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「寛容」とは何なのでしょうか

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私は短気な性格をしています。他人の欠点や失敗がすぐに目につき、それに対して一々苛立ちを覚えてしまいます。

また一方で他人の目を気にしており、自分が嫌味を言われるといつまでも引きずってしまいます。

嫌味は相手を不愉快にさせるというのは分かりきったことなので、自分が苛々してもそれを口に出さず、また嫌味を言われても必要以上に重く捉えないようにし、

「何をしようとその人の自由、不利益を被らない限り私が口出しすることではない、多様な考えの人がいて当たり前」

と、寛容な思考・行動ができるよう努めてきました。

しかしこれは「寛容」というよりはただ「無関心」なだけなのではないか、と思っています。周囲の「この人寛容だなあ」という人を見ていると、そもそも他者に苛立ちを覚えない、他者の全てが面白くて仕方ない、という人であるように感じます。容量が寛いから寛容なのであって、苛ついている時点で私はすでに容量が狭い。

かのマザー・テレサ曰く「愛の反対は無関心」だそうで、やはり集団生活を営むヒトという種族である以上、「他人に無関心である」というのはあまりよろしくないことではないかと思います。

正しい「寛容」とは何であり、またどのように身につければよいのでしょうか。
それとも私はこのまま「寛容」もどきの「無関心」を続けていてよいものなのでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

寛容と無関心は違いますね。

ふろみそさん、こんにちは。

10代でそこまで考えるなんて素晴らしい。
大体、相手の行動でイライラすのは、自分の写し鏡だといいます。自分の行動がコントロールできない姿を相手から見せられるのです。

お釈迦様のいう寛容とは、無関心ではなく超関心です(笑)。縁があった相手の取った行動を自分がどう受け止めて、自分の悟りの考えに導いていくかの自分の心との戦いなのです。
仏教では、触れ合う縁がすべて悟りだといいます。だから良いことの出会いだけでなく、自分が嫌いな人との出会いもすべて仏さまからの悟るためのお計らい。観音経では、すべて出会う人が観音様だと説かれます。
自分が人とであって嫌な気持ちになったら、その人から嫌な気持ちになる心があるぞと教えて下さったと仏教では説くのです。だから、何で嫌な気持ちになったかを分析することができます。「あー、あの人が嫌なのは、自分にあの人と同じ人を不快にする気持ちがあるんだ。これは直さないと」と心を見つめることができるのです。

是非、人と触れ合って、自分の心に怒りが出たら、なぜ怒るのかを自分で分析してみてください。すると自分を第三者の立場で見つめることができる力が身につきますよ。自分が見つめることができれば、自分を自分の意志でコントロールができるようになります。それがお釈迦さまのいう幸せの道への第一歩なのです。

がんばって!合掌

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寛容

人間それぞれの自分ルールの押しつけの無いことではないでしょうか。
自分のルールが正しいと思っているからそれに反する人が反発を起こす。
出る杭は打たれる。それはある種、集団催眠で「イイ子ちゃん」で無い人が標的にされる。
それも、誰かの押しつけなのでしょう。
ところが彼らは自分が正しいとか言っているわりに苦しんでいる。自分のルールで自縛こいている訳ですわい。それは、本当の意味で正しいとは言えない。
だから、不寛容は自分で自分を縛るだけ。自分で自爆するだけ。
寛容とは、私のない心。
赦しの心、個人の尊厳を尊重するこころ。
本来の出家の精神。
人間を縛る人間ルールからの解放によって得られた自由な心からの対応。
神対応ならぬ、ホトケ対応。

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みーんなおんなじ命ですよ

相手と自分とを別の存在として線引きしていることが問題ですね。自他の境があるような気がするのですよね。だから、自分以外の存在を敵のように思って、自分の希望どうりにしたいと我が出て来てしまうのですよね。

他人は敵ではありません。他も己です。全部同じ命です。包み込むような優しさがあればお互い、幸せに接することができます。攻撃的な気持ちからは争いしか生まれませんもんね^ ^

人種も性別も好きも嫌いもない、みんなおんなじ命なんです。だから自分かのように自然と優しくしちゃうんです。赤ちゃんが膝の上に乗って来たら、みんな優しくしちゃうでしょ。自分が食べているお菓子を赤ちゃんが食べてもおこらないでしょ。笑顔になっちゃうものです。そんな風に命とは境がないものなんです。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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慈悲

ふろみそ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教には、寛容にも繋がる「慈悲」というものを大切と致します。

例外なく、全てのものたち(一切衆生)への慈しみの心と憐れみの心を持つというものとなります。

全てのものたちが対象ですから、無関心からも離れることもできます。

拙生も、慈悲の心を滋養するために、「四無量心」というものを毎日のお勤めの中にて修しております。

四無量心

一切衆生が楽と楽因を持たんことを

一切衆生が苦と苦因から離れんことを。

一切衆生が苦のなき楽と離れざらんことを。

一切衆生が親疎、貪瞋の二者から離れ、平等に住さんことを。

・・

更に分かりやすくには、慈悲の瞑想も参考になるかと存じます。

「慈悲の瞑想」参照・・

「慈悲の冥想 Metta Bhavana」
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html

「慈経 Metta Suttam/※注意・パーリ語読み自動再生あり」
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「他人・友人関係」問答一覧

