hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
24419views

仏像オタクニストSALLiAの「仏のトリセツ」vol.24「こだわりを捨てて生まれた「自由」と新たな「選択肢」」

みなさん、ご無沙汰しております。

前回の更新から半年以上も経ってしまいました。

実はこの半年の間に私、故郷の大分にお引っ越しをして、バタバタと忙しく新生活を始めておりました。

とはいえお仕事の内容は変わることなく、お仕事がある時は東京に上京して基本的には大分で生活をするという「生活スタイル」が変わっただけなのですが、私にとっては結構大きな決断でした。

今回はそんな私の新たな決断から得た、新たな選択肢についてのお話です。

好き勝手することが「自由」ではない

歌手になるために上京し、気づけば早13年が経過していた2021年。突如起こったコロナ禍により、人によってはお仕事を変えざるを得なかった方もいれば、生活スタイルや価値観を変えた方、私のように移住した方もいらっしゃると思います。

そして当たり前だと思っていた価値観は、あくまで「その瞬間瞬間」の「当たり前」に過ぎないということを思い知った方もいらっしゃるかもしれません。

実は私もその一人。芸能活動をしていく上で、私は「絶対に東京にいないと成功しない」とどこか執着にも似た「縛り」を課していたことに気づき、そしてそんな自分に思いの外ショックも受けました。

「自由」に生きているつもりだったのに、「東京にいること=成功の証」みたいに自分を縛っていたのです。

家に引きこもって、オンラインで毎日毎日仕事をし、パソコンと向き合う日々に疲れたといえばそうかもしれませんし、コロナ禍という「縛り」のある生活の中で、「自由」のアップデートを図ろうと考えた部分もあると思います。

突然ですが、みなさんは「自由」とはどんなものだと考えていますか?

なんの縛りも支配もなく、自分の好きに振る舞えたりすることが「自由」であると考えている方ももしかしたらいるかもしれません。

ですが、辞書で調べると自由の意味の中に「個人の自律的な判断、決定能力を発展させる構造的条件を備えていること」という風にでてきます。これは社会学的な意味とのことですが、自律的というのは、「他からも支配や助力は受けないが、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること」とあります。

好き勝手やってもいいというニュアンスからは遠く、どちらかというと「人の言うことを聞いている」方が楽だと感じる意味と受け取れますが、縛りや窮屈さは感じずに、でも自分できちんと責任の持てる形でコントロールできているという状態が、この場合の「自由」にあたる可能性が高いと私は考えました。

自由=自分に由る

そして元々「自由」は仏教用語でもあるのですが、サンスクリット語に訳すと自由は「ムクタ」と訳されます。ムクタは「解放する」という意味ですが、これはやはり執着や欲望などの自分自身で設けた「心の縛り」からの解放という意味だと私は考えました。

コロナ禍で楽しくない飲み会や満員電車の通勤から解放されて、より「自由」になった人もいれば、生き甲斐だったライブや飲み会に行けなくなって「不自由」になった人もいる。

両者の違いは、やはり「心」にあり、残念ながら私たちは心をコントロールするのではなく、心にコントロールされている場合の方がずっと多いのです。

そして私も無意識のうちに「芸能の仕事をするならば東京にいないといけない」という縛りを課し、それに気づいた時、私は思いました。

「その縛りは逆に、自分の可能性を狭めているのではないか?」と。

このままコロナ禍がなるべく早く明けることを祈りながら、高い家賃だけを払い続けて、新たな可能性に投資することもできずに逆にチャンスを逃すのではないか?

大分に拠点を移せば、東京で得たことが大分でも生かせるし、新たな分野の開拓と視野が広げられるのではないか?

そうして得た新たな実績は、これから先ずっと使える。今しか培うことのできないものがきっとあるはずだ。

もしそれで芸能の仕事が上手くいかなくても、どんな仕事でもして、食いつなげば良いのではないか?

メリットとデメリット、不安材料を並べ、最終的には「こだわりを捨ててやってみてもうまくいかなかったら、どんな仕事でもしてやる」という覚悟を決めることができて、私は初めて大分に拠点を移すことを決めました。

自由は「自分に由る」と書きます。自分に由来する、自らを根拠にするという意味であると考えるならば、「自分の中に理由を求め、誰のせいにもしない」と腹を括れた瞬間、人は初めて「自由」になれるのではないでしょうか?

そのための前提条件として、こだわりやプライド、~なければならないというような執着などは手放す必要があるのだと思います。

「自分の中の縛りに気づく」→「それらを手放す」→「新たな発想が生まれる」→「自分の中に理由を見出す」→「責任を自分に置く(腹を括る)」

というプロセスを経て、全ての要素が揃った時、人は真に「自由」になれるのかもしれません。

大分に帰ってきてからと言うもの、今まで挑戦したことのないお仕事の連続でおかげで少しやつれましたが…(笑)

でも毎日が楽しくて、嬉しくて、有り難くて仕方がありません。

不安ももちろんあります。プレッシャーもあるし、この好調が長続きするとも限らない。眠れない日もたくさんあります。

それでもあの選択をしてから、私の心は今のところずっと「自由」です。

疑問は新たな選択肢を生み、固執していると新たな発想は生まれず、自由を阻む。

これから先もずっと自由でいるために、自分の選択と向き合い、腹を括り続ける日々でしょう。


来年も、自由でいれますように。

みなさん、良いお年を!


YouTubeで仏教や仏像などの解説動画をアップしています!

毎週水曜19時に更新しているので、ぜひチェックしてみてください。


【SALLiA】の日日是好日ちゃんねる。

https://www.youtube.com/c/SALLiA


文・hasunoha編集部
SALLiA(サリア)

歌手、音楽家(作詞・作曲・編曲家・音楽プロデューサー)、仏像オタクニスト 。

「歌って作って踊る」というスタイルで話題を呼び、2016年11月USEN1位を獲得。さらに4週連続トップ10入りを果たした。さらに音楽家(作詞・作曲・編曲家)として楽曲提供を行ったり、県域ラジオ局のラジオパーソナリティ、全国のフリースクールでのボランティア活動等、その活動は多岐に渡る。

幼少期よりいじめ、不登校、家庭内の不和など、様々な生きる苦しみを感じながら成長し、20歳で「仏像」と出会う。そこからずっと感じていた「どんなに過酷な状況でも穏やかに、幸せに生きる方法」を本格的に模索し始める。

そしてUSEN1位獲得の翌年、足の事故に遭うという人生最大の危機が訪れる。しかしその人生最大の苦しみがきっかけとなり、仏像だけでなく本格的に「仏教」の勉強をし、「自分で自分を救っていく方法」を発信する「仏像オタクニスト」としての活動を始めることを決意。2018年4月、本名の畑田紗李から「SALLiA」に改名。

2018年12月3日、「生きるのが苦しいなら~仏像と 生きた3285日~」を出版。紀伊国屋週間総合ランキング3位やダ・ヴィンチニュース1位など、話題を呼んでいる。

この記事を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine