最近、身近な人の死に接する機会が増えました。
友人や親戚の訃報に接し、「やがて自分も死ぬのだ」と死について意識するようになりました。
しかし、理屈では「死から免れない」「生まれたものは必ず滅する」とわかるのですが、自分は「まだまだ死にたくない」という気持ちが沸々と湧いてきます。
事故にでもあわない限り、遅かれ早かれ必ず死の間際を迎えると思います。そのとき、自分はどうしているのか想像がつきません。
宗派によっても死生観がことなると思いますが、死をどのようにして受け入れていったらよいのかご教示賜りたいと存じます。
よろしくお願い申し上げます。
合掌
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
小生の尊敬し、また目標としている、禅の布教師様「松原哲明師」は、
人生のはじまりと終わりを「ページをめくる」ものと申されました。
一見、消えたかのように見える、わたしたちは、
人生という小説の次のページを
めくっただけなのだ。
そのように表現されています。
さてそれでも、死を受容する、というのは一大事であります。
この一大事、禅の世界では究極の問題だということであります。
それだけ大変なことだと思って頂けたら幸いです。
そのために、古来の方々はそのことを受容するために、
辞世などをしたためたりして、言葉にして、受け入れて来られた
ものでありましょう。
お釈迦様は、「はたらきなさい。それが不死の道」と申されました。
故にいまもお釈迦さまは働いております。
仏像になったりお経になったり、時には
風のおと、山々の色、谷のせせらぎ、あさの露、
すべてがおしゃかさまの説法で、今も、この時間にも
語られている、現在進行形のお釈迦様のはたらく御姿であります。
それはどういうことか。
それら全てがいのちの「やすらぎ」の世界であり、
いきとしいけるいのちのやすらぎを願われ、それを務める事が、
自分のはたらきとされたのがお釈迦様という方なのであります。
死は、一種の通過点なのでありましょう。
小生はまだまだそう思えないので修行が足りてない証拠でありますが
そうしたお釈迦様のおこころに近づく、あるいは自分の中に
そのようなこころがあると信じて、日々を生きているものです。
ページをめくるがごとく、日々を務めて(読み進める事)
頂くことを、どこかこころのひきだしの中にでもお入れ頂けたら
幸いであります。
さちあれさちあれ。合掌
誰でも最初は死は怖いもんです。
怖いことの中身は、失う事、壊れる事、傷つくこと、闇、知ることが出来ない事への恐怖です。死の恐怖は「死をよく知らん」から生まれます。
アナタは昨日、眠りに就いたでしょう。その時、自分が寝た事を知ることはできなかったでしょう?今まで一度たりともそれができなかったはずです。
死も同じです。死ぬぞ死ぬぞ、と思っても実際はこの体はありがたいことに自分の意思とは無関係に生きていてくださる。
死ぬ直前まで死ぬことを考えて恐れていたって、生きている間は絶対に生きているんだから、生きている間に死の事をあれこれ考えて自分をネガティブな闇の谷に突き落とすよりは、ああ、なるほど、死とはこの命が完全に止まり、感覚も痛みも思い出もすべてを良い意味で無に帰してくれるのだな、だけども自分が死んでも、この世界だけはあり続けていって、自分がこの世界に存在して何かしてきた分、死後も影響力として生き続けるのだ、誰かの心の中で私が死んだ状態でのコミュニケーションがなされるのだ、と考えれば、なすべき事がワンサカ出てくると思います。死は受け入れると、受け入れざるとに関わらず「絶対」です。
死は、死を終局として捉えず、ただそれとして受け止めるべきものです。
死をことさらに、終局、終焉、デッド、死、不幸、悪いもの、忌避すべきものとして捉えておられませんか?
死に罪はない。
死をあなたが思う時、それに付随させてアレコレ悪しざまに思う自分の暗い思いにくらまされているのではないでしょうか?
私は禅坊主ですので、生死を明らかにし、それに惑わないようになるのが本道です。禅僧仙厓は「死にとうない」と言ったと言われていますが、達観して、笑って言ってるのですよ。(笑)「((^<^)ああ、もう終わりかい、生きられるもんなら生きたいもんじゃが、寿命は避けられぬもの仕方ない)ああ、死にとうないわい((笑))」というテンションです。
生死を明らかにすれば、大安心です。
(わかりやすく申し上げれば ポジティブ に)ああ、死にとうないわい(笑)と言って死ぬことができるんです。別に、ああ、やっとこさ楽になれる(笑)と言って死んでいけるのも人生を明らめた人の堂々とした受け入れ態度であると思います。
与えられた寿命に逆らうことなく最期まで生きて、暖かく死んでいきたいと思っています。
7676ブッダ様
理性のある人間である以上死への恐怖はふとした瞬間にいつも付きまといます。
「死の間際を迎えると思います。そのとき、自分はどうしているのか想像がつきません」
誰も想像など出来ません。想像すれば反って恐怖が増します。
これは、死への恐れというより、「死に様」への恐怖ではないでしょうか?
