過去にいじめられ、現在でも憎んでいる人たちがいます。もはや時効であり、逆恨みの域まで達していると思います。
いじめられたわけでも敵意すらなかったにしろ、それでも許せない人もいます。
そもそも因果応報とはどこからどこまでで成り立つのでしょうか?悪いことをすれば跳ね返ってくるんでしょうか?
実際に今でも何かされているわけではありません。それでも不愉快なのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そんなことは、
誰にもわかりませんよ。
いいことをしたらいい報い。
悪いことをしたら悪い報い。
これは何となくわかります。
勉強頑張って志望校に入る。
原因と結果が明らかに見えます。
どうでしょうかね?
自分の努力はもちろんですが、
まわりの方がだの協力は
必須ですよね。
私は阿弥陀さまは
もちろんのこと、
まわりの方がたから
生かされていると、
思っています。
過去は変えられません。
恨んだところで、
過去は変わりません。
あなたの未来は、
神仏の御加護を得て、
大きく飛躍することが、
できるんです。
憎んでも、
恨んでも、
相手に届いていようが
届いていまいが、
悩んで苦しむのは、
あなた自身ですよ。
鼻歌でも歌って、
これたらどう楽しく生きるか、
考えてみませんか?
ご多幸を祈ります。
四苦八苦の八苦の中の怨憎会苦(おんぞうえく)でのお悩みですね。
怨憎会苦(おんぞうえく)とは「憎くても会わなければならない。」苦しみのことです。そこから逃れたいと、因果応報という仏教語を知り、使いたいということなのですね。因果応報とは、善因善果・悪因悪果ということを言い、あくまでも仏様から見ての、善悪を問題にします。この場合相手が悪いというのは、あなたの主観ですよね。それよりも、仏さまが見ているという客観が大事なのです。お天道様が見ているという表現があるではないですか。これは天道信仰から来るもので、天道を大日如来になぞらえて、仏さまが見ているぞというプレッシャーで昔は仕事をしたものです。相手が悪いと周りが言わないというのは周りの客観は相手が悪いとは判断していないということです。それをも超越した仏様が見ていらっしゃる客観は、先にも書いた通り、善因善果・悪因悪果ですから、良い行いをしていれば、良い結果が出て、悪い行いをしていれば、悪い結果が出るということにすぎません。きわめていわば科学的なものです。いじめるのは悪いことです。その人がその行いをやめないかぎり、次の被害者が今もいるのかもしれません。ただ過去のことに関して怨憎会苦(おんぞうえく)に苦しむのは間違っています。わが宗祖法然上人は9歳のときに父親が焼き討ちに会い、「敵を恨むな。僧となって菩提を弔え。」との父の遺言で出家、お坊さんになったと言われています。それぐらい仏教では恨んではいけないというのは基本の教えなのです。ですから、因果応報の教えを間違っても恨む方向にだけは使わないでください。俗にいう因果応報は「因果応報だ。」なんて使いますが、そんな簡単なものではないのです。
今日私が今ここで頂戴しているお茶は買ったものですが、そのお店の棚に並べた人がいて会計でお支払いした人は別の人。いえいえ、そのお茶を育てて栽培してくれた人もいます。いえいえ、お茶を育てるのは天地の恵み。太陽、空気、☂、土…、色んな縁があったりなかったりで…たまたま無限無量の縁を経て私の口に入ります。だから、上手なお湯の温度と、適切な時間を経てお茶を❝淹れる❞のです。しかもそのお茶は今、あなたの口にその味はしません。私もそのお茶を口にしなければお茶の味はしません。
因果応報とは、そのことが行われれば必然的にその通りのことが行われるということ。
過去に嫌な思いをしたけれど、忘れていられる人もいるのも不思議ですね。
過去に嫌なことを経験して、そのことを思い返すときにその「思い返し方」は自由に本人に任されています。私もいじめられた経験はありますが今はケロリンです。🐸
その経験をナスといたしますとナスの調理法は無限にあるのです。悪く調理すればこげてしまう。上手に調理すればおいしい料理になる。放っておけばゴミになり、上手に用い得れば肥料になる。
よって、あなた自身が今回そのこと🍆を問題にされているのですから、その問題を上手に調理するよ・う・に…心を苦しまない方向へ導いてみましょう。
思い・記憶というものは、そのことがポンと思い出された時点においては本当は良いも悪いもありません。
そこを見極められれば、フラッシュバックもトラウマで苦しんでいる人も即時に解決できて医者いらず、薬要らずにもなれるのです。扱うから苦しくなる。変えられんからです。
禅僧が自身を見つめて修行するのは、思いという作用そのものを見つめている面もあります。
自身の内に生じる一切の思いも記憶も、それらは発生時点で「ただ」「そのように」現れてきただけです。
桃太郎のドンブラコと流れ来る桃🍑のようなものです。
拾い上げなければモモは流れ去っていきます。
拾い上げてクリックすればそのページが開かれて鬼あり戦ありサルありキジあり犬あり。
本当は、そのことは今やっているのではないでしょうか?
そこを見抜けると良いのです。
喩え嫌な経験をしたのは過去であっても、そのことを思い出しているのは、今、ここで、他でもない自分が、ただ、ポカリと、その思いが出てきただけ。そしてそれを焦がした調理をしているような面があるのです。
今のあなたの苦しみは、あなた自身が過去のあなた(前世を含む)から相続した業の報いだと考えてはどうでしょうか?
この苦しみから解脱するには、煩悩を弱める修行、善行為、功徳を積む必要があるのです。
私は、因果応報の教えは、他人を断罪するためではなく、自分の未来を明るくするために今日から精進しようと思うための教えだと考えます。
仏様は人間の小さないざこざはみてくれないのですね。
嫌な人たちが私よりも良い人生(?)を生きるかもしれないと怖くなってしまいました。
それとまた個人的に怖くなったのは、因果応報はもっとスケールの広い話だったんですね。仏様に常日頃から見張られているという想像をしてしまいました(対人恐怖症の視線恐怖から来ていると思います)。
恨んでいる感情はなかなか消せそうにないですね。
私は精神的な病ももっていまして、そいつらが原因というか……もはやなんなのかはわからなくなってしまいましたが。
>>私もいじめられた経験はありますが今はケロリンです。
>>そこを見極められれば、フラッシュバックもトラウマで苦しんでいる人も即時に解決できて医者いらず、薬要らずにもなれるのです。
既にあるように私もいじめられた経験があり、フラッシュバックやトラウマにも悩まされています。そして精神科に通院しています。
いじめによって精神的な病を患ってしまったため、過去に経験したことは現在にも影響を与えるという考えが強いのです。
悪い記憶が蘇ったとき、経験上記憶が蘇ること自体は止められないのかなあと感じています。脳が勝手に思い出すんですから。
ああその通りだなとなりました。けどなあ、が続くのが私なのです。
自分やいじめっ子でもなく前世の自分を責めるのですね。
心の調子が悪いときに死後の世界を考えるときがあって、何も残らなければいいなと。それはともかく、転生先は今の人生よりも良いところか悪いところかで思い耽っていました。
目から鱗です。死後どうなるかではなく、前世での自分に注目するとは。
どうでもいいですけれど死については人間誰しも考えるものですが、それにしては解明されていない部分が大きいですよね。不思議です。
回答ありがとうございます。
いじめのことを忘れて生きようにも、そこで躓いています。
お礼のコメントがネガティブになっていてうわぁ…となりました。
お目汚し申し訳ありません!!以後気をつけます。