お寺の紹介
お寺の歴史
宝林寺開山の大拙祖能禅師は14歳で仏門に入り、比叡山・東福寺・天龍寺等に学び、千巌元長禅師に就いて修行し、中峰明本禅師の法衣を賜り帰国しました。1306年の草創で、後に遠州大守を開基として、宝林寺を開創。日本大拙派を築くに至りました。1667年潮音禅師は中峰明本禅師の禅風を慕って進山し、中興となり館林宰相綱吉公の帰依を受け、直伝覚心居士・大機宗信居士を中興開基として黄檗宗の宗風を振って道俗教化に務め、北関東最初の道場としました。1690年堂宇は悉く竣工を遂げるも1866年に至るまでに再三の火難に遭いましたが、京都七条佛所26代佛師康祐法眼・富小路友学流初祖康倫の造佛や什物等は消失せずに今日に伝えられています。
梵鐘
この鐘は、国の重要美術品とされた名鐘で、館林城主徳川綱吉が、当時、宝林寺に来住の潮音道海禅師を住持に迎えて創建した館林の廣済寺に、寛文10年(1670)家老の黒田信濃守が寄進したもので、潮音の師木庵性瑫によって銘が刻まれています。
徳川綱吉が5代将軍となった後の天和3年(1683)、館林は廃城、廣済寺も取り壊しとなり、本尊、什宝等が宝林寺に移されました。その後、江戸深川に廣済寺が再建され、前記什宝等の引き渡し要求があり、交渉は難航しましたが、天保14年(1843)小幡龍門寺、三光和尚の斡旋により解決し、梵鐘等すべて宝林寺に永代伝えることになりました。
徳川綱吉が5代将軍となった後の天和3年(1683)、館林は廃城、廣済寺も取り壊しとなり、本尊、什宝等が宝林寺に移されました。その後、江戸深川に廣済寺が再建され、前記什宝等の引き渡し要求があり、交渉は難航しましたが、天保14年(1843)小幡龍門寺、三光和尚の斡旋により解決し、梵鐘等すべて宝林寺に永代伝えることになりました。
アクセス・地図
所在地
3700505 群馬県邑楽郡千代田町新福寺705
TEL
アクセス
東武伊勢崎線 川俣駅 車15分
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