仏像オタクニストSALLiAの「仏のトリセツ」vol.7 声を上げることは、本当に戦うこと?
突然ですが、来月新曲をリリースすることになりました。仏像オタクニストというお仕事の他に、私には歌って作って踊るアーティストというお仕事をさせていただいているのですが、今回は久々のCDリリースです。(昨年は配信リリースでした)
とはいえ、アーティストとしての発信したいことと、仏像オタクニストとして発信したいことはほぼ同じです。表現方法とツールの違いぐらい、という認識ですが、やはり殊更、音楽となると「今だからこそ伝えたいメッセージ」みたいなものが重要かなあと思っております。
そんなわけで、私が今一番伝えたいメッセージを曲に込めたものが来月発売の「僕はもう戦わない。」という曲なのですが、せっかくなので「仏像オタクニスト」としても、このコラムを通して少し発信してみたいと思います。
SNSに使われている私たち
「僕はもう戦わない。」というタイトルが、渋谷の街を歩いている最中に、ふと思いつきました。
主張してナンボの、今の世の中。主張する側も疲れるし、受け取る側も疲れてる。それでも歩みを止めるわけにはいかない。
SNSというものが生まれ、発達する中で、私たちがそれを使っているというよりは、「SNSに使われている」という感覚があるのではないか?と思っていました。
自分というものを主体にして使うはずのSNSが、SNSという存在ありきで私たちの生活が廻っている。
自由さを求めて、世界の人と繋がったのに、それがいつしか縛りになって不自由さを感じる。世界の広さを感じるはずが、人間という枠の狭さを感じてしまう。
本質はどんどん見失われ、足並みをそろえて虚構に向かって歩いていく。
言うなればそんな感覚が、私の中には常にありました。
何かあれば、みんなでSNSに自分の意見を書き、誰かが何かをやらかせば一斉に攻撃を始める。まるで、一人一人が「正義の味方」とでも言っているかのように行われるその行為が、私には怖くて怖くて仕方ありませんでした。
なぜ怖かったのかというと、気を抜くと自分もそれに簡単に流されてしまいそうだったからです。
ネットの口コミを参考にして商品は買うし、何かニュースの記事があがるとコメントもつい、見たくなってしまいます。それは自分の思っていることや、感じていることが、みんなと一緒だったら安心できるという心がどこかに存在しているからなのでしょう。
自分の主張が誰かと一緒であれば、自分の「正しさ」が証明されたと一見思えてしまいます。そうやって、正しければ言っていい、攻撃してもいいと思わせてしまうところがSNSの怖さだと私は感じていました。
なんのために声を上げるのか?
だけど、そもそも「なんのために」声を上げるのでしょうか?
もちろん、上げるべき声は上げるべきだと思います。metoo問題にしろ、LGBT問題にしろ、保育園問題にしろ、誰かが声を上げなければそういう実態や、実情があるということすら知ることもできないままだったでしょう。
しかし、本当に聞かねばならない声が、外野の「戦っているつもりな声」によってかき消されている可能性もあります。あげている声が、本当に上げるべき声なのか。それともただの野次なのか。
そして、その上げる声は「誰のため」のものなのか。自分が正義の味方になりたい、エゴのためにあげている声なのか、本当に誰かを後押ししている声なのか。
何かが発達するということは、同時に何かが衰退してしまう恐れもあります。
だからこそ、本質を見失わないように、常に自らにそれを問い続けなければいけない、そう思います。
大多数に混ざって、声を上げていると「戦っている気」になれる。でも、声を上げることがゴールではなく、声を上げることで生まれるその先、こそが真のゴールではないでしょうか?
