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父の死と死後の世界について

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有り難し有り難し 31

最愛の父が他界してから、死後の世界について考えています。
父は愛妻家かつ子煩悩で、死の3日前まで母と私に「大好きだよ」と言っていました。
大食漢で行動的な人でしたが、病のせいで食事も運動もままならない中、愚痴ひとつ言わずいつも笑っているような人でした。

死後の世界があるのなら、痛みからも苦しみからも解放されて、好きなものをたくさん食べて、好きなことをたくさんしているのだと思えます。

死後の世界がないのなら、大好きだった父は何処にもいないのなら、二度と会えないのなら、私も死にたいと考えています。

大学一年生の頃、仏教の講義が必修科目でした。
18歳だった私は宗教や死後の世界は生きてる人間のためにあるもので、死んだら無になると考えていました。
今になって死後の世界があって欲しいと強く思うのですが、長年否定していたものを肯定するのは都合の良い話に思え、抵抗があります。

祖父が亡くなった時は季節外れの蝶が部屋に舞い込んできたり、替えたばかりの蛍光灯が明滅したりと不思議な出来事があり、もしかしたら…と思える時もありました。

ですが「ずっと側にいるよ」と言った父の存在を感じることはなく、消えて何も無くなったように思えてしまい、胸が苦しくなります。

長文かつ乱文で申し訳ありません。
どのような心持ちで過ごせばいいのか、ご教示願います。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

有無を超えて出遇う

ご相談拝読しました。最愛のお父様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。

死後の世界の有無については残念ながら生きている私たちには確信をもって確かめることはできません。仏教では有るとするのも無いとするのもどちらも偏ったものの見方であるとして退けられます。つまり、「有るものでも無いものでもないものとして有り得る」というややこしい言い方にはなりますが、そういうことになります。

ですからお父様はもうどこにもいないとか二度と会えないということにはなりません。自分も死んでからではなく、今「遇う」ことができます。

あなたは「自分の都合」を問題にしておられますが、それは仏教的にもとても大事な視点です。大切な人がずっと自分の思う様な形で存在して欲しいというのもやはり自分の都合であり執着です。亡き人はそういう「自分の都合」から解放されたからこそ形にとらわれず私たちにはたらきかける存在として出遇ってくださるのではないでしょうか。

「あう」ことについて「遇」という漢字を使いましたが、これは「会」とは違い、「自分の思いを超えて、たまたまはからずも遇う」ということです。生前同様に「約束した形で会う」ことはできずとも、お父様の心やお父様からの促しに「遇う」ことはこれから先もずっと続く事と思います。

それは今あなたがおかかえの「胸の苦しさ」だってその一つでしょう。その苦しさはお父様の存在と無関係にあるものではありません。共に過ごしたお父様の存在が、そしてそのお父様が旅立った事実が、あなたにさまざまな促しとなってはたらきかけるのです。
それは寂しさ、苦しさ、切なさ、あたたかさ、疑問、不安、安心…様々な形となって感じられるのでしょう。

生きている人は死ぬまで「自分の都合」から離れられません。亡き人の存在は私たちにそのことを気づかせてくれます。色んなものにとらわれて苦しむ私たちに、そういうものから解放された存在が「あなたは今何に苦しんでいる?」「自分の姿はどうなっている?」と問いかけてくださります。
それは亡き人が仏様としてはたらいてくださるということです。

仏様としての亡き人に出遇い直せたならば、そこに有無を超える道が感じられるのではないでしょうか。
自分も必ず死ぬのですから、ただ無になるだけの生では虚しいです。亡き人は「そうではないぞ」と気づかせてくださるのでしょう。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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お父様の愛情を感じると

あおい 様 相談ありがとうございます。

お父様のご冥福をお祈りいたします。合掌礼拝

あの世が有るとか無いとかと、唯物論的に考えても答えは出ません。
否定も肯定もしなくていいと思います。

あなたがこれまで、お父様と過ごしてきたことを振り返った時
あなたが受けた、お父様の優しさや温もりや愛情を感じて
あなたの心に優しさで溢れるようになったとき
お父様のつながりを実感できるでしょう。
お父様の存在を大きく感じ、「ずっと側にいるよ」が解るようになるでしょう。

今は、お父様がお亡くなりにならて間がなく、哀しさや寂しさなどで、繋がりが感じにくいかもしれませんが、「痛みからも苦しみからも解放されて」とあなたが祈り続ければ、徐々に心の痛みから解放されて、お父様が近くにいるようなことを観じてくるでしょう。
お父様の微笑みが、あなたを支えることとなるでしょう。
仏様の傍に居て、あおい様のご家族を見守ってくれるでしょう。

