仏像オタクニストSALLiAの「仏のトリセツ」vol.27「人のせいにしない人は「自立」している」
早いもので2022年も残すところ、あと1ヶ月半となりました。なかなか更新するタイミングがなくて申し訳ないです。少しでもhasunohaで私の発信する言葉を楽しみに待っていてくれる方がいたらいいなあと思いつつ、コラムを書かせていただいています。
今日のテーマ「自立」について。
私自身、「自立」とはなんだろうか?と考え、特にここ2、3年ほどずっと向き合い続けてきたテーマでもあります。
hasunohaでも「自立したい」というお悩みを寄せられている方も多く、少しでもそんな方々のお力添えになれば私も幸いです。
「生活的自立」と「精神的自立」
まず大前提として「自立」を、みなさんはどのように考えていますか?
「自立」という言葉を辞書で引いてみると「他の助けや支配なしに自分1人の力だけで、物事を全うすること」とありますが、だからこそ「自立=誰にも迷惑をかけずに1人だけでなんでもできること」と考えられる方も、多いのではないでしょうか?
ですが綺麗事ではなく、自分1人の力で全てをまかなうのは不可能です。私たちが口にしている食べ物も、誰かが作り、運び、店に並べ、レジを打つ人など、多くの人がそれぞれの役割を全うした結果、私たちの元へ届いているのです。
であれば「自立=すべてを1人の力でまかなう」という一つの大きな要素が「自立」している状態を作るのではなく、色々な複合的な要素が結集した結果「自立」という状態が生まれるのではないか?と私は考えました。
また自立の構造を考えた時に、外からみた「自立の状態」、自分の足で立ち生活するという「生活的自立」と、自分の内面的な問題である「精神的自立」の両軸が構造のメインにあるといえると思います。
ただ「生活的自立」は経済的な事情などによってケースはさまざまになり、話が飛躍しそうなので、今回は主に「精神的自立」についてフォーカスします。
究極の自分軸=自立
「自立」の話をする時に、「仕事をして自分の稼ぎだけで生活すること」を目指したいと話される方も多いですが、では「経済的な自立」だけがクリアできていたら、「完全に自立した状態」と言えるでしょうか?
自分で稼いだお金だけで生活していても、精神的に誰かや何かに依存していたらそれは「自立している」とは言えないと思いますし、実はこの「精神的自立」の方が目に見えないだけにとても難しいと感じています。
では、「自立」している精神状態はどんな状態なのか?
ダンマパダ(法句経)にある
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたことと、しなかったことを見るな。ただ自分のしたことと、しなかったことだけを見よ」
というお釈迦様の言葉をヒントに考えたいと思います。
これは「人の目を気にするな」というような解釈をされていることもありますが、私にとっては「他責的な思考をすると良くない」と言われているように感じました。
つまり「人のせいにしない」。すべて自己責任の元、他に依存せずに自分のやるべきことをひたすら見つめて遂行している状態こそが、「究極の自分軸で生きる」=「自立」ではないかと思うのです。
私は子供の頃から、大人たちに理不尽に怒られてきたと感じることが多かったためか、すぐに「だって~だから」「~がそう言ったから」とすぐに他責にして自分を守ろうとする癖がありました。
子供の頃から無自覚でその「他責的思考」を繰り返したために、その考え方が自分の当たり前の思考として定着してしまい、いつも「他人」を軸に考え、言葉を発し、行動していました。
だからこそいつも「誰か」と比べて、勝手に落ち込んだり焦ったりしていつも心も落ち着かなかったですし、「こんなはずではなかった」と思うことが起こるほど、「でもあの時~がこう言ったから」と、いつもどこかに逃げ道を探していたような気がします。
でも誰がなんと言おうと、選択したのは私なのです。
そして「誰かのせい」にしているうちは「自分の人生」を生きたことにはならず、「他人軸」に縛られて生きていることになります。
私は「だって、私がこう言わざるを得ないことをしている相手が悪い」と考える癖がありましたが、誰が何を言おうがしようが、それに反応しているのは「私の勝手」であって、それは他責にする「理由」にならないということに気づきました。
他人に何かを指摘したくなったり、苛立つ暇があるなら、自分のことだけを見つめて、良い意見は柔軟に受け入れつつ、人に左右されない「自分軸」を確立すべきではないか?そう思うようになったのです。
「他責的思考」だと不平不満が生まれる
「人がこうだから」「人にこう言われたから」を基準にしている時点で、「自立」は成し得ません。
周りはみんな稼いで、自分で生活しているから自分もそうなりたい。
自分はこれがしっかりできているのに、周りの人ができなくて腹が立つ。
なんであの人は自分より、評価されているのか?
これらはすべて他人に軸を置いているからこそ生まれる、不安や苛立ちや焦りなどのネガティヴな感情です。また誰にも頼ってはいけないというのも「人に頼る自分を認めたくない」という承認欲求や執着が元になっている場合も多いと思います。
ただひたすらに「自分はどうか?」を自分に問い続け、他人を基準としたところに振り回されず、自分がどう生きたら自分のことを認めることができるのか?自分を良しとできるのか?を基準とする。
これが明確な人は自ずと「自立」した状態になり、基準が自分軸だけなので、不平や不満が生まれるきっかけも減っていくと思います。実際、私がそうでした。
自立している人は、「自分で自分の機嫌を取れる人」とよく表現されてもいますが、それは「自分軸」で生きることで「他責にするポイント」を減らせていることにより、そういった利点が生まれているのだと思います。
本当の「自立」は、誰の助けもなしに1人で全てできることではなく、「誰のせいにもしない」自分軸で生きている状態のことを言うのではないか?というのが、ここ2、3年自分なりに向き合ってみて出た答えです。
経済的な自立が課題となっている方は、こだわりやプライドを捨て「今の自分に何ができるのか?」をひたすら問い続ければ、どんな選択肢や仕事も生まれるかもしれません。
そもそもこだわりやプライド自体が、他人と自分を比べて生まれてくるものだと思うので、やはりそういった執着から捨て、自らを戒める作業をすることが、自立への第一歩になるかもしれません。
歌手、音楽家(作詞・作曲・編曲家・音楽プロデューサー)、仏像オタクニスト 。
「歌って作って踊る」というスタイルで話題を呼び、2016年11月USEN1位を獲得。さらに4週連続トップ10入りを果たした。さらに音楽家(作詞・作曲・編曲家)として楽曲提供を行ったり、県域ラジオ局のラジオパーソナリティ、全国のフリースクールでのボランティア活動等、その活動は多岐に渡る。
幼少期よりいじめ、不登校、家庭内の不和など、様々な生きる苦しみを感じながら成長し、20歳で「仏像」と出会う。そこからずっと感じていた「どんなに過酷な状況でも穏やかに、幸せに生きる方法」を本格的に模索し始める。
そしてUSEN1位獲得の翌年、足の事故に遭うという人生最大の危機が訪れる。しかしその人生最大の苦しみがきっかけとなり、仏像だけでなく本格的に「仏教」の勉強をし、「自分で自分を救っていく方法」を発信する「仏像オタクニスト」としての活動を始めることを決意。2018年4月、本名の畑田紗李から「SALLiA」に改名。
2018年12月3日、「生きるのが苦しいなら~仏像と 生きた3285日~」を出版。紀伊国屋週間総合ランキング3位やダ・ヴィンチニュース1位など、話題を呼んでいる。