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仏像オタクニストSALLiAの「仏のトリセツ」vol.21 鬼滅の刃から考える「善と悪」

みなさま、あけましておめでとうございます。2021年最初のコラムです。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

ちなみにこの記事を書いている今日は節分です。節分といえば「鬼」。

そしてそこから最近だと「鬼滅の刃」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?でもこれだけ国民の心を動かした作品って、なかなか出てきません。それだけ多くの人の心を動かす”何か”があるのだと思います。

鬼滅の刃はその名の通り、現代版鬼退治、と評されたり、勧善懲悪ものだという意見もあります。しかし私は、単純にそう言い切れないものが鬼滅の刃には存在していると感じます。善と悪の構図は、そんなに単純なものではないということを改めて、考えさせてくれた作品でもあります。

そこで今回は、改めて「善と悪」について考えてみたいと思います。

その刃を何のために振るうのか?

鬼滅の刃は、鬼になった妹を人間に戻すために、鬼を滅殺する鬼殺隊に入り、鬼と戦うという前提のストーリーですが、主人公である炭治郎が、戦う根本的な理由は「妹を人間に戻す」ということだと思います。

もちろん人間を食べても何の罪悪感もない鬼に対してや、全ての鬼の始まりであり、根源である「鬼舞辻無惨」に対しては「怒り」という感情は抱いているかと思います。

しかし炭治郎には「自分の正義の名の下にその刃を振るう」というよりは、自分の大切なものを守るために刃を振るう、ということが根本にあると感じます。

自分の掲げる正義は、あくまで「自分の価値観の中で決めた正義」でしかなく、言い換えれば「偏見」にもなり得てしまいます。

それに気づいたのは、高校生の時。友達に言われた言葉がきっかけでした。

「SALLiAちゃんの言うことはいつも確かに正しいけど、それがとても苦しい。」

恥ずかしい話ですが、その時の私は、正しいこと一番だと思っていた節がありました。正しさは人を救うとも思っていたのですが、でもその言葉で気づきました。

私の思う正しさは、あくまで私の思う正しさでしかないこと。そしてそれを押し付けることで、相手を傷つけていたこと。

自分は正しいことをしていると言う思い込みこそが、相手を傷つける可能性があるということに、なぜ気づけなかったのか…。

もしかしたら、私は”正しいことを言っているはずの自分”を誇示したかっただけなのかもしれない。誰かを傷つけている時点で、もうすでに「正しくない」のです。

本当の正しさは、誰かを守るためや、誰かに寄り添うために使われるものであって、誰かを断罪し、傷つけるためのものではないのだ、ということをその時、初めて気づいたのです。

炭治郎がもし、圧倒的な強さを振るう存在として描かれていたら…。もしかしたら、鬼滅の刃はここまで大衆の心を掴んでいなかったかもしれません。

 

100人いれば、100通り存在する「善と悪」

そもそも私たちの生きている世界には、「生と死」「善と悪」「綺麗と不浄」と世の中には様々な、対極とされるものがありますよね?

その中でも特に単純な二元論として片付けられないのが「善悪」「正義と悪」だと思います。何故なら100人いたら100通りの「正しさや間違い」の価値観がそれぞれあるからです。

だからこそ、簡単に「こっちは正しいけどこっちは間違ってる」と決められない奥深さと難しさが存在しています。

仏教の考え方の中で、「生と死」「善と悪」「綺麗と不浄」など相反する概念が、それらは元々二つに分かれたものではなく、一つのものだという考え方があります。これは維摩経という経典に出てくる「不二法門」というもので、維摩居士という出家しないまま”悟り”に到達した「おじいさん」が主役の経典です。

不二法門は、生きると死ぬなどの対極にあるものを見極めることができれば、迷いも束縛も自ずとなくなる。=不二の法門に入るというものです。

例えばお金があるときは幸せだけど、お金が無くなったら不幸という対極を作ってしまうと、その振り幅によって心が疲弊してしまいます。快楽も苦痛も同じものと扱うことで心の縛り、いわゆる”執着”から解放される。振り幅のない状態こそが、苦しみを作らないために必要な姿勢であるという風に解釈できるかなと思います。

また、正しくあろう。良い行いをしたいというのもまた執着になって、苦しみを生んでしまう可能性もあります。前述した高校時代の私ですね。

そして『ダンマパダ』「法句経(ほっくぎょう)」ともいいますが、その経典にも登場してくる、「悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸仏の教えである。」という一節があります。

正しいことをしようと思うと、それは執着にもなるし、この世に絶対的に決まっている正しいことが決められているわけではないと思います。あくまで自分が正しいと思う正しいことしか、できないんですね。

であれば、「まず悪いことはしないようにしよう、そして自分の心を清らかにしていよう」結果的にそれが、「良い行い」「善」に必然的につながってくるということだと思います。

炭治郎でいえば、「正しくあろう」や「自分がしていることは絶対的に正しい」という発想がそもそも彼の中にないからこそ、ジャンプ一心優しい主人公とも評されているような気がします。

炭治郎は、鼻がとてもいいので、倒すべき鬼が悲しい匂いをしていたり、孤独な匂いや、救われたい匂いをしていることを感じることができます。

でも、わかるのは感情まででどうしてそうなったかまではわからない。相手を理解するまでに至らなくても、たとえ相手の行動が間違っていると思っても、精一杯寄り添おうとする。

自分の思う正義よりも、相手の救いを重視する。

どちらかというと「正しいかどうかはわからないけれど、自分が目の前の存在、人間でも鬼に対しても精一杯寄り添ったり、手を差し伸べたりできることをしていこう」という姿勢。

でもそれってとても難しいことです。だからこそ、それを心がけていかないといけない。そう思います。

今年は今まで以上に、誰かを守ったり寄り添えたりする言葉だけで生きていけたらいいなと思っています。


文・hasunoha編集部
SALLiA(サリア)

歌手、音楽家(作詞・作曲・編曲家・音楽プロデューサー)、仏像オタクニスト 。

「歌って作って踊る」というスタイルで話題を呼び、2016年11月USEN1位を獲得。さらに4週連続トップ10入りを果たした。さらに音楽家(作詞・作曲・編曲家)として楽曲提供を行ったり、県域ラジオ局のラジオパーソナリティ、全国のフリースクールでのボランティア活動等、その活動は多岐に渡る。

幼少期よりいじめ、不登校、家庭内の不和など、様々な生きる苦しみを感じながら成長し、20歳で「仏像」と出会う。そこからずっと感じていた「どんなに過酷な状況でも穏やかに、幸せに生きる方法」を本格的に模索し始める。

そしてUSEN1位獲得の翌年、足の事故に遭うという人生最大の危機が訪れる。しかしその人生最大の苦しみがきっかけとなり、仏像だけでなく本格的に「仏教」の勉強をし、「自分で自分を救っていく方法」を発信する「仏像オタクニスト」としての活動を始めることを決意。2018年4月、本名の畑田紗李から「SALLiA」に改名。

2018年12月3日、「生きるのが苦しいなら~仏像と 生きた3285日~」を出版。紀伊国屋週間総合ランキング3位やダ・ヴィンチニュース1位など、話題を呼んでいる。

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