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生きながらえている意味が見出せません

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生きながらえている、とは書きましたが大病をしたわけではありません。
ただ、この死因にあふれた世の中で運よく日々を生きてこれてしまったわけですが、いつまでものらりくらりと生きていていいものか疑問に思います。

なぜこのように考えるようになったか順を追いますと、私は昔から他人の期待に添うように行動してきました。
親や学校の先生、友達、赤の他人…
そうしているうちに、突然、「私ってなんだ?」という疑問が降ってきたのです

「いい子だね」という言葉に惑わされ、へらへら笑っているうちに本来の自分をどこかにおいてきたのではないか?

そのことに気づいてからはちょいちょい心の健康を損ないました。
いくら疑問を抱いても、長年しみついてしまった「いい子であること」はそうそうやめられません。

何度か死にたいと思うこともありました、そのたびに「実際そんなに死にたくないな」と思って先延ばしにしていました。

直近のことです、就活が始まる年なので、インターンシップなどを調べていた時のことでした。

「働いてまで、お金を得てまでしたいことってなくないか?」

ということに気が付いてしまったのです。
これまで、つらいことがあったら「あと○年頑張れば自分でお金が稼げる」と思って心の支えにしてきたのですが、よくよく考えてしたいことって?

そもそも今も研究室に朝から晩まで拘束されてほかのことなんてろくにできず
いつキレるかもわからない教授たちにおびえ、六に教えてもらえないまま実験をし…

書いていておなかが痛くなってきたので尻切れとんぼになりますが、私はどのように考え方を改めたら、どのように日々を受け止めるようにしたらいいのでしょうか。

まとまらない長い文章をすみません、よろしくおねがいします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

考えるだけでは分からない

人間が考える事というのはそういうものです。考えている事というのは事実ではないのです。
想定・想像・観念・可能性・不可能性…言わば妄想です。

ためにしによくよく考えてみましょうか。

・私は本当にこの人が好きなのか?
・美味しいとおもったこれは本当に美味しいのか?
・本当に本当に何もしたくないのか?本当なのか?

どれも何一つ明確な答え、これで間違いないというものは考えることでは導きだされないと思います。

しかし、それを実践し、継続し、あるいは一度手放し再び取り組み…など思考を超えて事実・体験・経験として触れていく中でその妄想は破られていきます。

やっぱりそうだった!
いやそうじゃなかった!

という様に。

私だって「僧侶を本当にしたいの?それがあなたの本当にしたいことなの?」と考えるとわからなくなります。しかしやっていると、「やっぱりこれだな」「していてよかったな」と感じ確かめることができます。

あなたはまだあなたの人生や選択に主体性を見いだせていないのでしょう。考える事ばかり先行して、事実としての経験が追いついていないのでしょう。

もちろん経験を先にできない以上は、私たちは思考の段階で何らかの選択をしなければいけない事は多々あります。
わからないままでも決めなければいけないのです。しかし決めたらもう全く取り返しがつかないわけではありません。やり直すことも、見直すこともできることはあります。

「働いてまで、お金を得てまでしたいことってなくないか?」

は、働いてお金を得てみて初めて実感できるかもしれませんし、働いてみて、やっぱりこの仕事じゃなかったということもあるかもしれませんし、どうも働くこと自体がしたくないみたいだから何とかなるべく働かなくて済むことを考えよう、ということもあるかもしれません。

しかしそれはどれもまだ想像に過ぎません。

「私ってなんだ?」

については固定的、実体的な不変の「私」というものはありません。誰か、何かとの関係において私は成り立ちます。
頂いた縁、選択する縁の中で、私が満たされる、意味を見出せる…そういう方向性に向かって実際に歩みを進めてみましょう。
もちろん時には「何もしてみないということをする」時間があってもいいでしょう。

どうか考えの上だけでのものを答えとなさりませんように。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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真の満足