戦わない、戦い方。声を上げない、声の上げ方。
私はアーティストと仏像オタクニストとして、色々な発信をさせていただいております。その中で「お前の考え方は違う」と言われることも中にはあります。
昔は、いちいちそれに傷ついていたし、憤りも感じていました。だけど、最近は全くそれを受け取らなくて済むようになりました。
結局は、自分がいいと思ったものを精一杯やっていくしかないからです。もちろんそれが慢心によるものではいけないと思います。だけれど、自分がどれだけ一生懸命やっているかは自分がよくわかっています。そして逆にどれだけ手を抜いたのかも。
自分は確かに一生懸命やった。だから自分のことを信じられる。という状態を、自分を信じると書いて「自信」と読むと私は解釈しています。
でも逆に、自分の中の負い目があって、十分に自信がない状態の時に誰かから何かを言われた時、思わず「反論」したくなってしまいます。それは相手のせいではなく、自分の中の心のひっかかりがそうさせるのです。
だから今は割と何を言われても、「なるほど。そういう考え方もあるのね。」と素直に思えるようにもなりました。
実際に有名なエピソードですが、お釈迦さんのエピソードでこんなエピソードがあります。
ある時、お釈迦さんを妬んでいる男がお釈迦さんの目の前でお釈迦さんを散々罵倒しました。しかしお釈迦さんは何も言い返しません。
男の目的は、「お釈迦さんが口汚く言い返してくること」だったのですが、お釈迦さんがあまりにもノーリアクションなので、どんどん虚しくなっていきました。悪口を言い続けることも、かなりのエネルギーを要します。男は疲れてその場にへたりこんでしまいました。
その姿を見てお釈迦さんは言います。
「もし相手に贈り物をして、それを受け取らなかったらその贈り物はどうなる?」と。
男は言います。「それは贈ろうとした相手のものになるだろう。」そしてそこまで言って男は気づきました。自分が「自分が言った悪口を受取拒否され、その悪口を自分が受け取らなければならない」ということに。
宅配便でも受取拒否をすれば相手に戻ります。それと同じことを、宅配便のシステムがない時代にお釈迦さんはもう仰っていたのですね。
そしてお釈迦さんはわざと言い返さなかったのではなく、お釈迦さんは「言い返す必要すら感じていなかった」のだと、私はそう感じました。
お釈迦さんのその姿勢は、「戦わない」という「戦い方(生き方)」。今の時代にこそ、必要な「戦い方(生き方)」なのではないか?私はそう思い、「僕はもう戦わない。」という曲を作りました。
このタイトルが最初に浮かんで、そこからスルスルと詞が生まれ、久々に詞先で作った曲となりました。
「戦わない」という「戦い方」。そして「声を上げない」という「声の上げ方」。それは普通の戦い方、声の上げ方よりも、強い意志を要します。誰に何を言われても、言い返したりする必要はない。自分の中に本当に強い信念があるのならば。
これからも私はそんな風に生きていきたい、という意志表示も込めた1曲になっています。そして歌うのが死ぬほど難しい、ハードな曲でもあります。自分を色々試している1曲です(笑)
もしよかったら秋の夜長に「僕はもう戦わない。」どうぞよろしくお願い致します。(土下座
新曲のお知らせ
「僕はもう戦わない。」
リリース日:2019年11月19日
価格:1,000円(税抜き)
<SALLiA「僕はもう戦わない。」応援店特典配布 対象店舗>
・タワーレコードオンライン
・タワーレコード渋谷店
・タワーレコード横浜VIVRE店
・タワーレコード名古屋近鉄パッセ店
・タワーレコード梅田NU茶屋町店
・タワーレコード福岡パルコ店
タワレコオンラインご予約はこちらから
https://tower.jp/item/4963550/僕はもう戦わない%E3%80%82
SALLiAが講師を務める「仏と寺子屋会」のお知らせ
今月のテーマ「何も失わない諦め方」
日時:2019年10月20日(日)13:30〜15:00
場所:豊川稲荷東京別院
参加費:¥1,000
お申し込みはこちらから
https://www.kokuchpro.com/event/78ed870a11113f25aa1dba15df048951/
歌手、音楽家(作詞・作曲・編曲家・音楽プロデューサー)、仏像オタクニスト 。
「歌って作って踊る」というスタイルで話題を呼び、2016年11月USEN1位を獲得。さらに4週連続トップ10入りを果たした。さらに音楽家(作詞・作曲・編曲家)として楽曲提供を行ったり、県域ラジオ局のラジオパーソナリティ、全国のフリースクールでのボランティア活動等、その活動は多岐に渡る。
幼少期よりいじめ、不登校、家庭内の不和など、様々な生きる苦しみを感じながら成長し、20歳で「仏像」と出会う。そこからずっと感じていた「どんなに過酷な状況でも穏やかに、幸せに生きる方法」を本格的に模索し始める。
そしてUSEN1位獲得の翌年、足の事故に遭うという人生最大の危機が訪れる。しかしその人生最大の苦しみがきっかけとなり、仏像だけでなく本格的に「仏教」の勉強をし、「自分で自分を救っていく方法」を発信する「仏像オタクニスト」としての活動を始めることを決意。2018年4月、本名の畑田紗李から「SALLiA」に改名。
2018年12月3日、「生きるのが苦しいなら~仏像と 生きた3285日~」を出版。紀伊国屋週間総合ランキング3位やダ・ヴィンチニュース1位など、話題を呼んでいる。