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ましな人間になるアドバイスを頂きたいです

回答数回答 1
有り難し有り難し 33

お坊さま、こんにちは。また質問をさせていただきます。わたしは最近、ネガティブで悪いとこ探しをしてしまう癖を治そうと自分なりに頑張っています。その一歩として、
不機嫌な顔をしない・感情的にならない・人の悪口にはのらない・乱暴な言葉遣いをやめる
を心がけるようにしているのですが、私がすると、(その他にも理由はあると思うのですが)
プライドが高い・すましてる・何を考えているかわからない・壁を感じる
という、いやな人間になってしまうようです…。とても難しいです。どうすれば穏やかでまわりに不快感を与えない人間になれるでしょうか?そうそう簡単に変わることはできないとは思いますが、これから努力して少しずつましになっていきたいと考えていますので、よければアドバイスを頂けないでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それ、ちょっとアウトっす。だからって凹まないよう。

・不機嫌な顔をしない
・感情的にならない
・人の悪口にはのらない
・乱暴な言葉遣いをやめる

まず、ここから申し上げます。
・不機嫌は不機嫌になっちゃったら不機嫌な顔をしないようにしても、心がすでに不機嫌なのですから手遅れです。その前の問題です。
・感情的にならないのも同じですね。なっちゃったらもう、そうなっているのですから、後から感情的にならないといってもなった後に抑えることはファ〇リーズで塗りたくっているようなものです。元からの消臭にはならないように、根源をなおさないと。
・人の悪口を言う人がいるのでしょうか。そういう関係も見直しましょう。
・乱暴な言葉遣いをしたくなる…、それ以前の問題なのです。
まず、出会うことに対して「わたし・じぶん・あたし」をわり込ませてみていると気づくことです。
穏やかでまわりに不快感を与えない人間になるには、この一か所だけ治せばよいのです。

今日から、何をみるにも貴君も自分の思ったことを先立たせないことです。
「私が思ったこと」があなたの中で真実化しているのです。
職場で「これコピー頼むよ」と言われたときなどに、自分の割り込みが強い人は「何であたしが」とかすぐ自分の考えを仕事より優先するのです。
自分が最優先にしているものがオフィシャルの出来事、事実より「アタシ」になっちゃっているのでしょう。
「は?そんな事ねぇし!オメーに何がわかるんだっつの!」☜「アタシ」

自分の割り込みはなかなか気づけないものです。
ものすごい速さで割り込んでいるからです。
坐禅をする意義の一つは、この自分に割り込んでくる超高速増殖割り込み思考に気づくためでもあります。 
それに自覚して、そのモグラを飛びだたせないようにすればあなたのいう「ましな」人生があらわれます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

自分の割り込みというモグラを高速で叩く!ユーモアを交え、わかりやすく例えてくださってありがとうございます。なるほど、私が気を付ける以前の問題だったのですね…物事を主観にとらわれずありのまま見ることは難しいですが、頑張ってみます。回答ありがとうございました!

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