この世には姿かたちこそは見えませんが鬼神という働きがあります。
禅門でもお昼にはサバ(生飯)といってコメを七粒くらい自分の食べるものから施し、外に撒きます。
それは恵まれない存在や自然界の菌やウイルスたちへの施しという意味でもあります。
様々意味がありますが、深ーいところの意味の一つに…
㊙「自分の心の中の満足を知らない鬼(精神作用)たちへの供養」でもあります。
n…なんか、ピンとくるようなことがありませんでしたか。❝来❞たら、それが答えへのヒントです。
自分の本当の満たされは嘘の中にはないのですよ。
本当の満足はガッチリ、ガッツリ、スイ―ティーで、ガツンと来る一撃必殺の間違いない「そうよ!これよ!これ!このテイスト!この感じ!」っちゅーくらいのアツいものです。
それは、自分の本心のみぞ知るものです。
あなたはまだそれに出会っていないというだけ。
だから、そのためにもあなたの心の中の鬼神衆や餓鬼心を本当に満足させなければいけません。自己の鬼神たちの自覚を持つべきです。
心のおなかがすけば、不満足や、もっともっと、さびれた感、生きていたくない感すら出てきます。
心を満たすその為には「真実」を食材としてみていく生き方をすることです。
文字通り「ウソは口にしない」ころ。
ウソのある生き方を服用する。
ウソのある生き方を言動する。
(そういきかたをしないの意)
人間が食べ物に何かを求めるのは代用品ではないかと私は考えております。
私は日本の宗教業界にはとても不満足です。
もっとお坊さんたちが「私が惚れるくらい」の活動をしてもらいたいです。
それが出てこんけんですからい私も不満足の鬼が出てきます。
時代は救世主やリーダー、指導者を求めています。
ところが❝違う❞こすからいスネ夫みたいな人間ばかりがそういうポストに就いてしまう。
だから世の中良くならんのでしょう。
本当の生き方をしてみましょう。お寺の坐禅会などで自分に向き合ってみてはいかがでしょうか。
人間を真実に満足させるものは「真実」です。
お釈迦様の教え、悟った人の教えは真実そのもの。
ウソ偽りが無いから満たされる。
そういう師匠を探してみてはいかがでしょうか。

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おきもち

外から自分を眺めることも

あいにょん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生きる意味、理由、価値というものは、「これだ」と言えるものはありませんが、因縁(原因と条件)次第としてあり得てくるものとなります。

全ては因縁次第。

因縁次第で良くもなり、悪くにもなります。

とにかく、せまーい世界にいると視野狭窄となり、小さな世界が全てとなって、偏った考え方となってしまうことも多々ございます。

ひろーい世界へ出ることにより、もっと色々な考え方、見方を調えてゆくことも人生を充実したものとするには大切なこととなります。

海外旅行など、ワンクッションおいて、たまには外から自分を眺めることも必要だと思います。

例えば、拙生の周りにて、青年海外協力隊から帰ってきた青年たちは誠に逞しく成長されて活躍されています。青年海外協力隊までは無理でも、何か外から自分を眺めることを是非に。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

回答してくださったみなさま

お礼が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
質問をした日、私はかなり切羽詰まっていて、各所に助けを求めるようもがいていました。そんな各所のうちの一つがここでした。回答してくださった通知も確認はしたのですが、文字が文字として認識できず、きちんと読めるようになってからお礼をしよう、と思っているうちに1か月も過ぎてしまいました。時間を割いていただいたのに遅くなってしまって申し訳ありません。
研究室での拘束時間が長かったことが一つの大きな障害であったことは確かで、幾度となく体調を崩し、最終的に「しばらくゆっくり過ごしてください」と言われ、そわそわしながらも研究室でお休みをいただき、何もしない日というのを設けました。
結局落ち着かなくて、研究室には来てしまいますが、休日はおびえることなくしっかり休むようにしたところ、不眠傾向はあまり改善しないまでも、焦燥感や嫌だなあ、行きたくないなあという気持ちはだいぶ薄れ、前向きに過ごせるようになりました。
以下にみなさまへの個別のお礼を書き連ねさせていただきます。

吉武文法 さま
「考える」ということは、一歩間違えれば底なし沼に潜っていくようなものですね。
私自身、何事も経験ありきであるという考えがあります。しかしその経験をするまでの期間がつらい、そういった気持ちが強すぎた結果今回のようなSOSを発信したのだと思います。

>”実体的な不変の「私」というものはありません”
これが、真理のように感じます。かつて万物は流転するなどと言われましたが「私」というものもそのうちの一つで、流転とはまた異なるかもしれませんがふわふわと形を変えていくもののように感じます。
心温まる優しいお言葉をありがとうございました。

丹下覚元(たんげかくげん) さま
>「自分の心の中の満足を知らない鬼(精神作用)たちへの供養」
ソクラテスは「満足な豚であるより不満足な人間であれ」、と言っていました。
哲学への興味が強かった私は深く納得し、「満足してしまったらそこで終わりだ」と自分なりに考えていました。きっとこの不満足であろうとする精神に逆に囚われてしまったのかもしれません。
それこそ、鬼に心の大部分を占拠されてしまったのかも…

