仏像オタクニストSALLiAの「仏のトリセツ」vol.26「人も自分も幸せにする「施し」ってなに?」
突然ですが、人に親切にするって「難しい」と思ったことはありませんか?
少し前のことですが、ウクライナ政府が発信した各国に対する感謝の動画に、日本の名前が入っていないことに対し、主に国会議員の方々から意義を唱える声が上がっていましたが、それに対してもまた国内で賛否ありましたよね。
国を通して行った支援に対してしっかり謝意を示すことは、国際的、政治的な背景があることは重々承知ですが、「感謝を求める姿勢はみっともない」という声をネットでも割と多く、「施しの美学」が日本人に根付いているのだなと、同時に関心もしたものです。
そしてちょうどそのタイミングでhasunohaさんから「布施」について、書いてみませんか?とご提案いただいたので、今日はそんな「布施」について書いてみたいと思います。
誤解の多い「布施」
「施し」を仏教的にいうと「布施」になり、「喜捨」と言ったりします。
布施というと、すぐに連想されるのが「お坊さんにお渡しする金品」かなと思います。
そしてその次に多いのが「布施=人にいいことをしてあげる」というもので、たまに「電車でおばあちゃんに席を譲ったのにお礼を言われなかった。まあでもいいことしたから布施ってことでいいか!」と言ってる方もいるのですが、実はこれだと「布施」に該当しないんですね。
元々の「布施」の意味は、渡す物やそのアクションがよりも、やはりマインド(心の姿勢)を重視したもの。
「布施」にはいくつか「それをやると布施に該当しない」という条件のようなものが定められています。
倶舎論という経典によると・・・
・断りきれずにする布施
・後腐れしそうだから仕方なくする布施
・見返りや返礼を期待してする布施
・名声を高めるためにする布施
など、そこに余計な邪念や雑念があると布施に該当しないと明確に言及されているんですよね。
周りにいいことをしてあげたと、自己肯定感をあげるためにするものでも、自分が後々得をするために行うことのために「布施」という行為はあるのではありません。
ただ「人にいいことをして生きよう」という綺麗事を掲げているわけではなく、「布施」は六波羅蜜という6つの修行法の一つに入っているものなので、実は修行の側面がすごく強いものだと私は認識しています。
つまり「自分の執着を手放すトレーニング」として「布施」という現実的なアクションが決められているということです。
ミニマリストという言葉も流行っていますが、方向性的にはそれらに近しく「手放すことで得る」という発想です。
ただ、「得たいから手放す」になると「執着」になってしまうのでそこらへんが難しいところではありますが、「布施」って私は「結果論」なのかもしれないと最近思うのです。
なぜ、「喜んで捨てる」なのか?
「布施」は「喜捨」ともいうと、序盤で書きましたがなぜ、「喜んで捨てる」なのか?と皆さんは思いませんでしたか?
相手のために何かを捨て差し出せる喜び、それこそが私は「布施」の本質ではないかと感じています。
ニュアンスがとても難しいのですが、自己犠牲でもなく、自らもへつらうわけでもない「押し付けがましくないシェアハッピーの精神」。
そして「執着から離れた時に自然とできるアクション」それこそが「布施」なのかなと思います。
例えば自分が「その人に何かをしてあげたい」と思って自然とした。そしたらそれを相手がすごく喜んでくれた。そしたらそれは立派な「布施」です。
でもその人に感謝されたくてしたのなら「布施」にはなりません。
たとえ感謝されなくても、それをすることに意味を感じて、した時点で布施のゴールテープは切られていると思うのです。
とはいえ、仰々しいことをする必要はありません。
「無財の七施」というものがあり、それらは「笑顔で人と接する」「誰かを幸せにできるような言葉を使う」「自分以外のものに心配ること」など、日常の中でもすぐにできる「布施」はあります。
私はよくエレベーターを開けてもらった時や、譲ってもらった時すぐに「すみません」って言ってしまう癖がありましたが、「ありがとう」と言われた方がきっと幸せに思ってくれるだろうと思い、頑張ってその癖を治したことがあります。
コロナ禍になってマナーのあり方や、どうしたら相手が心地よくなるのか?などのニーズも大きく変わっていますよね。
ソーシャルディスタンスを取らないといけなかったり、直接触れるのが憚られるようになったので、昔よりも直接的に人に親切にしにくい時代にはなってしまっていると感じます。
だからこそ今必要な「布施的視点」は、やってあげることよりも「やらないこと」の方がもしかしたら大切かもなんて思っています。
相手を不快にさせないようにする。理解できない行いを相手が仮にしていても、責めたり圧をかけないようにする。文句を言ったり、不満を言ったりしないようにする。みんなが嫌な気持ちになるような空気にしないようにする。
殺伐としている世の中だからこそ、そういう視点の行いも今ならば「布施」と言ってもいい部分もあるのかもしれません。
気づいたら周りも自分も、「結果的」に幸せにしてくれるのが「布施」の素晴らしいところですよね。
私もまだまだ「布施」修行の途中です。
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歌手、音楽家(作詞・作曲・編曲家・音楽プロデューサー)、仏像オタクニスト 。
「歌って作って踊る」というスタイルで話題を呼び、2016年11月USEN1位を獲得。さらに4週連続トップ10入りを果たした。さらに音楽家(作詞・作曲・編曲家)として楽曲提供を行ったり、県域ラジオ局のラジオパーソナリティ、全国のフリースクールでのボランティア活動等、その活動は多岐に渡る。
幼少期よりいじめ、不登校、家庭内の不和など、様々な生きる苦しみを感じながら成長し、20歳で「仏像」と出会う。そこからずっと感じていた「どんなに過酷な状況でも穏やかに、幸せに生きる方法」を本格的に模索し始める。
そしてUSEN1位獲得の翌年、足の事故に遭うという人生最大の危機が訪れる。しかしその人生最大の苦しみがきっかけとなり、仏像だけでなく本格的に「仏教」の勉強をし、「自分で自分を救っていく方法」を発信する「仏像オタクニスト」としての活動を始めることを決意。2018年4月、本名の畑田紗李から「SALLiA」に改名。
2018年12月3日、「生きるのが苦しいなら~仏像と 生きた3285日~」を出版。紀伊国屋週間総合ランキング3位やダ・ヴィンチニュース1位など、話題を呼んでいる。