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「悟り」と「死」の違いを教えてください

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ブッダの言うように、
私たちの命は因果の一部を勝手に切り取ったものでしかないとしたら、確かに死の恐怖はなくなります。
ただ、それは同時に、生きることと死ぬことの境界線をなくすことになる気がします。
道元の言う「空」も私たちが「波」ではなく「海」そのものだと気づくことなのだとしたら、それは「全体に溶け込む」ことである「死」と何が違うのでしょうか?

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

如衆水入海一味

「波」は「波」である時に「海に戻りたい!」「海に戻らなければならない!」と頑張るでしょうか。既にして「全体」である「海」そのものなのに。

「波」は「海」でありながらもその時その時の「波」であることを全うしています。

ミズノさんもミズノさんという「波」ではありますが、既にして「全体」である「海」に溶け込んでいる存在でしょう。

「死」によってはじめて「全体」に溶け込むのではありません。

「悟り」とは私たちが「波」ではなく「海」そのものだと「自覚」することと表現できるかもしれません。

「死」=「悟り」、つまり「死ねばみんな悟る」と考えるのはちょっと乱暴であって、「悟り」とは状態ではなく「自覚」の問題ではないでしょうか。仏教は自覚教―目覚めの宗教です。

「波」は既に海であることを「自覚」するのであれば「波」であることをまるで遊ぶがごとく全うします。

「波」とか「海」と分けてとらえるのは煩悩の所為です。でも煩悩のおかげ様で今この私という「波」を遊ばせていただいております。

死ぬのは恐いです。でも死んでいけます。死んでいかねばなりません。

煩悩の身ゆえに死ぬのが恐いと自覚させてくれる「海」の教えがただただ有難いのです。

親鸞聖人『正信偈』より

【原文】
遊煩悩林現神通
入生死園示応化

【読み方】
煩悩(ぼんのう)の林に遊びて神通(じんづう)を現(げん)じ、
生死(しょうじ)の園(その)に入りて応化(おうげ)を示す、といえり。

【原文】
凡聖逆謗斉回入
如衆水入海一味

【読み方】
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、
衆水(しゅうすい)、海に入りて一味なるがごとし。

どんな「波」も等しく海に還ります。だって既にして「海」なのですから。もう全体なのに全体に溶け込もうと頑張らなくてもいいでしょう。

南無阿弥陀仏

合掌

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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この世は本来ウナギの白焼きのようなもの

今、目の前の世界に損得や増えた滅したという人間のアタマの「思い方」がないはずです。
ものを見ている時に頭の中に生とか死ということがないでしょう。
私の横ではテレビ「花カッパ」が放映されていますが、どんどん画面が変わって花すら認知されません。
まな板の上でジャガイモやゴボウでも刻んでいる時に残酷だとか殺生だとかいう人はいません。
お刺身やお肉を口にするときに殺生とかあるでしょうか。
考え起こしてラベルを張ればそれが「そのように思われる」作用が生まれます。
今のひと呼吸に年を取ったなぁという「老」があるでしょうか。
全ては一念のなせるワザです。
人間は脳ミソに「超高速自己のあり方評価・分析・判断・認知・分別作用」があります。
それがものの様子に対して「生」「死」というラベルを張ります。
それが一念の掴みです。
もちろん、お子さんが生まれたとか、親御さんが亡くなったということはありましょう。
我々禅の僧侶は引導の際に人をして生死涅槃・迷悟・苦楽・増減を❝絶した❞心を示します。
実相は無相なり。
事実にあ人間の思考が着州される前の様子があります。
ウチの坐禅会ではこれを「はじめに言葉ありきではなくはじめに事実ありき」になりなさいと指導します。
人間の左脳はものごとを分析・分別・評価など言語的見地から実相を捉えます。
ホントの実相のあり様にはウナギにたれを塗りたくっていない白焼きのように、思考のたれを何も塗っていない様があります。
そこをこのような言葉だけで理解するのは、ただの理解で役立たずです。坐禅・禅定して思考の作用、能動意識を滅却して「ただの無色透明の清浄なる事実」を悟ることが悟りというものです。
これを法相、法の相を悟る、法の相を明らめるとも言います。
法の相が明らかになりますと、人間の考え(見解)でものごとを観なくなります。
その時の自己の様子には、モノの現われがただそうあるだけで拾い上げも、追い求めも生じませんから「不生不滅」「生死苦楽」がないのです。
そういう心に本当に導けるのが「導師」というものです。最近じゃインチキ坊主がコスプレでゴニョゴニョお経を読んで人を成仏させたことにしていますが、そんないい加減な導きはありません。生きている人をして生きながらに生死・迷悟をも超えた実相に向かわしむることがホントの引導というものです。
禅会でここを明らかにされますよう。

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おきもち

「悟り」と「死」との違いについて

ミズノ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「悟り」と「死」との違い・・

仮に「死」により「悟れる」とするならば、仏道は全く必要でなくなり、自利・利他、智慧・方便など菩薩行も全く関係のないままに、誰もが悟れて、ブッダばかりの世界となっているはずですが、そんなことはありません。

また、「死」は、肉体と共に、肉体に左右されていた粗い意識の「死」であり、「死」により全てが無となるわけでもありません。

「死」により、粗い意識が止むと、(過去世から相続してきている)微細な根源的意識が起き上がり、その微細な意識と共にある風(ルン)が、生前、過去世から積んできている業(カルマ)の影響を受けながら、次の輪廻(迷い苦しみの連続)の生へと向かってゆくのであります。

ただ、その微細な根源的意識においては、死によって「死の光明」と言うものも立ち顕れるのですが、凡夫は、その「死の光明」を知覚したり、コントロールしたりすることはできずに、結局は、業(カルマ)に流されて、次の輪廻へと向かうことになってしまいます。

しかし、密教の無上瑜伽タントラの修行を積んだものであれば、その「死の光明」を活かして、一気に修行を前へと加速して進めることも可能となります。

そのあたりのことは、ヤンチェン・ガロ大師「基本の三身の構造を明らかにする燈明」に詳しくございます。

いずれにせよ、根本的な無知である無明を対治すると共に、その無明を元とする煩悩による行いの集積である「業」(カルマ)を浄化しえない限りは、例え、死んだとしても、また、次の輪廻へと向かってしまうことになるのであります。

「悟り」へと至るためには、顕密共に仏道により智慧と福徳(功徳)の二つを積んでいくことが必要であり、業を清らかに調えつつ、煩悩障と、最後には所知障を断滅することが求められるのであります。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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