嘘を口にしない、非常に大切な心がけだと思います。幸い、自分のポリシーとして「嘘はつかない」というものがあります。だからといって本当のことを言うわけでもないのですが…。
もう少し自分の心に素直に、正直に向き合ってみようと思います。
鬼神の話も含め、興味深くアツいお言葉をありがとうございました。

川口英俊さま
因縁という言葉がすとんと腑に落ちました。
縁ではなく因縁、これだけでも気持ちが軽くなる気がします。(言葉のイメージ的に円は無条件でいいもの、感謝すべきもののような気がしますので…この二つの単語にまつわる意味は異なるかとは思いますが、無知ゆえ、目をつむっていただけると幸いです。)

>…せまーい世界にいると視野狭窄となり、…
これもまた真理かなと思います。
保育園、小学校、中学校と上がっただけでも視界の広がりを強く感じましたし、大学になった時にはもっと広がりを感じました。
しかし、いくつかの枷があったことで遮断されてしまった部分もあるように感じます。私の場合は「休む」という選択が知らず知らずのうちに見えなくなっていました。
少しでも長く休暇がとれるようでしたら、週末だけでも、国内でも、どこかへ旅に出てみようかと思います。
改めて気づきを得られる、はっとさせられるお言葉をありがとうございました。

「生きる意味」問答一覧

私は何のために生きているのでしょうか

お坊さん、こんばんは。 心が千切れて粉々になって、誰にも頼れずしんどくなった今、ふとここの存在を数年ぶりに思い出して投稿してみました。 下手くそな文章でしたら申し訳ないです。 私は二十代の社会人の女です。 以前から仕事をしていて、同じようなミスが減らなかったり、そもそも間違いを見つけることが出来なかったり、そういった事で「やる気がない」「何度教えてもだめだ」と指摘を受けることが多くありました。 周りの人間に見放され、どんどん居心地が悪くなってうつ状態に陥り、病院に行ったところ、診断結果は「発達障害」と、周りからの圧力や叱責による「うつ病」でした。 今まで自分が何故上手く仕事が出来なかったのか、それは全て発達障害のせいだと指摘され、涙が止まらなくなりました。 私にはきょうだいがいますが、障害を持っているのは私だけです。親も親戚も、誰も障害を持っていません。 それなのに、私だけが障害を持っていて、そのせいで周りからの評価に苦しめられ、結果うつ病にまでなってしまいました。 なぜ、私だけがこんなに苦しい思いをしないといけないのでしょうか。周りを見れば、「普通の人間」で「普通に仕事が出来る」人ばかりで、なぜ私はそちら側の人間にならなかったのかと、日々悔やんでも悔やみきれません。 父や母は「発達障害に産んだつもりなどない」と私の病気を否定し、誰も私の辛さと向き合ってくれません。きょうだいも、私が病気や障害のことを打ち明けた途端距離を置くようになりました。 私は発達障害者になりたくてなった訳ではありません。うつ病にだって、なりたくてなった訳じゃない。 周りは理解してくれないし、薬も合わなくて廃人のようになる日も少なくなく、休んだ後に職場に行けば周りからの目は白い。 こんな状態で生きていけません。 私は何のために生まれたのでしょうか。 今まで何が楽しくて、何に生きがいを感じていたのか、もう分からなくなってしまいました。 今は奨学金を返さないと死ねないと思って何とか死なずにいますが、昨日もやっぱり辛くて首を吊ろうとしてしまいました。 こんな質問してごめんなさい。 でも、もう私も何をどうして生きれば良いのか分からなくなってしまいました。