私はそう思います。
合掌礼拝

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おきもち

お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリン...
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死後

あおいさま

死後、死後の世界、あるいは前世、過去世の世界について考えることは、今のあり方を照らし出すところにもなります。

仏教では因縁果の道理を第一に致します。

因縁無くして結果無しであります。仏教の要諦である四諦も因縁果を基本として成り立っているものとなります。

つまり、過去の因縁が今の結果であり、今の因縁が未来の結果になるということであります。

ですから、今の因縁を善い結果へと向けて調えてあげれば、確実に善い未来の結果に繋げられることになるのであります。特に仏道という善き因縁に取り組めば、結果もそれに見合ったものになっていくということが言えるのであります。

抵抗があるかもしれませんが、死後の赴きはあると思って頂ければと存じます。

その赴きをより善くに成していって頂くためのお手伝いが供養というものにもなります。

お父様により善き赴きがありますようにと供養をして頂けましたら有り難いところとなります。

追善供養につきましては、先ほどに下記の質問に私も回答させて頂いておりますので、参考にして下さい。

https://hasunoha.jp/questions/48261

また、死後のありようについてより詳しくお知りになりたいとなりましたら、下記の書物を参考になされて下さい。

「チベットの生と死の書」 (講談社)・ソギャルリンポチェ

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「死後の世界・死んだらどうなる」問答一覧

死ぬことや病気に対しての恐怖心が強いです

はじめまして。 わたしはタイトル通り死や病気に対しての恐怖心がとても強いです。 そのことについてお坊さん方のお考えをお聞かせいただきたく投稿いたしました。 わたしは様々な体調に関する不調があるとすぐにネットで調べて不安になり、病院にかけこみます。 医師から様子を見ていいと言われても『もっときちんと調べてもらった方が良かったのかもしれない』とまた別の病院を受診することもたびたびあります。 家族は『本当に心配性』『そんなに気にしてどうするの』『なったらなったで受け入れるしかない』と言いますし、私も頭ではその通りだと理解はしています。 しかし、病気になって、しかも余命宣告を受けるようなものだったらどうなってしまうのだろう。 自分がそうなったらその状況に耐えられるはずがない。 死んだらまだ幼い子ども達はどうなるのだろう。 そう思うと、病気が怖くて仕方がありません。 実際に婦人科系の疾患で経過を診ていたり、別のことで手術も経験しました。 さらには悪性を疑っての生検をしたこともあります。 子供がいるのに、そのたびにネットで調べ、この病気だったらどうしようと最悪の事態を考え、まだ病気と言われてもいないのに暗い表情で最低限の家事しかせずに落ち込んでしまいます。 主人にも、そういう性格だから仕方がないと思っているけど、子どもに対しては無理をしてでも明るく接して欲しい言われています。 病院受診が続いても主人は何も言わずにいてくれますが、私自身この考え方を変えたいと思い今まで本を読んだりいろいろな方法を試しました。 いまを生きる。 先のことを思い悩まず、目の前の一瞬にかける。 現にいまこの時も私なんかよりもっと若くもっと幼くして病と闘っている人もいるのだろうと思うと自分の心の弱さが情けなくなります。 頭ではわかっているんです。 でもすぐに不安感情がその上に覆い被さるように乗っかってきてしまいます。 この先も自分だけでなく、子ども達も体調を崩したりするたびに毎回こうなるかと思うとこの考えを断ち切りたいのです。 何に対しても、私は理屈っぽいと思います。どうしてそう思うの?その根拠は?とつなげてしまうところも災いしていると思うのですが。 そんな私が、少しでもどん!と腰を据えて何があろうと例え重病になろうが運命だったと受け止められるようになるアドバイスがありましたらよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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気になるあの世

自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。 仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。 ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。 母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。 牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。 個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。 そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。 この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。 そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。 先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。 ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。 またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。 最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。 母親とも不仲状態です。

有り難し有り難し 11
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お不動様、私のこと嫌いなの?

