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観察日記(空と念仏)

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空とは無分別だと聞きました(100分で名著・維摩経)、番組内では大乗仏教を代表する理念、二項対立を解体する手立て、縁起を発展したものと説明されてましたが、色々な表現があって素人にはポカ〜ンとする話しです。色即是空、空即是色、有るけど無い無いけど有る、五蘊は空、幻、実態が無い、一切皆空。
聖と俗、浄と不浄、善と悪、生と死、二項対立は苦の原因。……救いどころか何を頼ればいいのか虚無感を感じていました。

hasunoha内では弱者の味方や弱者に寄り添うと言った言葉をお坊さんがよく使われるのを見て思ったんですが、「正義の味方」と言ってしまうと正義面した私(自我)が立ち、無意識に相手を悪にして二項対立を勝手に作りその悪を叩き下手すりゃ喜ぶ、でも弱者の味方ならそこに善悪の隔てがないし煩わしい私(自我)を立てる必要が無く目的を見失うこともない。自我や善悪を解体していく空の実践のような話しなのかな〜と思いました。

嫁さんも子供も仕事も家も自分のものなど何も無い期待もしない、虚無と感じるのはご都合主義の自我を立てるから、悩み苦しみリアルな課題が無くなることもない全ては縁起し空、私は私として生きるだけ一歩引いて願うだけ、無我とは心の自由に感じれるようになった気がします。

話しを広げすぎかもしれませんが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれるとどなたか仰っていましたが、念仏の導きも同じ作用(心の自由)な気がするんですが検討違いですかね。
空(念仏)→無分別→自我の解体→無我→心の自由→空(念仏)…?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

念仏は念仏【追記あり】

ご相談拝読しました。

念仏の救いとは何なのか。それを論じようとすると空思想とは無関係でないと私も思います。観無量寿経では韋提希の救いが説かれますがそこには無生法忍としても説かれていますからね。

そしてもちろんおっしゃる通り救いであるならばそれが「心の自由」とはいかないまでも「心」と無関係なものではないでしょう。(仏教においては絶対的な自由意志は否定されます〔一切皆苦〕)

しかしそれが我が心の範囲内の救い、あるいは念仏によって私自身が確かな者になったり、より良い者になったりして救われるという論理のものならば、それは同じ念仏でも親鸞聖人や法然上人の出遇った念仏とは異なるものとなるでしょう。

親鸞聖人の出遇った念仏は「ただ念仏」です。ものすごくシンプルです。人間が救われるのはシンプルなものではないでしょうか。

そしてその救われたところから、なぜ救われたのかを確かめていこうとする時にはじめて空思想など複雑なものが入ってくるのかもしれません。

あなたの最初のご相談は同僚の方との仲違いについてでした。そういう具体的なことや、ご自身の存在や不安についてから考えていくのがよいかもしれませんね。

論理を論じようとしても複雑な迷路に迷い込むだけかもしれません。

もちろんその学びも魅力的で楽しいのですけどね。

ただ言えることは私たちを救うのは「念仏の論理・解釈」ではなく「念仏そのもの」だということです。念仏申す中において仏の願いに触れていくのでしょう。

南無阿弥陀仏

【追記】
時間がない中で回答をしたもので言葉足らずなところもございました。けしてまんじゅ様のご理解やご信心を否定するものではなく、念仏についてそういう理解をする人がいたならば…という文脈でした。
しかしやはり「心の自由」というのは少し浄土真宗におけるお念仏とは趣きが異なるかもしれません。
身も心も思う様にならない私が、「どうにかなって救われる」のでなく、「どうにもならないままに(彼の土〔浄土〕において)救われる」ということを現生(今)においていただいく中で我が身を問いながらも引き受けていける教えが浄土真宗の「ただ念仏」かと思います。
私もまだまだ勉強不足です。これからも共に学ばせてください(^-^)
よろしくお願いします。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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「全ては縁起し空である」

まんじゅ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

確かに、「全ては縁起し空である」というのは重要な視座となります。

ただ、まんじゅ様は少し虚無主義的に捉えられておられるのかもしれないかなと存じます。

「空」というのは、「実体が無い」ということですが、どうしても、「無い」ということに引っ張られてしまうところがあります。

そうではなく、確かに「実体は無い」のですが、「縁起」として、それで一切は成立しているのであります。

特に因縁果の流れは、まぎれもない事実であり、その流れの中で、悟り・涅槃へと向かうための善き流れを調えるための教えを、釈尊はお説き示されたのであります。

「念仏」も、悟り・涅槃へと向かうための善き流れを調えるための、その因縁果の流れの一つとしてあるのであります。

また、「無分別」とは、どうしても「何も考えない」、「何も思わない」ことであると考えてしまいますが、そうではなく、あくまでも主客共に空であり、縁起なるものとして、本来的には同じであることを表現しているものに過ぎないのであります。

そのような中で、迷苦の輪廻にあるありようから、解脱、悟り、涅槃へ至るためのありようについて釈尊がお説き示されました内容も成立しているのであります。

「自灯明 法灯明」として、清き善き流れに乗るための道を、仏法を頼りとして、それぞれ自身がしっかりと一歩一歩進めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