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何かを機に、自分をたまに見失います

こんばんは。 いつもお世話になっております。 高校3年生の頃から考えることはありましたが、最近になって再び、生きる意味を考えることが増えました。昨年に新しい環境、新しい暮らしが始まり、有難いことに友達もできました。最初は、友達ができたことに嬉しく、心の拠り所になっていました。ですが、時間が経つにつれ、価値観の違いがあったり、相手の良くない態度で、自分で自分を苦しめることが増えました。なんでそう思えるのか、私が何か気に触ることをしたのかな、と些細なことを無駄に考える時間を費やし、疲れ果てました。ですが、いざその子がいなくなると、寂しい部分もあって、今思えば、依存していたのかもしれません。4月からまた再び、新しい年が始まりましたが、彼女と話すことが一段と減りました。前回と同様、依存だと分かっていても寂しさがあります。他の友達といると少し羨ましがったり...でも、頭のどこかでは、もしかしたら、離れる縁なのかもしれない、離れていっても追いかけることないんじゃないか、無理にまた自分が楽しい時間と辛い時間のギャップを受けて、自分を苦しめるのではなく、自然に身を任せてもいいんじゃないかって考えがあります。 いい縁は例え別れてもいつか再開して戻ってくるはずって思ってしまいます。今繋がっている縁を大事にしながら、自分から離れていった縁は追いかけずそのままに。 また、もうひとつ考えることがあって、心の底から幸せだと思える瞬間を、一生を共にする相手と迎えたいなとより思うようになりました。胸が苦しいときは尚更、私には、辛い時、嬉しい時を共有できる伴侶が出来るのか、と思うようになり、以前より鮮明に伴侶は誰か分からないけれど、その伴侶といるときの自分の姿が浮かんでくるようにもなりました。この浮かんだ姿は、将来の本当の姿なのかなと思ってしまいます。 何を機にこれらの考えになったのかが、分かりませんが、私、ちゃんと生きられているのでしょうか。この今の自分が、自分ではないみたいで、たまに分からなくなります。本当の幸せ、掴むことができるのでしょうか。今でも幸せは感じています。でも、これは自分にとって、本当に幸せなのかなって思うことがあります。ご回答をいただけたら、嬉しいです。

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昔の教え子と相撲をとり思わぬ結果に戸惑い

以前下記の質問をした者です。 https://hasunoha.jp/questions/66841 ご回答どおり教え子と相撲をとりました(スポーツ施設内の正規の土俵です)。 私は47歳、170cm、102kgの巨漢。彼は20歳、168cm、53kgの細身。 結果は10勝5敗で...彼の勝ち越しでした。 こんな結果になった原因ですが、私の体力が衰え過ぎでした。 日頃の運動不足に過度の喫煙が加わり、すぐに息切れしてしまいました。 そして脚の筋力はないのに体重だけはあるので自分の巨体を支えきれず、常に膝が伸びて棒立ちでした。 足腰が不安定な状態で彼に懐に潜り込まれ、私はまわしがとれないまま彼に双差しを許し、巨漢の私が細身の彼に真正面から寄り切られてしまう、という内容が大半でした。 最後の取組もこの負け方でしたが、土俵際に追い込まれた際あまりの苦しさに「まわしが、とれない」と声に出してしまう程でした。 私は、年齢差もあるので彼に負けるかもしれないとは思っていましたが、まさか幾度も真正面から寄り切られるとは予想していませんでした。 尤も、事前にまわしを締める際、私は羞恥心もあり下に短パンを履きましたが、彼は「男と男の勝負なので正々堂々と戦いたい」と、お尻を出してきました。この時点で、私は彼に気持ちの上で負けていたのかもしれません。 対決が終わった後、負けた私は寧ろ清々しい気持ちでした。 小学校時代は本当に華奢で身長も体重もクラスの男子で最低だった彼が、 私の巨体に物怖じせず相撲で真っ向勝負を挑んでくるほど強く育ってくれたこと、 女子にもよく泣かされる弱虫だった彼が、恥ずかしがらずにお尻を出してまわしを締めるほど精神的にもたくましくなってくれたことが、教師として嬉しくて仕方ありませんでした。 その反面、勝ったはずの彼の方が、どこか物悲しげで寂しそうな表情をしていました。 「勝てると思ってなかった」と幾度か言っていたので、私を本物の力士のように強いと思っていたのでしょう。 現実の私は、彼の思い描いていた姿ではありませんでした。10年の歳月はやはり残酷ですね。 彼に、電話か手紙で励ましの言葉を贈ろうと思います。敗者が勝者を励ますというのも変な話ですが、相撲の勝敗と勝負後の気持ちが逆だったので、私が励ます側だと思っています。何と言ってあげれば良いでしょうか。

