諸行無常 | 三法印のひとつ。仏教の根幹となる教え
「いつまでも若いままでいたい」「ずっと一緒に暮らしたい」。このように、人は幸せを感じたときからそれを失う怖さを持ってしまいがちです。それまで当たり前と思っていたことが変わるときには、さらにその思いをより強く抱くことでしょう。
諸行無常「変わりたくない」が生み出す苦しみとは
「諸行無常」はブッダが説いた「死は必然」ということを表すことばですが、本来は「すべての物ごとに常(永遠)はない」というそのままの意味。モノが壊れるように、果実が熟してやがて樹から落ちるように、人の命も必ず変化(終わり)が来ると説いたものです。決して、侘しさや悲哀を説いたものではありません。
これは、ブッダが人々を救うために説いた「欲を捨てて、あるがままを受け入れる」に通じるもの。「今の(若い)ままでいたい」という思いは欲望であり、その思いにとらわれると苦しみが生まれる、ということを気づかせるためのことばなのです。
「老い」や「死」は当たり前に訪れるものであるから、悲しいことや恐ろしいことと感じたり、やがて訪れる死を前にしたときに、怯えたりしても仕方がないので、受け入れることで心の平穏を手に入れるように、という教えなのです。
「死」は誰にでも訪れるもの
実際に、ブッダは自分が死を迎えるときにも穏やかに死を受け入れたといわれています。ブッダが死ぬことを悲しむ弟子や人々にも「出会った人とは必ず別れが来る(会者定離)」と死の間際まで人々に教えを説き、「自分は人々に伝えるべきことはすべて伝えたからやり残したこともない」と穏やかにその生涯を終えました。
死を前にして「人生でやるべきことはやりきった」と胸を張ってこの世を去ったブッダ。「悟りを手に入れた人」であるブッダは、35歳で悟りを開き、80歳でこの世を去るまでの45年間にインド各地では数多くの教え・ことばを人々に残しています。このことばはやがて悟りに至るための最良の方法「戒律」として残り、現在の仏教の源となりました。
「諸行無常」は仏教の基本となる教え
この「諸行無常」は、老いや死についてだけ説いたものではありません。「変わりたくない」という思いそのものについても触れるものです。
たとえば、「今よりお金を失いたくない」ということもそのひとつ。人は富や名声、地位などを手に入れると失うことを恐れるようになり、それに執着して我欲となります。しかし、「世の中に変わらないものはひとつもない」ので、その願いは崩れ去り、やがて苦しみとなってしまいます。だからこそブッダは、「変化することを当たり前のこととして受け入れ、心の平穏を手に入れましょう」と説いたのです。
つまり、諸行無常とは「物ごとに対して執着をする意味はない」ということを説いていることばでもあるのです。この「諸行無常」は、「諸法無我」(すべての物ごとには実体がない)「涅槃寂静」(涅槃に至ることが救い)と並んでブッダが説いた「三法印(仏教三法)」といわれるもので、仏教の根幹となる教えとされているものです。
この「諸行無常」のことばの意味を正しく知り、実践することでできれば、穏やかな心を手に入れることができるようになるでしょう。
あなたの苦しみを軽減する諸行無常の教え19選
お坊さんがこたえるQ&Aサイトhasunohaには、変わりたくないと思い悩む多くの方からたくさんの相談が寄せられています。諸行無常の考え方は、ブッダの時代から2500年を経た現代に生きる私たちにも、その悩み苦しみを解いてくれるヒントを投げかけてくれています。諸行無常とどのように向き合っていけばよいのかお坊さんとの問答を読んでみましょう。
この世は諸行無常。でも失いたくない。変化が怖い
「変わることが怖い」をどう受け止める
Q:今まで私は外見や容姿に頼る生活をしてきました。ところが、昨年から抜け毛が急増。頭頂部からハゲが進行してきました。 母方の親族男性のほとんどがつるつるとした禿げ方をしているので、自分もそう遠くないうちに・・・とは思っていましたが、いざこうやって現実を目の当たりにしますとショックで、色々と考えてしまいます。