疎遠した友人と自分の犬について

私はパートで働いています。 3年くらい前に人間関係が上手くいかなかったことを理由に十数年くらい付き合っていた友人と疎遠しました。 その友人の心は非常に狭く何年か前に無職で自分もどうにか助けてあげようとしましたがその人から何度か辛辣な言葉も浴びせられたのでもう無理でした。 今、もしその人と話したとしても返ってお互いが精神的に傷ついてしまうこともありラインなどといった連絡も一切していません。疎遠後に2度くらいラインの連絡が友人から来ましたがまたしてもどう頑張って話しても辛辣な言葉を浴びせられぐだぐだのまま話が終わりました。 友人の愛犬は3年前に亡くなりました(これは疎遠後の時の出来事です。)。十数年生きたそうで友人は深く悲しんでいました。 私も小学生の頃からその犬を何度か見たことがあります。 今年から私も母が犬を飼いたがっていたのでポメチワのミックス犬と暮らし始めました。 私の犬は最近散歩が出来るようになり友人が暮らしている家と私の家は歩いて10分くらいで近所なのでその友人に私が犬と一緒に暮らしていることがバレないか非常に怖くて心配です。 嫉妬されそうだと思いました。 なので母が犬を飼いたがっているのが分かった時から私はかなり複雑な思いをしました。 ですが母が家族の犬を来るのを期待してるのを見て私はとても反対出来ませんでした。 それで犬を飼い始めることになりました。 また、今年の2月に7歳の文鳥を亡くしました。今も時々涙を浮かべます。 なのできっと友人が愛犬を亡くした時と同じ気持ちになっていると思います。 友人が疎遠後に新しいペットと暮らし始めたのかどうかもわからず文鳥を亡くしたとはいえもし犬と暮らしていることがバレたら友人がどう思うか不安で仕方ありません。

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人と会話をした後辛くなります。

こんにちは。 自分は人と話した後、いつも辛い気持ちになります。 人のことは好きですし、会話自体も好きです。 初対面であったり、滅多に合わない人であれば普通に会話ができます。 しかし、例えば会社の同僚など「親友ではないけど知らない中でもない」人相手だと途端に話せなくなります。 話しかけても気持ち悪いと思われるのではないかと考えたり。 仮に話せたとしても、自分の発言に後悔したり。 会話が終わった後も、「あいつはだめなヤツだと思われたのではないか。」と考えてしまったり。 勿論それらが妄想であることも理解しています。 実際にそんなことを思う人たちでない事も理解しています。 しかし、いざ会話をしようとすると、そういう思考で頭がいっぱいになってしまうんです。 そして最後には、「これは嫌われても仕方ないよな」という行動をしてしまいます。 例えば、 話を振られたとしても苦笑いしかできなかったり。 (本当は沢山話したいのですが緊張してしまいそれしかできない) 「お疲れ様です」の様な挨拶も、聞こえるかわからないい声量になってしまったり。よって無愛想なイメージを持たれたり。 そしてそんな事をしてしまっている事にまた嫌悪感を覚え、やがて誰とも話さなくなります。 自分は人のことが好きです。 できることなら接した相手には気持ちよくなって欲しいと思います。 しかし色々考えすぎてしまいイメージ通りに動けず、逆に相手に不快な気持ちを与えてしまいます。 そしてそれを自覚し、物凄く辛い気持ちになります。 こういう気持ちになるなら。またこういう気持ちにさせるなら、人と接しない方がマシだと考え、孤独になろうとします。 (在宅ワークが認められているので家に引きこもってしまったり。会社の懇親会があっても仕事だと言って途中で抜けてしまったり) けど人と接することは好きなので、また更に辛い気持ちになるループです。 お坊さんの皆様方は様々な方とお話をする機会があるかと思います。 人と話した後、何故こんなことをしたのだろうと、後悔したことはありますか。 またそれにより、人と接する事が怖くなった事はありますか。 もしあればどのように乗り越えたか、教えていただけませんか。 仏教的な考え方を提示いただく形でもありがたいです。 わかりづらい文章で申し訳ございません。 よろしくお願いします。

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わたしを馬鹿にする友人との付き合い

お世話になっております。今回はとある友人(以下A)との関係についてご相談させてください。 Aとは2~3年前に共通の趣味を通じてSNSをきっかけに仲良くなったネット友達です。Aとは何かと気が合い、休みのたびに出かけたり自宅に招いたりと懇意にしていました。 しかし、先日Aと外出した際、買い物やコートなどでわたしの荷物が非常に多くなってしまったときにAがなんの声かけもなしにわたしの荷物を半ば奪うようにしました。その際、Aの不注意でわたしが仕事等で使用する高価なノートパソコンを落とされました。幸いにも傷や不具合はなかったのですが、なんの声かけもなしにパソコンケースを奪われ、かつそのパソコンを購入するのにどれだけ苦労していたかもAは知っていたのに落とされ、非常に腹がたち、以来、Aとは連絡をとっていません。 思い返すと、Aはふざけているつもりなのかわたしを小馬鹿にするようなことばかりを言っていた気がします。わたしが4年かけて構想と執筆を行った修士論文を「ただのおまえの性癖じゃん」と笑ったり、わたしが努力して何かをすると必ずからかってくるようなひとだったと思います。わたし自身のトラウマに向き合って、メンクリに通いつつ、毎日泣きながら頑張って頑張って書いたものをただの性癖じゃんって……思い返して悔しくて悲しくて涙が溢れてきます。 数日後、所用がありAと会うことになっているのですが正直気がのらないですし、その後Aの扱いをどうすべきか悩んでいます。Aといて楽しいことばかりだったのもあります。不快な思いをさせられたのはたった数回ですが、そのたった数回で縁切りを考えたくなるぐらいにはAとの付き合いはトラウマになりつつあります。 縁切りをする以外に何かいいお考えはないでしょうか…?

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