず、こだわりやとらわれを少なくし、前向きに過ごせるようにと心掛けて、そのように意識的に言動を少しずつでも調えていかれると良いのではないだろうかと存じております。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「心穏やかに・優しく過ごしたい」問答一覧

悪気のない人がひたすら恐ろしい

以前、自分の落ち度でとある人にお叱りを受けたとき、いわゆる放送禁止用語(あとで調べたので確かだと思います)を使って厳しく言われたことがあります。 その言葉は、精神疾患を持っている人を揶揄するのにも使われ、実際に精神疾患を持つわたしは傷つきました。 信頼できる専門職の方にそのことを相談したところ、「もともとがあなたの落ち度といっても、傷ついた自分を認めて受け入れるのは当然のことだ」と言っていただきました。 その言葉をいただいて、70%ほどは自分の中で整理がつきましたが、どうしても本能的な恐怖心までは消えません。 お叱りを受けたとき、精神科や心療内科に通っているか聞かれましたし、「精神疾患は遺伝する」とも言われました。 怖いと思ってしまうのが、叱ってきた人が悪意ではなく「助けてあげる」という善意でこれらを発言されたことです。それなりの地位も名誉もある人で、もしその人とわたしで対立したとしたら、周囲はその人のおっしゃることを正しいとみなすでしょう。 でも、精神疾患と付き合うひとりの当事者として、どうしてもその人の発言は許せません。まったくの善意で発言されたことも恐ろしい以外の言葉が見つかりません。その人がこの世からいなくなればいいのにと願ってしまうほど、恐怖と怒りにさいなまれています。 どうすればこの恐怖と怒りに折り合いをつけ、心穏やかに日々を過ごせますか。また、どのように心をもてば、社会的に影響力のある人がこのような発言をしても、必要以上に恐怖にかられず生きていけるでしょうか。

有り難し有り難し 13
回答数回答 1

人と自分に優しくするにはどうすればいい

いつもお世話になっております。毎晩頭の中で堂々巡りになってしまっているため、ご相談させていただきました。 最近よく自分の心を虐めた影響か、果たして自分が他人に優しくできているのかわからなくなりました。 私は不注意や気遣いができないことなど、人が成長する上で当たり前に身につける対人スキルが欠けている感覚があります。今までそんな自分を卑下ばかりしてきました。 しかし恋人ができ、何だか周りの人達を大切にしたい気持ちが生まれてきました。けれど心を大切にするという事を、1番身近な自分の心にしてやらなかったからか、何がその人の心を慈しむ方法なのか分からなくなってしまいました。 愛してるからと近づきすぎてもそれは鬱陶しいと思われてしまうし、逆に相手自身の思うままに生きて欲しいと願うと、突き放した冷たい印象を持たれてしまいます。 もちろん人間の心なんてどれだけかかっても読めないし、わかっても変えようとは思いません。 ただ何度も知らぬ間に自分を傷つけ人を傷つけてきた今では、いつ自分が相手の心を粗末にしてしまうのかわからず恐怖しています。もう生きていくことすら投げ出したい気持ちです。 こんな私をどうか客観視して、ご意見をいただければ幸いです。 ご返答よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 13
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今後の心の持ち方を教えてください

これまで何かあると祖父に相談にのってもらっていましたが、今は出来ず、おじいちゃんならなんて言うかな、と想像はしても答えは出ず…誰にも相談できなくてこちらで話を聞いてもらいたいです。 会社の付き合いで飲み会に参加した夫が先月、今月と(その前にも1度)朝帰り。朝、子どもと食事してたり、出かける朝の準備をしていると帰ってくるのです。 会社での付き合いとはいえ、終電に乗れず、泊まって帰ってくるって普通の事なのでしょうか? 普段は仕事が終われば、帰ってきますが… 数回のことは目を瞑るべきですか? 私は、朝帰りは子どもにも見せるべき姿ではないと思っています。 その事を伝えると、分かったとは言いますが、結局自分がなんでこんな言われないといけないんだ、とものを投げたりします。 物を投げたりするのはやめてと、冷静に伝えました。 接待や、付き合いで行きたくなくても仕方ないのに、こんなふうに言われて…という感じで、逆ギレのような感じです。 ちなみに飲み会がダメとは言ってません。 私の伝え方が悪いのでしょうか。 こういう答えが返ってくるだろうことは、想像してましたし、想定内でした。 どうすればいいのでしょうか。 心の持ち方や、どうすればよかったか、などお声をいただけると助かります。 正直私も働いていて、疲れています。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

人は優しくなくなったのでしょうか。

最近の状況とか、ニュースだけではなくて、 人は優しくなくなってしまったのでしょうか。 学校では、 わからないことを聞いているのに「そんなこともわからないなら特別支援学級に行きな」と言う先生がいると、 学校に行きたくないと感じて登校を渋っていると「わざわざ迎えに来てあげたのに、行かないってどういうこと」という養護教諭がいると、 勉強が苦手で、それでも一生懸命調べて宿題を提出したのに「答え教えてもらってんでしょう」という担任がいると言い、 子ども達は学校どころか大人を信じてくれなくなっています。 生活支援を受けながら病院に行って、病気ではないかと不安に感じている患者に「気のせいだからなんともないけど、そんなに薬飲んでどうすんの?タダだから?」という医者。 うつ病を患い不安で一人でいられない人に「甘えてんでしょう。なんでも一人でやっていかないと」という精神科医。 勇気を振り絞って助けてほしいと相談の扉を叩いてくる人に、「そのくらい自分で何とかできないもんなの?」という相談員。 それなら誰にも頼ってはいけないんですか。と、泣いている人がいます。 他人の少しのミスや問題を晒しあげて騒ぐのは、みんな。 相手のうれしい事を共に喜べず、妬んで陰口を言うのは、みんな。 寛容になれないのは何のせいですか。 そんな私も、それらが目に付いているという事は、優しくないのでしょうか。 優しさとは、何でしょう。 「相手の立場を鑑みて、許すこと・労わる事」と感じています。 それも、みんなは考えないのでしょうか。 いちいち考える私は、何でしょうか。 時には厳しい言葉も必要な時もあるのはわかります。 しかしながら、開口一番、関係性も希薄なうちに、そんな言葉を投げかけて、 傷つかないんだろうか。とか思わないんでしょうか。 それとも、そんなに偉いんですか。 先生と呼ばれる者は、相談員・支援員は、そんなに偉いんですか。 他人を否定していいほど。 そうはなりたくないという戒めも込めて、 人は優しくなくなったのでしょうか。 どうか、お言葉をお願いします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