A:全てのものは常、つまり恒常的ではないのです。年齢しかり、容姿しかり、価値観しかり、財産しかり、人間関係しかり。 「人は見た目が大事」と言われます。でも何が大事なのかと言えば、「年齢なりに相応しいか?」という事だろうと思うのです。「いつまでも若く見られたい」はダメよということです。
元の問答:変化を受け入れられません
変化することは人生では当たり前と思うこと
Q:今の私は幸せな環境にいると思います。だからこそ、自分の末路が怖いのです。 今私の側にある幸せが、いつかは消えてしまうという現実が、とてつもなく恐ろしくて、虚しくて、寂しくてたまりません。私も私の大切な人も幸せになれる世界が欲しいです。
A:確かにそのとおりです。正確には「今幸せと感じていても、それはいつ変化してもおかしくない」と言ったほうがいいでしょうか。幸せに感じることも、苦しいと感じることも、人生では当たり前のことです。と、同時に「有ること難し」なのです。
元の問答:将来が怖いです。今ある幸せを失いたくない
諸行無常だから別れがくるのではない
Q:久しぶりに恋人が出来ました。内面的にステキで外面的にもとても可愛い女性です。彼女は私の事を大好きなんだそうです。しかし、仏教でも諸行無常だと言うではありませんか。電話を切った後、デートを終えた後、だいたい次の様な事を思うのです。「この幸せは束の間の夢まぼろしに過ぎない。きっとまた独りになる。」
A:諸行無常だからいつか別れが来る、ではないのです。諸行無常だから、あなたは前の彼女のことをケロリンと忘れて今の彼女と楽しく過ごせているのです。諸行無常だから、さっきまでの事が残り物なく、今を最高に咲いているのです。本当の諸行無常とは、救いの教えです。 諸行無常だから、今、目前の全てが真新しい。
自分のものではないから失うことがない
Q:諸行無常の世の中で変化を恐れ、身内や自分の健康や金銭面での安定がいつまでも続いて欲しいと願い続けています。これは誰もが願うことであり、そして変化は避けられないものだと承知していますが、明日の我が身に何が起こるか知れないと思うと、生きることも死ぬことも不安でなりません。
A:それを受け入れていくことが大切なことです。失うことは確かにつらいことですが、よくよく考えてみるとどれも実は自分のものではありません。この身体でさえ刻一刻と移り変わっていくのですから自分のものではないことがわかります。
元の問答:生きることも死ぬことも不安で仕方ないです
諸行無常。つまりその苦しみも変化します
悲しみに満たされた貴方の心も変われるのです
Q:妻と離婚します。これからの人生、最愛の人を失って、生きていくこと、働くこと、貯金したり買い物したり。全てが空虚に感じます。
A:一度誓い合った愛も変わってしまうこともあります。 とても悲しいことです。しかし、諸行無常とは悲しいことだけではありません。
全てのことは常では無いのです。奥さんを幸せにしてあげられなかった貴方は変われるのです。 悲しみと空虚に満たされた貴方の心も常ではありません。 変われるのです。元の問答:妻との離婚、これからの長い人生
どんな自分も本当の自分
Q:「自分も相手が好きだと思っていたのに、嫌になった」という事実から、恋愛に対して臆病になってしまいました。 お近づきになれたとしても、また嫌になるのではないか…という懸念があります。
A:諸行無常という言葉があります。好きになったり、好きではなくなったり、逆に好きでも無い人から好かれたり、嫌われたり。時間の流れとともに、心もせわしなく移り変わっていきます。でも、それは悪いことではありません、自然なことです。 変に善悪の観念にとらわれて、心変わりした自分を嫌いにならないでね。 どんな自分も、本当の自分ですから。
元の問答:恋愛に臆病になります
心がごっそり入れ替わっているのが諸行無常
Q:心を根こそぎゴッソリ入れ替える為には、どうすればいいのでしょうか?