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ADHDの私は社会でやっていけるのか

私は3年ほど前から心身の不調により心療内科に通っています。主な症状は鬱や過眠で、大学の授業にもあまり出席できず、通院状況を大学側に伝え、学生支援室から配慮を受けながら通学しています。はじめは睡眠障害と診断されていたのですが、昨年主治医からADHDと診断され、過眠によって朝に起きられないのもその特性によるものではないかと伝えられました。確かに私はADHDの特性としてあげられる不注意が多く、スケジュール管理や部屋の片付けが苦手で生活が乱れることが多いです。ただ、勉強はむしろ得意な方なので大学で実家を離れて一人暮らしを始めるまでその症状が可視化されなかったのかもしれません。 診断を受けてから今までの生活を見直し、同じ症状に悩む方々のライフハックを参考にしたり、自分なりに苦手なタスクを自動化する方法を考えたり工夫はしていますが、今年で大学4年生になるため、大学の学生支援室の方からも厳しいコメントを頂くようになりました。 周りの子達が就活を進める中で、あなたは社会でどうやっていくのか。朝起きられない、スケジュール管理ができないといったことは社会では通用しないが、卒業後あなたはどうするつもりなのか。といったコメントを度々貰うようになり、分かっていてもそういった言葉を聞く度に生きているのが嫌になってしまいます。社会から見れば自分が甘えた人間であることは言われなくても分かっています。社会に出たらどうするのと聞かれても、これが私の精一杯でどうすることもできないというのが答えです。 私は今大学院への進学を考えていますが、進学してもいずれ社会に出る日は来ます。その日が来るのが怖くて自分で選んだ院への進学という道さえ就職から逃げた結果のように思えてきます。大学もまともに通えない人間が社会でやっていけるのでしょうか。社会でやっていけない人間が生きる意味はあるんでしょうか。

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生きてる意味

いつもご回答ありがとうございます。今回も相談失礼致します。 今私が思っている事吐き出させてください 毎日毎日生きている心地がしません 昨日も今までの事やこれからの事を考えてしまい不安で頭がいっぱいになりました 小学校に転校したての時にいじめに遭い、多分その時点で私の心は死んでいたと思います。いじめって言ってもみんなが思ってるようないじめではありません。暴言を吐かれたりハブられたり無視されたり都合のいいように利用されたりそんなものです。 小学生のころの私は弱かったしいいなりになるしかありませんでした いじめてきた子に認められたかったし仲良くなりたかった、そしたら無視されることもなくなると思ったしみんなと同じように接してくれると思いました。今思えば本当に惨めです。 何年か経ち小学校3年生くらいの時新しいお友達が3人できました 親友と呼べるほどに仲良くなってお泊まり会やお出かけもしました ですが一人の子が○○ちゃんが一番好き、一番仲いい子、幼馴染だから、その発言を聞く度に私は、転校生なので幼馴染がいるわけもなくとても羨ましくて、なんだか利用されているだけなのかもと思っていました 当たり前に喧嘩はありました、大好きで仲良かった子にも散々暴言を吐かれ愚痴を言われ無視され、私も悪い部分があったとはいえ本当に辛かったです その他にも兄が同級生に絡まれ、たぶんあれはいじめられていたんだと思います。 それを見てどうしても腹が立ってしまいその中に割り込んで口出ししました いじめてる側の人達にはもちろんいじられ、兄は助けてくれると思ったのですがまさかの相手側についていました。 でも分かります、嫌われるのが怖いしまた虐められるのが怖い、私も同じなので分かります。ですが兄にまで裏切られた私には絶望と悲しみしかありませんでした それからも男子に体型をからかわれたり冗談で暴力をふるわれたり、私は元々肌が弱く虫に刺されやすくて、それに加え治りにくかったので肌が汚いです。なので水泳授業など苦痛でしかなかったしそれが原因でいじめられるのも怖かったです。 結局不登校になってしまった今でもこのトラウマは思い出してしまうし、フリースクールでも空気のような自分、みんなは可愛くて友達もいて輝いてる、誰でもいいから私を見つけてほしい認めて欲しい人が怖い、もう死んでしまいたい

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今の幸せを感じるには

大学卒業後、就職した職場でなかなか環境に慣れることができず適応障害になって退職し、そこからフルで働くことができなくなりました。 今は平日パートタイムで働いていて、なんとか4.5年続いていますが、人間関係や労働環境は最悪です。 給料が低いことと、この先また適応障害になって寝込んで動けない状態になるかもしれないという恐れから、今だに実家暮らしです。 また大学時代からずっと付き合っていた人と1.2年前に別れ、結婚や子供も諦めました。 この歳になっていまだに自立できていないこと、仕事のキャリアを積んでいけないこと、親に孫の顔を見せられないことなど現実に向き合えない自分が嫌です。何のために生きているか分からず、無意識に死にたいという言葉が口から出るようになりました。 自分も両親も健康で、大きな病気や怪我もなく、借金や人間関係など大変な問題を抱えてるわけでもありません。 明日食べるものに困るような状態でもなく、とても恵まれた状態であるにも関わらず、ずっと「もう人生を終えたい」と考えています。 死にたいというよりは、今ある面倒なことから逃げたいというのが本音かもしれません。 安心して過ごせる家があるというだけでとても幸せなことなのに、なかなかそれを実感することができません。 どうしたら今すでに身の回りに存在している幸せに気づいて、死にたいと考えてしまうことを減らしていけますでしょうか。

有り難し有り難し 9
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