仏像オタクニストSALLiAの「仏のトリセツ」vol.3 「一人で死ね」問題から考える天上天下唯我独尊
死にたいなら一人で死ぬべき?
5月28日。川崎市登戸で19人が殺傷された悲しい事件が起こりました。その時話題になった、とあるつぶやき。「死にたいなら一人で死ぬべき、という非難は控えてほしい」というもの。
ネットでは賛否両論でした。そして私もその言葉を見て、思わずギクッとしてしまったのです。あまりの凄惨な事件を前に、反射的に私も「そう」思ってしまったから。
でもその後、すぐにこの言葉が浮かびました。
「天上天下唯我独尊」
ある意味で、ブッダ、お釈迦さんが残した言葉の中で一番知名度の高い言葉かもしれません。そして同時に、一番誤解を持たれている言葉でもあります。
一般的に、「自分の命はこの世で一番尊い!」という自分至上主義的言葉として認知されていますが、本来の意味では逆で「この世界に生きている命、みんな等しく尊い。」という意味でお釈迦さんは仰いました。
今回のコラムの目的は、こんな事件をまた起こさないために、私たちが出来ることが果たしてあるのか?私なりの考えを書いてみたいと思います。
命は本当に、等しく尊いのか?
子供の頃から、私は大人たちからそう言われる度に、「本当にそうなのか?」とずっと疑問を抱いていました。
たくさんお金を稼ぐ人も、貧しい人も、泥棒をする人も、人の役に立っている人も、生まれたての子供も、老人も、みんな「命」であるだけで、「尊い」と言うことになる。じゃあ、何を持って「尊い」というのか?
それは「なぜ、命を奪ってはいけないか?」にも繋がってくる重大なテーマです。
そして私が、何故その答えを必死に求めていたのか。それは自分の命が尊いだなんて、とてもそう思えない時期があったからです。
芸能という仕事をしているからと言うのもありますが、顔の知らない無数の相手から届く心無い言葉。現実世界で繰り広げられるパワハラ。この世に味方なんていない。私の命がぞんざいに扱われているような感覚。
道行く誰かが、私に心無い言葉を吐いた人に見えて、意地悪なことをした人の顔に見えて、世界中の人が憎くて、みんな死ね!むしろ誰かを殺して、自分も死ぬ!なんてことが頭をよぎったことすらあります。
私を引き戻してくれた、「生きたい」という気持ち。
でも私がそれを、実行しないで済んだのは「生きたい」と思う理由が探せたからでした。そしてその「生きたい」と思う気持ちこそが「命の尊さ」に繋がると、私は今、そう思っています。
お釈迦さんは言いました。
「この世のどんな命も死にたくない、と思っている。他者からの攻撃を恐れている。死から逃れることは生存本能だからだ。だからあなたと同じように、他のみんなも死にたくない、と思っているのだと実感したなら、どんな命もわざと殺さず、あなたの命も殺させないように。」と。
いざ死のうと思って、仏像さんに会いに行ったら、「生きたかったんだ」ということに気づいて、私は戻ってくることができました。
生きていないと、死にたいと思うこともできない。美味しいや不味いも感じることができない。布団やお風呂の気持ち良さも実感できない。誰かを嫌いと思うことも、好きだと思うこともできない。生きてないと、生きてる間にできることは何もできないということに、改めて気づいたのです。
そうか。だから「生きているだけで命は尊い」のか。
そして誰かが何気なく言った「生きてないとまた会えないじゃないか」という言葉のおかげで、誰の命も、私の命も奪わずにまだ生きることが出来ています。
「自愛」を「慈愛」に変えて
とはいえ奪われた命を前に、奪った側の命のことを尊いと言うことは、正直私にはできません。他者を巻き込まず一人で死ねという気持ちも、痛いほど分かります。
でも同時に「本当に手を差し伸べなきゃいけなかったのは、奪わなきゃいけないという極論に向かった命」でもあるという矛盾。
救いの手、は「慈愛(慈悲)」とも言い換えることができると私は思います。「慈愛」というのは、他者を通してしか実感できないものだと私は思います。
だからこそ、その実感を得られなかった場合、失うものや引き止めるものがなくなり、暴走してしまう。慈愛とは他者との繋がりを実感することでもあります。
誰かの命を奪う、は究極の「自分の都合を優先させた結果」。つまり自分至上主義の「自愛」であります。自分の不幸や、苦しみを優先させる「自愛」こそが、引き金を引く原因ではないでしょうか。
「天上天下唯我独尊」はお釈迦さんの慈悲深さが、ある種最も表れた言葉であると思います。「自愛」の言葉として認知されていますが、実はとても「慈愛」に満ちた言葉です。
そう考えてみると「死にたいなら一人で死ね」と言う言葉は、決して「慈愛」の言葉ではありません。その言葉は、今まさに死にたいと思っている人を追い詰める言葉になってしまうのではないでしょうか?
そうして知らないところで誰かを追い詰めて、私たちは知らないうちに「加害者」になり、さらに新たな「加害者」を生んでしまう一端を作っているのではないでしょうか?
仏教では、みんなが必ずどこかで影響しあっている、繋がっていると考えます。つまり漫画「鋼の錬金術師」でも出てきました「一は全 全は一」です。
だからこそ、誰もがほんのちょっとしたことで、加害者にもなってしまう可能性がある。だからこそ逆に、誰かの「慈愛」が誰かの「究極の自愛」を止めることも出来るかもしれない。もちろん綺麗事と言われるでしょう。私もいざ、そんな場面が来たら本当にできるか分かりません。
でも、出来たらいいなと思います。綺麗事を綺麗事のままで終わらせないのも、命が等しく尊くあることが出来るのか、も。それを証明できるのも、命である私たちなのですから。
※お知らせ
豊川稲荷東京別院さんで6月から、仏教講座を始めさせていただいています。
「仏と寺子屋会」
・第4日曜 13:30〜15:00(次回開催日 6月23日)
・場所:豊川稲荷東京別院(〒107-0051 東京都港区元赤坂1丁目4−7)
・受講料:1,000円
生きるための様々なテーマを仏教、仏像を通して皆で考える参加型の会です。宜しければ、是非お越しください!
歌手、音楽家(作詞・作曲・編曲家・音楽プロデューサー)、仏像オタクニスト 。
「歌って作って踊る」というスタイルで話題を呼び、2016年11月USEN1位を獲得。さらに4週連続トップ10入りを果たした。さらに音楽家(作詞・作曲・編曲家)として楽曲提供を行ったり、県域ラジオ局のラジオパーソナリティ、全国のフリースクールでのボランティア活動等、その活動は多岐に渡る。
幼少期よりいじめ、不登校、家庭内の不和など、様々な生きる苦しみを感じながら成長し、20歳で「仏像」と出会う。そこからずっと感じていた「どんなに過酷な状況でも穏やかに、幸せに生きる方法」を本格的に模索し始める。
そしてUSEN1位獲得の翌年、足の事故に遭うという人生最大の危機が訪れる。しかしその人生最大の苦しみがきっかけとなり、仏像だけでなく本格的に「仏教」の勉強をし、「自分で自分を救っていく方法」を発信する「仏像オタクニスト」としての活動を始めることを決意。2018年4月、本名の畑田紗李から「SALLiA」に改名。
2018年12月3日、「生きるのが苦しいなら~仏像と 生きた3285日~」を出版。紀伊国屋週間総合ランキング3位やダ・ヴィンチニュース1位など、話題を呼んでいる。