A:前のものがガッツリ残っている「ような気がする」だけではないですか? そもそも前のものはどこにあるでしょうか。鳥が鳴く、10時の太陽、電話が鳴る、ランチの味、みな今何処にも無い。根こそぎゴッソリ無くなっている。これを知ることが諸行無常です。空です。
元の問答:心を入れ替える
【脚下照顧】まずは自分の足元から
Q:結婚、借金、浮気、離婚、色々ありすぎて、外では明るい自分でいれますが正直しんどいです。親の反対を押しきっての結婚だったから仕方ないんでしょうか?諸行無常の世の中とはいえ、どうやって気持ちを奮い立たせればいいでしょうか。
A:あなたのおっしゃる通り、世の中はたしかに諸行無常ではあります。
しかしこれらは、くじにハズレたり鳥の糞に当たるような単なるアンラッキーだったのでしょうか。もう一度、ご自分の人生の歩み方を確認し、しっかりと地に足のついた生活を立て直す事から考えてはいかがでしょうか?元の問答:限界を過ぎてます
人の気持ちも、感情すらも諸行無常
Q:同棲して1年3ヶ月の彼がいます。 最近毎日毎日イライラしてしまう事が多くなってきました。 お互いの良い所も悪い所も見てきて、たまには喧嘩もしてきたけれど、それでもずっと大切にしていきたいと思っている相手です。 それなのに、自分が嫌だなと感じるとついイライラしてチクチク言ってしまったり不機嫌になってしまいます。
A:仏教では「諸行無常」と言いますが、これは「世の中の全ては一瞬で過ぎ去る現象でしかない」という教えです。 人の気持ちも諸行無常です。今日まで愛していた相手を、急に明日には愛せなくなることもあります。しかし、人の感情も諸行無常です。あなたが今、イライラしがちだとしても、時間が経てば、落ち着いて彼と向き合えるでしょう。
元の問答:イライラしてしまう自分が嫌です
変えたい部分に気づくことは素晴らしい
Q:現在精神障害となった自分を自覚して友人に会うのが怖いのです。
友人が結婚とか楽しんで生きているのに自分は進歩しておらず、友人の不幸を望んでいる自分があります。人は変わることが出来ますか?
A:出来ます。諸行無常です。変わらないものは何もないのです。
変わりたいと思えた時点で変わり始めています。いや、そう思えなくとも厳密には変わっているのでしょうが、そう思えたということは自分が変えたい部分に気づけたということですから素晴らしい事です。元の問答:不幸を喜ぶ自分
生・老・病・死
永遠の愛
Q:わたしは、男性の気持ちを信じられません。彼氏が出来ても、「どうせ、浮気するんでしょ、好きって言ってるけどわたし以外もいるんでしょう」とおもって付き合っても一歩引いてみてしまいます。永遠の愛とか言ってるのをみると、あるわけないじゃんとおもってしまいます。
A:人の感情は変わります。だからあなたのおっしゃることはその通りでしょう。俗にいう永遠の愛など成立しません。世の中は全て無常です。恋愛はそんな移り行く感情をお互いがお互いを認めその変化に順応していく上で成立するものではないでしょうか。
元の問答:信じられないんです。
無常を観ずる。正しい道を求める心
Q:数ヶ月前に、祖母が認知症になりました。前々から兆候はあったのですが、骨折で入院し、帰ってきた時から少しずつ進行しているようです。祖母は、たまにいつもの祖母に戻ってくれます。その時に「怖いねえ、怖いねえ、寂しい」と言っているのを聞くと、言いようのない罪悪感に苛まれます。
A:菩提心とは「正しい生き方と正しい道を求める心」という意味です。お祖母様の病状を見るにつけ、人が生きるのは辛く苦しいものだと思うのでしょう。人が元気でいられる時間には限りがあると気付くと思います。それだけに、お元気な時にあなたや御家族のためにいろいろと頑張って下さった時間は尊いものです。
元の問答:祖母の認知症が辛い
病気になることもあり、なおることもある