死から逃れる事は誰も出来ませんが、どの様に死ぬのか?という問いは私にもいつも付きまとっています。
何年か前、一人乗りの漁船が故障、漁師さんが一か月以上漂流して救助されたという話がありました。助かった漁師さんは「眠くなったら寝る、目覚めたときまだ生きている事を実感する」という話をしました。死と隣り合わせの生を実感した言葉です。
3年前の震災を思い出して下さい。津波に家族も家も街も奪われた人々は、3/11の夜、大きな余震と暗闇、いつまた来るかも知れぬ大津波の恐怖を感じながら冷たい夜を、生と死の狭間で過ごした事でしょう。3/12朝の明かりがどれ程有り難いものだったでしょう。
被災地以外の私たちでも、3/12の朝の有難み、家族が無事な事を想った事はハッキリ覚えています。
死への恐怖、死に方への恐怖はこころの奥にいつもあるでしょう。
朝目覚めたとき「無事目覚める事が出来た、今日も一日よろしくお願いします。」
夜、帰宅時や就寝前に「一日色々あったが、無事帰宅し平穏に就寝できます。」
そんな気持ち、感謝のこころで朝夕に手をあわせ、お念仏しましょう。
平穏な日常を取り戻せるはずです。
合 掌
7676ブッダさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。よろしくお願いします。
私の尊敬する師が、ある時私に「浦上くん、不老不死の方法がひとつあるんだけど、知ってるかい?」と尋ねました。
何を言い出すのかと動揺しながら「いいえ」と言うと、師僧は「それはね、生まれないことだよ」と言いました。
そしてさらに「私も君も、すでに生まれている。だから手遅れなんだ。仏教は不老不死の道ではなく、『生死出ずべき道(しょうじ いずべき みち)』なんだよ」と仰いました。
生死出ずべき道。それは、平気で生きて、平気で死んでいく道を求めることだと私は理解しています。でも、私を含め、ほとんどの人がそれを手に入れられないまま、恐れおののき、苦しみながら死を迎えるのだと思います。
死を受け入れられなくても、いいじゃないですか。
江戸時代の禅僧 仙厓和尚は今際の際に弟子たちに「辞世の句を」と請われ、「死にとうない」と応えたそうです。
あまりに格好悪い応えに弟子がもう一度問うと「ほんまに、ほんまに」と応えたとか(一休宗純という説もあります)。
死の問題について、私は「死の体験旅行」というワークショップを主催しています。
予想を超える多くの方々が興味を持ち、受けて頂いています。
よろしかったらリンク先をご覧下さい。
http://753an.blog.so-net.ne.jp/2013-01-14
http://www.tera-buddha.net/1218/
宗派により、考え方が違うのかもしれません。
人間には、この身体の終わりがあっても、命が、終わる事は無いと教わりました。
いつの日にか、この身体が終わった時に必ず再会出来る、これが、死出の別れ。
私も、最愛の人と、今生での別れをいたしました、生きる目的もなくなり心から火が消えた日々を過ごしました。
そんな時に、阿弥陀様の教えに出会いました。
今は、笑って再会出来るように日々を悔いなく生きています。
時は今、ところ足下、その事に、打ち込む命 とわの御命
7676ブッダ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
宗教全般はもちろんながら、仏教においても「死生観」の問題は誠に避けて通れないものでございます。
これまでhasunohaにおきましても「死」に関して扱わせて頂いて参りましたが、その中では下記の拙回答が少しくにも参考となるのではないかと存じております。
問い「死への恐怖がぬぐえません」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002999290.html
問い「生きる意味、死ぬのが怖い」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002966329.html
問い「生きること、死ぬこと、どっちが辛いのか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992500.html
基本的な「死」へ向けたあり方としましては、下記の拙回答を参考として頂けましたらと存じます。
問い「死ぬとどうなるのでしょうか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002844774.html
『・・死後の有り様は、「生き方次第」であり、それもできうる限りの「善い」生き方が望まれるものとなります。死後の輪廻においては、(空なる)心(相続)のありようが大きな作用を持つものであると考えられております。無明(根本的無知)・煩悩・悪業などの悪い因を抱えた状態での死後の赴きは、非常に厳しいもの(悪趣世界・・地獄・餓鬼・畜生など)になる可能性が高くなってしまうと言われております。何とか確かなる「仏縁」により、心(相続)を浄らかに保ちて、死後以降も仏道修行の歩める状態にて、悟り・涅槃へと向けて精進努力して参りたいものでございます。真なる楽(悟り・涅槃)を得たいと願うのであれば、しっかりと「善い」生き方を心掛けていく必要があるかと存じております。善い行いが積めれますように共に頑張って参りましょう。・・』
とにかく、死へ向けて、あるいは死後の安心は、心(相続)のありようと行い次第として、しっかりとより善くに調えて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
ご回答を賜り、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
お釈迦さまの御心に近づけるよう、お釈迦さまが残されたお言葉を反芻しながら日々を過ごしてまいりたいと思いました。
合掌
大熊師、ご回答ありがとうございます。
「3/11の夜、大きな余震と暗闇、いつまた来るかも知れぬ大津波の恐怖を感じながら冷たい夜を、生と死の狭間で過ごした事でしょう。」とのお言葉、心に響きました。
小生の実家も被災し、母と弟がまさに逃げ込んだマンションの階段で雪降る中、生と死の狭間を過ごしました。
父から母と弟が無事であったとの報せを受け取ったとき、2日後、行方がわからなかった姪や従弟が避難所で見つかったとの報せにとても喜びました。
一方、親戚、友人や知人を亡くしたとき、育った家を失った時の絶望感は、いまだに忘れられません。
この両極を味わったわけですが、日が経つにつれて「いまここにいのちがあるということは有り難い」と思いました。
先のことにとらわれず、いまを感謝で過ごしていくことを教えていただきました。
心から感謝申し上げます。
合掌
浦上師、ありがとうございます。
「死を受け入れなくてもいい」とのお言葉に安心しました。
むしろ、いま執着している「もの」「物」「モノ」を手放していくことが大事だと思いました。
合掌