hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

何を思ってお教を読まれているのか?

回答数回答 4
有り難し有り難し 49

私の質問はお坊さんアンチのように思われるかもしれませんが、これからもお坊さんにはお世話になっていきたいと思っておりますので、不安を解消したく質問をさせていただきます

お坊さんはお施主様の法事で何を思って、お経を読んでいるのですか?

ただお経を読んで、法話をする作業になっているだけのような気がしてしまっています。

さらには「供養します」「供養してください」供養供養言いますけど、結局の所「供養」ってなんなのですか?

宗派問いません、この質問を見て逃げるような和尚様の言葉はいりません

なんなら丁寧なお言葉で書かなくても大丈夫です!!

お坊さんであっても一人の人間です、私も過度な期待はしておりません、実際に思っているお言葉をください!!

ハスノハにいる和尚様方を信じております

誠に我儘で勝手ですがよろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大事な質問です!

「作業」のような感じに受け取られてしまっているならば、たぶんそれは私達僧侶側の勤め方の責任が大きいと存じます( ; ; )

お経を拝読するのは、お釈迦様から代々受け継がれた大切な教えをいただくため。
なるべくならその場にいらっしゃる方々皆様一緒にお読みいただくのですが、その点で言えば、和尚はバンマスみたいなものでしょうか。あくまでも主役は施主家ですしね。
そこに居るということ、皆で故人や大切な人を想いながら手を合わせること、親が子を想い、子が親を想う、それぞれがそれぞれの気持ちをもって懇ろに参拝する、ひとりひとりが少しずつその場に時間や機会や心を「施し」ているのです。そうすると、もはや生者亡者の隔たりすら無い、とても優しくて暖かい時間が流れます。
そこに生まれる間柄が相互扶助のループとなって、支え合いの姿「供養・供に養う」を完成させるのだと考えます。

和尚は和尚で例えば、故人との長年のお付き合いやお施主様との今後を考えたりもしますから、お経を詠みつつそんなことに想いを馳せて、感極まりそうになる時もあるんですよ^ ^

{{count}}
有り難し
おきもち

現代は実に「背負い込んでる」人が多いと思う。 別に自分が背負い込まなくて...
このお坊さんを応援する

やさしさ、すくい、たすけの心を持つ人たちと共に養いあう心。

ただポクポクしたってそれは血が通った法要とは言えない。
「何をすれば供養になるのか・何をしているのか・どうなればいいのか・その真義真意はなにか?お経を読んだだけで僧侶任せでいいのか?」この追求が貴方自身をも高め、供養と言う事を知らない人たちへの生きた供養ともなるでしょう。
供養とは生きた人もなき人も一切が利益されること。
いわゆる供養とはただのお供えではなく「本人の宗教心の向上の為」であります。
仏教的な宗教心・救済心を「菩提心」といいます。
あなたの菩提心が高まればあなたがあなた自身を救い、他の存在を助け、救える人となる。供養法要とは人の心をこの上ない素晴らしい心へと導き、さらには世を導く生きた菩提心の人間、大宗教活動者を生み出すためのものです。だから法の要、法要という。
言い方を変えればあなたがお釈迦様、仏菩薩に準ずる立派な人間となる為のもの。法の供養、行の供養、利の供養を通して、感謝・報恩・利他の精神を養う。持つ。高める。智慧や慈悲の心を養い、仏祖に準ずる立派な人になるため勤行するのです。
供養とはどっちも、誰もが、十方が利益されることです。あなたも。あなたと関わった人全てが。私がこれを記せば知らん人も「ああ、そうだったのか」となる。これも供養。
極端な譬え、テロリストや凶悪犯、極道者が「👿仲間の供養をしてくれ。」と来たとします。お経をあげてもらって亡き人の供養をした。終わった途端「よし、今から無差別テロに行くぞ!」「親父のカタキじゃァ!」と犯罪や世間を騒がせる非道な行為に向かうとしたら、どっちも救われない。いくら供養したって「本人がまともな人間性にはならない」のは供養じゃない。ただポクポクお経あげてりゃぁいいってもんじゃァないのです。
あなたはどうなればいいのか?
あなたも僧侶を超える大宗教者を志すことが供養。
菩提心とは自分よりも立派な人間を育てる精神。
あなたが菩提心をおこして悟り・涅槃(叡智や安らぎ)の心を真剣に求める!自分だけ救われてエッヘンするような小さな菩提心ではダメです。
世の中それをしない、やらない、できないと逃げてばかり。人の批判している人ばかりでしょう。だから「あなたも」供養人となるのが供養。家族も友人も嫌いな人も世間一切を「たすけ・すくい・いい事・笑顔・利益・やさしさ」へ導く菩提心のカタマリ人間となるのです。人と共に養う供養なのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

『供養ってなに?』

「何を思って、お経を読んでいるのか」と問いかけているあなたには、やはり、ご自分でおっしゃっているように、「供養ってなに?」という疑問があるようです。
 疑問は、自分の頭の中でグルグル考えているだけでは解決しませんので、ある程度、その対象についての知識を、あなたが学ぶ必要があります。あなたの「不安を解消する」ためには、あなたがここでお坊さんたちに問う前に、まずするべきことだと思います。
 山口県下松市の「誓教寺(せいきょうじ)」のホームページを、検索して見つけてください。その「施本」コーナーを開けて、上から2番目の『供養ってなに?』を読んでみてください。
 その知識を得てから、「では、現実のお坊さんたちは、何を思って…」と落ち着いて問うことができるでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
このお坊さんを応援する

追善供養

yosiさま

読経も供養も「功徳」となることが大切となります。

功徳、つまり、徳を積むこと、善いコトに励むという仏教の取り組むべき基本となります。

七仏通誡偈・・
諸悪莫作(しょあくまくさ) 悪いことをせず
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)  善い行いに努め励み
自浄其意(じじょうごい) ― 自分の心を清らかにする
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― これが諸々の仏の教えになります

そして、その功徳を皆に及ぼすことで皆の悟りへ向けたお手伝い、お役に立てるものにするということであります。

ですので、読経も供養も、「追善」、つまり、善い行いを追って皆に届けるという、そういう思いにて努めるところであります。

また、追善供養のことにつきましては、下記拙法話もご参照下さいませ。

拙法話「追善供養」


川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

ありがとうございました

「お経・経典の種類、意味、唱え方」問答一覧

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