Q:原因不明の病で入退院を繰り返し、今は寝たきりです。人に勧められた物は全て試し、御先祖様に手をあわせる毎日ですが、体力.気力.経済的にも限界です。先が見えないままいつまで頑張ればいいのか。
人に迷惑をかけてまで生きるつもりにもなれません。
A:その病について調べることは、今後同じ病になる人の治療の為に役に立つのです。あなたが苦しみに耐えていることは決して無駄にはなりません。健康な人が病になるし、反対に病の人が健康になることもあるのです。ですから、どうかまだ諦めないでください。
元の問答:いつまで頑張れば良いですか
諸行無常と死ぬことの意味
Q:愛猫が交通事故で亡くなりました。まだ1歳にもなっていませんでした。なぜ仏はあの子を奪い去ったのでしょうか。私が能天気でぼんやりしてて、身の程知らずだったからバチが当たったのでしょうか
A:私達は、瞬間瞬間に浮かんでは消えていく現在、今・ここの瞬間を生きるしかないのです。身近な者の死をきっかけに、仏教を学び始める人はけっこういます。猫の死をただの悲しい別れで終わらせるか、「あの猫は私を真理に導くために現れた、仏様の使いだったのかも」と思えるようになるか。それは、あなた次第です。
元の問答:愛猫が亡くなりました
諸行無常をお坊さんと問答する
諸行無常。不変なるものはなにもない
Q:全てのものは、今この瞬間にも移り変わっているのでしょうか? 無常とはなんですか?
A:新品の自動車はどんなに大切にしても、だんだん古びていきます。 動物の赤ちゃんは、子供になり、青年になり、大人になり、老人になり、いつかは死去します。 「この世界に、不変なものはなにもない」 が諸行無常の意味でよいと思います。
元の問答:諸行無常って何ですか?
諸行無常は全自動浄化機能
Q:諸行無常って老いて死んでいくということ?
A:諸行無常「あらゆるものは変わっている。お線香のように滅びていくのだ」ってデッドエンド!!!そんなの誰でもわかる!「ネガティブすぎるやん」って
「病があっても、いまはなんともない」という人がいるように、次の瞬間には新しくなってる、諸行無常とは全自動浄化機能のこと
諸行無常も一切皆苦も、言葉です
Q:諸行無常や一切皆苦など、真理のことばであって絶対に変わらない正しいことであるとみたのですが、それとは裏腹に正しいと思ったことは正しくないという真理があると思います
A:あなた自身も諸行無常なのですから、あなたの認識も無常です。頭で考えることって、私たちが思っているほど大したことないんですよ…というのが諸行無常のメッセージの1つです。
元の問答:仏教の考え方の疑問
実体があるのに「無」とは
Q:生きることそれ即ち失うこと。それは仏教徒として修行を積んだお坊さんなら当たり前の道理かも知れません。しかし、親や自分の大切な持ち物、愛する人、遂には自分の命さえも失い、最期は無になる人生に意味はあるのかと考えるとすごく怖くなります。
A:「有」であるものは何か。それは,例えば眼の前にある壺等です。我々は壺を見た時疑いなくそこに壺が有ると思いますね。その壺は確かに有ります。それでは「無」であるものは何か。それは,例えば,我々が実体として有ると思い込んでいる壺等です。人間も同じです。
元の問答:諸行無常とは
諸行無常を感じる歌
Q:お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか? それを聞いてみたいと思ってます。個人的は、THE ブルーハーツの 「情熱の薔薇」‥‥諸行無常的な
A:喜納昌吉の「花 ~すべての人の心に花を~」だと思います。
花は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
この二行の歌詞だけで、諸行無常を語り 涅槃寂静を語っているように感じております。