限界かもしれない
最近夕食がとても辛いです。弟、父、私でテーブルを囲んで食事をするのですが会話が何もありません。弟はテレビを見ながら、父はスマホを見ながら食べてました。その状況が耐えられず2人が食器を片付けるまで待ち、2人が自分の部屋に戻ったあと食べかけのご飯を食べてました。食べてたら高校で友達と昼食を食べて笑って話してたことなど思い出して涙が出ました。寂しい、高校の頃に戻って友達とまた昼食が食べたい気持ちが止まりません。誰かに撫でてもらいたい褒めて欲しい。一人暮らしが出来るまで我慢しようと思うのですがこの寂しい気持ちを抑える方法はありますでしょうか?よろしくお願いします。
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味噌汁に愛を感じて
まぐろさん
家族で食事をするのに会話がないのは辛いですね。一人ならそうは思わないけど、一緒なら「楽しく食べようよ」と,相手に期待してしまうからかもしれませんね。
でもどうでしょう?弟さんとお父さんにそんなあなたの期待が通じるでしょうか。期待するほどつらくなってしまいませんか。それなら気持ちを切り替えましょう。
仏教には食前に唱える「いただきます」のお経があります。その一つに『五観の偈』というのがあります。
その一番目が「一つには功の多少を計り彼の来処を量る」これは簡単にいうと「この食事がどうしてできたかを考え、食事の調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします」という意味です。このことを深く洞察すると寂しい気持ちはなくなります。
では、目の前の「味噌汁」をみてみましょう。味噌は大豆から出来ています。畑を耕し大豆の種を蒔いて、毎日毎日水をやったり、肥料をやったり、害虫をから守ったりしながら、何か月も育てます。大豆を収穫してそれを選別して箱に詰めて味噌の工場に運びます。洗って、茹でて、つぶして、麹と混ぜて発酵させて何か月もしてやっとみそになります。それから工場でパックに詰めて、箱に詰めて、トラックで運搬して流通センターを経て、スーパーに運ばれ、そしてあなたの家にやってきました。そこから味噌汁になるまでの調理がありますね。厳密に言えば、もっと細かいいろいろな過程を得てきています。肥料を通る人。工場を作る・・・・もうキリがありません。
この味噌汁にどれだけの時間と人と手間がかかっているでしょう。そう考えれば、寂しい食事なんてありえません。1杯の味噌汁にたくさんの人の手を感じてください。あたたのいのちはたくさんの支えがあって生かされているのです。それがわかれば感じられれば、あなたはもうすでに撫でてもらってるってわかるでしょう。
気持ちを切り替えて、味噌汁に愛を感じてお話をしながら、一人でも楽しく感謝して食事をしてくださいね。仙如