吉武文法様
回答ありがとうございます。

>〜より良い者になったりして救われるという論理のものならば、それは同じ念仏でも親鸞聖人や法然上人の出遇った念仏とは異なるものとなるでしょう。

それは不本意なので改めます(^^)
いや、そんなつもりは無いんです、歎異抄4条の不完全な人間のありよう、すえ通らない自分を見つめさせてくれるこの条を大切に思っているので、念仏すればより完全な者になれるとは思っていないです。
でも私の問いは本願他力の教えに背く自力化、万人平等の救いに反しかねないものですかね。
仏教を学ぶことと自分の立ち位置や方向に注意しないといけないですね。

>念仏は念仏
回答を頂いて吉武さんの念仏は念仏と言い切れる背景や信心について長いことずっと考えたり調べたりしてました。
信心は一つ、如来から頂いた信心、念仏さえも阿弥陀様からの呼びかけ、行より信…私の信心は私が手を合わせ念仏する時、私の思慮、分別とは無関係に備わるものなのか…

考えても分からないのでやめときます、ただ私が手を合わせ念仏せざる得ない時、念仏は念仏ですね。

無生法忍…空を意図するキーワードがあるんですね。
私に読み解く知力は無いですが。(^^)

追記、お気遣い有難うございます。
改めて浄土真宗におけるお念仏の宗旨をお示し下さり、有難うございます。
「心の自由」を「空」の文脈に重ねて表現すると悟りと同義になってしまいますね。

自我を完全に黙らす事は出来ませんが自我で苦しんでる現実があります、人を憎むことはとても苦しいです、目つきも言葉も変わります、世の中が薄っぺらく白々しく見えてしまいます、わずかに残る良心でなんとか外が悪いんじゃない自分の問題だと見つめます、他を傷つけないように自我を無くすとは廃人のように生きること以外にどうすればいいのか、正義は怒りや自我を呼び起こす、弱者の味方という言葉に無我を感じ、期待せず他のために生きることで自我を滅し生きた自分を取り戻す、雨ニモマケズと言いながら現実は負ける自分、なりきれない自分がいます、湧き上がる自意識をでくの坊でいいと言い聞かす、手を合わせ念仏せざる得ない不完全な自分がいます。
それでも、仏教に虚無感を感じていた私には無我に自由を感じ、他に期待せず一人生きる成れの果てが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない阿弥陀様の誓願の内にある安心に自由を感じる。
書いて気づきましたが、今は自力で頑張ろうとしてますね。(^^)

川口英俊様
回答有難うございます。

一連のご指摘の通り、偏った見方や間違った考え方をしている節があると思います、ご指導有難うございます。

>空とは実態は無いが縁起として成立している。

このあたりは何と無くですが理解出来るようになったと思うんです(空は怪しいですが)、私を構成する要素にどれが私と言えるものはないが、それらが集まって(仮に)私らしく存在しているといった感じですよね、でも一は全、全は一といった世界の繋がり方を実感するほどの十分な理解を得られていない所が私の虚無的な少し投げやり?な表現に現れるのかと思います、様々な縁があって今がある、未来も縁によって変わりえる、この無常を理解出来た事で、たとえ家族でも親しき人でもそれぞれの縁に生きていると思えば私があーだこーだと言うことも無い、ただ願うだけだと思えた事が、大袈裟ですが心の自由を感じた理由の一つです。

>無分別とはあくまでも主客共に空であり、縁起なるものとして、本来的には同じであることを表現しているものに過ぎないのであります。

なるほど、やっぱり手に負えない世界観です(^^)最初よりはイメージできますが。道徳的に生きることはタレントを叩くお昼の番組のようなもので簡単ですが、仏教的には浄と不浄、善と悪、等、そこに自分(自我)の見解を挟む事は都合でしかない、本来的には同じと言うことですよね、やっぱり私には解りませんが、ただお坊さんが言っていた弱者の味方と言う視点に立てばお昼の番組もタレント叩きに終始しないと思うんです、また大袈裟ですがこれが私の次元での無分別、自我の解体なんじゃないかと自由になれた気がするんです、それだけ善悪に固執する自分がいるからですが。

>特に因縁果の流れは、まぎれもない事実であり、その流れの中で、悟り・涅槃へと向かうための善き流れを調えるための教えを、釈尊はお説き示されたのであります。

切実に実感しています、一人で生きていないいじょう自分をより善く調えることがより善い縁を育てることに繋がりますね、子供との接し方はタイムラグがないほどに実感します、気づけただけ良いかもしれませんが、いずれ一人になると思います、どうしようもなかったんですがそれだけの振る舞いをした自分がいます、これも報いだなと実感しています、その上で腐らず尽くしていこうと思ってます。
私の地元は浄土真宗ですし念仏に訪ねてみようと思います。

「自灯明 法灯明」いい言葉ですね、変転常無い世の中で一喜一憂せざる得ない自分がいるけれど、破られることのない真理がある、依るべき法がある、訪ね続けようと思います。

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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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