 いつもお世話になっております。  私の友人が、病気になりました。私は代参として、ある不動尊寺院に 行きました。顔見知りの職員さんがいたので、その事を話しました。  「私も病気だから、二人とも病気になっちゃったなあ」 と言いかけたら「私も病気だから」まで言いかけたところで、食い込み 気味で 「自分を病気だど思うな。甘えが出る」 と早口で言われました。私はショックでしたが、波風を立てたくなかった ので 「個性だと思っています」 と笑顔で答えました。  そのあと精神科で、心理士さんと話し合って苦情を言うことに しました。カウンセリング後の診察では、心理士さんから報告を受けた 主治医の先生が、 「人の苦しみに寄り添わなければいけない立場の人が、どうして こんな事を言う」 と驚いていました。 「こんな人の言うことは、聞き流せるようになろう」 と助言されました。  診察後、お寺に電話をして、 「私が持つ発達障害という病気は、脳のホルモンの機能不全です。 放っておけば、普通の人が何も感じない場面で、強い恐怖感から 動けなくなるなどの支障が、日常生活に顕著に出ます。それを軽減 するために服薬し、考え方を明るくするためにカウンセリングを受け、 大勢の人の中でも落ち着いて振舞えるように、リハビリを受けています。 リハビリが一番しんどいですが、必要なことだと思って受けています。 もし、『病気を受け入れる=甘え』という認識をお持ちなら、考え直して いただきたいです。病気は受け入れることで、治療や社会復帰に向けて 動いていくのです」 とお伝えしました。  対応してくださった職員さんは、 「リケブツさんは前に比べたら変わった。頑張っているのがわかる。 彼は確かに酷い事を言った」 と平謝りしてくださいました。  翌々日、苦情を聴いてくださったお礼として灯明料を持って 行きました。  本山(そのお寺は本山の別院)にも確認したら、 「お不動様は、精神病の人を甘えてるなんて思いません」 とお坊様からお言葉をいただきました。  しかし、素直に受け取れません。優しい職員さんも多いですが、 本当は皆さんは、私がお寺に来てほしくないんじゃないか。と思って しまいます。  私は今まで参行した不動尊寺院全てで、お坊さんたちから 傷つく事を言われたりされたりしています。  …お不動様、私のこと嫌いなの?

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死んだら無になることへの恐怖

もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。 ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。 だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。 しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか? 両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。 「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。 それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか? 全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。 しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。 全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。 科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。 かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。 その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。 仏教では死についてどのように考えていますか? お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか? またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか? 尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが) それでも両親との別れはいずれやって来ます。 私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

2025年7月5日4時18分

荒唐無稽であることが望ましい話です。 標題の日時で検査すると、様々なところから滅びの予言がされていることがわかります。東日本大震災の三倍の規模の津波だとか核ミサイルだとかフィリピン沖だとか隕石だとか。事実無根と軽く扱うには根拠が重なりすぎていてどうしても軽視できません。そして私は「問題が起こる=解決できずに全てが崩落する」と強く感じているので、きっともう一年近くの命なのだなと感じています。 私はただ、痛みや苦しみから逃れられない物質世界で生きていたくないだけなのです。死ぬことよりも、死んだ向こう側で過酷な世界に生まれるのが恐ろしくて恐ろしくて仕方ありません。屠殺される家畜。逃げきれなければ捕食される草食動物。餌に釣られて毒殺される害虫。ああいやだ恐ろしいと思うのはいけないことですか? 生きることは恐ろしい。どう生きても自分より遥かに大きなものによって弄ばれて終わるこの矮小な身体が恐ろしい。脳味噌の誤作動と物質世界に永遠に閉じ込められているのが恐ろしい。そんなことを感じてはいけないのですか?苦しみを受け入れられるようにならなければいけないのですか?安心して生きてはいけないのですか?ガンジス川の濁流に飛び込んで疫病を得なければ救われないのですか?生き物の本来の姿とはどんなものなのですか? この時代のこの場所に生まれただけでものすごく幸運だというのに、その中でさえ上手く生きられなくて苦しんでいる私が、災害や大破局に直面した際に恨みを抱かず運命を粛々と受け入れられる気がしません。「だから生きるのは嫌だったんだ!だからこの世界は嫌なんだ!」と恨み憎しみの塊になったまま死んでしまいそうで、すなわち苦しい来世が確定しています。「今、ここ」に集中しようとしても、破滅のカウントダウンを感じるとそれどころではなくなってしまいます。未来が誰にも見えないのが恐ろしいと傲慢な感情を抱いてしまいます。 私が救いを信じられないのは、今までの人生において大いなるものの救いを感じられなかったからです。破滅の信憑性ばかりが高く、破局、混乱、絶望の未来しか待っていないと漠然と感じています。これらを否定したり適切な距離をとったりするには、あまりにもこの世界の矛盾や欠陥が多すぎます。「今ここ」に生きるよりも、「どうしたら苦しまずに死ねるか」でいっぱいです。 安心して生きることは傲慢ですか?

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